2008年10月3日金曜日

レバランでおいしいもの

出遅れでマカッサル脱出とならなかった今回のレバラン。仕事先からの「宿題」もあり、まあそれなりにいろいろと、しかし、ゆっくりと過ごしている。

運転手には1週間のレバラン休暇を与えたので、今週は、人通りが少ない(はずの)マカッサル市内で自転車三昧、と思っていたのだが・・・。なぜか、ハンドルから本体につながる金属部分がパカッと切れてしまって、操作不能になってしまったのが10月1日。不幸中の幸いか、自宅から街中までの大通りではなく、街中だったので、厚かましくも、近くの友人宅に預かってもらうことにした。まだ買って1年ちょっとしか経っていないのに(まあ、そんなもんなのかな)。もちろん、自転車屋はまだ開いていない。

世の中、お店はモール以外はほとんど閉まっているので、外食するのは大変だ。ムスリムのお手伝いの多くは規制するのだが、その点、我が家のお手伝いは帰省しないので、家にいる限り、食事は問題なし。例年どおり、今回のレバランでも、クトパッ(米を葉っぱに包んで蒸したもの)とカリ・アヤム(鶏肉カレー)を作ってくれた。クトパッは、言ってみれば、日本の正月の餅のようなものだ。


たまたま帰省しなかった我が家に出入りする若者たちと一緒に、「お正月特別料理」を楽しんだ。

祝日2日目の昼食は、サゴやしデンプンの団子入りスープである「カプルン」を作ってくれた。お手伝いは、南スラウェシ州北東部、今の北ルウ県で育ったため、彼女の作るカプルンはいつ食べてもおいしい。今回は、鶏肉のカプルン。いつもはミルクフィッシュ(イカン・ボル)を使うのだが、鶏肉のも変わらず美味だった。



2008年9月30日火曜日

もしかして違う道だったのかも・・・

2日前に書いたブログ。あまりにも1年前に訪れた時と変っていたので、もしかしたら、間違って違う道を通ったのかもしれない、と後で思い起こしていた。より、もう一度、行ってみよう。ということで、もう一度、自転車に乗って行ってみた。そして、やはり2日前に書いたブログの道は、違う道だったと分かった。読者の皆様にお詫び申し上げたい。

今回、通った道の様子は以下のようである。

(2008年9月30日)

(2007年7月28日)


(2008年9月30日)

(2007年7月28日)

明らかに、2日前に通った道とは違う。でも、やはり変化は起きていたのだ。道幅は広くなり、バナナの木も本数がだいぶ減っていた。水路は、1年前にはなかったホテイアオイで埋め尽くされていた。道の脇には、やはり、ひょろひょろっとした苗木らしきものが植えられ、放置されていた。

似たような光景が似たような場所にあって、地図で正確に確かめないと、どこを通っているのかわからなくなることもよくある。

でも、今回通った道も違う道だったりして・・・。

2008年9月29日月曜日

生活用具に注目する

人は、その生活環境に合わせて、様々な生活用具を作って暮らしてきた。生活用具の変遷を見れば、その土地の人々の生活がどのように変化してきたのかを知ることができる。

しかし、そうした生活用具が次々に姿を消してしまっている。簡便で扱いやすいプラスチック製のどこにでもある食器などに取って代わられ、使われなくなった用具はどんどん捨てられていく。

トラジャのクテケスを訪れたとき、トンコナンの1階にある小さな博物館を見学した。展示物に何の説明もなく、ただ無造作に置かれているだけの、博物館というよりは倉庫という趣の場所であったが、人々が日々の生活で使っていたであろう、様々な生活用具が置いてあった。一つ一つ「これは何ですか?」と聞いて、写真に撮って並べたページを次のサイトに作ってみた。

トラジャの生活用具

博物館を管理するアグス氏によると、他にもまだたくさんの用具がガサゴソと置いてあるという。これを整理し、説明をつけてカタログを作ってはどうか、と提案した。

木製の生活用具は、南スラウェシ州ブルクンバ県のカジャンの村に行ったときにも見た。しかも、カジャンの人々はまだそうした用具を生活の中で使っているのである。しかし、そこにもプラスチック製の簡便な用具が入り込んできていた。

人々が簡便でより便利な生活を求めるのは当然のことである。しかし、それまで使っていた用具を何らかの形で残し、自分たちの生活の記憶を失わせない努力も必要なのではないか。生活用具を作ってきた技術やそれを生かした生活の記憶は、誰も継承することなく、あっという間に消えていく。それは、私自身のこれまでの生活姿勢への反省でもある。

2008年9月28日日曜日

1年前に訪れた田園風景は・・・

今週1週間は、イスラムの断食明け大祭前後ですっかりお休みモード。航空チケットを買うのに出遅れてしまった私は、自宅でゆっくりとこの休みを過ごすことにした。でも、家にずっといると体が鈍ってくるので、昨日は街中を2時間ぐらいぶらぶら歩き、今日は、昨年7月28日に自転車で散歩した辺りをもう一度自転車で散歩してみた。ふと、マカッサルの郊外に残されたのどかな田園風景をもう一度見てみたい、と思ったからだ。

昨年の散歩の様子は、前のブログに書いたので、それを参照してほしい。

前に行ったときは、たしか橋のところから入るはずだったが、それらしい橋の風景がわからず、前回の逆コースでまわることにする。前回の出口となった橋はすぐに見つかり、そこから逆に入っていったのだが・・・。

(2008年9月28日)

何となく、様子が違うのだ。道がやけに広くなっている。道の脇には苗木らしきものが植えられている(Makassar Go Greenというキャンペーンに沿ったものなのか?)。道端の水田がほとんどなくなっていた。そして、道の周りにはゴミが打ち捨てられ、様々な廃品回収物の山があった。

「土地売ります」の小さな看板を見かけた。他になかったところをみると、土地はあらかたすでに売られてしまったようだ。

(2008年9月28日)

ちなみに、同じ付近の前回の写真は以下のようだった。

(2007年7月28日)


同じく、上が今日の状況で、下が前回である。

(2008年9月28日)


(2007年7月28日)


(2008年9月28日)

(2007年7月28日)


わずか1年余の間に、風景が全く変わってしまっていた。この道路の手前には、新しく建売住宅が何軒も建設中であった。


これもマカッサルの都市化の光景の一つなのだ。日本でも、どこの国でも、経済が発展していく過程で、こうした光景をたくさん生み出しつつ、何かを得ると同時に別の何かを失いながら、「豊かな生活」の実現を目指してきたのだろう。ここに住んで、お米を作っていた人々は、どこへ行ってしまったのだろうか。そして、行った先で、幸せな暮らしを送っているのだろうか。余計なことかもしれないが、送っていてほしいと思わずにはいられない。

先週、職場で開発戦略に関する議論を行った際、地域性に基づくアイデンティティを重視した戦略がこれから必要ではないかというような話をした。そのとき、職場の友人から「市場原理に基づき、儲かるか儲からないかで動く住民にそんなことを言っても無駄だ。政府もそうした住民の意向に沿って政策をしなければならない」と反論された。

自分を自分たらしめている大事なものを惜しげもなく捨て続けているメインストリームを見ていると、地域再生の新たな希望は、もはや一見発展から取り残されたかのような、辺境の山村にしかないのかもしれない、と思ってしまう。田園風景を一変させた大きな強い流れと向かい合いながら、どのように自分を見失わない地域開発を目指していけるのか。毎日のように、希望と絶望の間を行ったり来たりしながら、スラウェシの日々の変化を見つめている。

2008年9月22日月曜日

辞職=責任をとる?

今日、自民党の総裁選が予想通りの結果で終わった。これについては何の感慨もない。日本の外から見ているせいもあるのだろうが、次から次に明るみになる深刻な問題の本質を解決しようという真剣さが見えず、小手先でかわそうとしているようにしか見えない。しかし、そんな現状を思い切って変えようという真剣な動きもなかなか見えてこない。

このまま日本はずるずるっと沈んでいってしまうのではないか。インフレ気味で、様々な問題は内包しているものの、経済全体がそれなりに活況を呈しているマカッサルにいる身からすると、失礼ながら、そんな印象を持ってしまうのである。この間、垣間見たマレーシアやカンボジアの躍動感につながる気分をここでも味わえるのだが、ゴタゴタの日本はずっと遠くなってしまうかのようである。

それでも、当地の多くの人々は、以前の日本をまだイメージしているのかもしれない。太田農水相が辞任した際、当地の地元マスコミは、「日本では責任を取って辞任するのに、インドネシアの政治家は辞任する者はいない。恥を知らないのか」と、またまた日本のハラキリ礼賛の論調を展開した。福田首相が突然辞任したときも同様であった。日本のマスメディアが伝える感覚とのギャップがとても大きいのである。もっとも、福田首相が辞任した際、日本のある有名な専門家が、「福田首相の辞任は責任をとる立派なものであった」と論じたのを、複数のインドネシアのメディアが報じていたのが興味深かった(インドネシア語記事の例)。なぜなら、この専門家の見解自体が日本の世論とかなりかけ離れているように見えたからである。

当地には、いわゆる恥の文化がある。恥をかかされた際、それが自分に非のあるものならば、潔くそれを認める。これは日本の武士道と同じなんだ、という人もいる。日本の政治家の辞任は、こうして、今も「武士道の表れ」と解釈する言説が根強いのである。

官僚や政治家が責任を取らない、という現象は、日本もインドネシアも同じではないだろうか。責任をとるということは、職を辞める辞めないではなく、誰かのせいにすることなく、自分の真剣さを誠実に相手に見せることから始まるのではないだろうか。

どういうふうに調べたかは忘れたが、「インドネシアは世界中で最も親日的だ」という調査結果を見たことがある。日本人としてもちろん歓迎すべき話ではあろうが、それが、ちょっと前までの日本の素晴らしさをイメージして、日本を美化してくれる人々のおかげである、という現実をおさえておかなければならないだろう。

負の部分も含めて、本当の日本の姿をもっとインドネシアの人々に伝えていかなければならないと思うのだが、それは、心優しきインドネシアの人々の日本への憧れにも似た気持ちを落胆させ、日本への関心を急速に冷めさせる効果をもたらすかもしれない。虚像でも何でも、とにかく日本に親近感を抱いてくれればラッキー、という時代はもう終わったのではないか。そして、プラスもマイナスも理解したうえで、ちゃんと付き合う関係を作る時代を迎えているのではないかと思うのだ。

本当の親友、かけがいのない友は、そうやって作るものだろう。国と国との関係も、個々人の親友づくりと同じではないだろうか。

2008年9月20日土曜日

マカッサルでフランス料理はいかが?

先週は、知り合いの大学の先生に同行してトラジャへ出かけていたりして、ブログの更新を怠ってしまった。断食中というわけではないのだが、何となくブログ更新の意欲が低下していた毎日であった。というわけで、久々の更新である。

今日は、ひょんなことから、一人の若きフランス帰りの料理人エコさんと知り合った。彼はフランスで料理の修業をし、その後、アジア各国で経験を積んで、半年前に帰国。マカッサルで自分なりの料理道を進もうと努力したのだが・・・。マカッサルの人々の料理に対する保守的な意識やより良いものを目指そうとせずに適当なところで満足してしまう態度などに直面し、マカッサル流のフランス料理を作りたいという当初の意欲が萎えてしまってきていたという。

そんな彼の話を聞きながら、食後のデザートに味わったホットチョコレート。


これは、濃い。本格的な香りと味のホットチョコレート。こんなホットチョコレートをマカッサルで味わえるとは・・・。カカオはスラウェシ産だが、その加工は、ジャカルタで行っているとのこと。

次に味わったのは、彼が仕込んだアイスクリーム、抹茶とピスタチオの2品。


この抹茶アイス、しっかり日本茶の味がする。日本茶の粉末をジャカルタから入れているとのこと。日本で食べる良質の抹茶アイスと同等の濃厚な味。一方、ピスタチオのほうも、しっかりとピスタチオの味が出ている。多くの客はバニラ、チョコレート、ストロベリーを注文するというが、お勧めはこの抹茶とピスタチオだ。

エコさんに提案した。もし、前もって予約をしたら、マカッサルの食材を活用したフランス料理のフルコースを作ってくれるか、と。彼はちょっとびっくりしながらも、「3~4日前に注文してくれるのならば、ぜひやりたい」と答えてくれた。彼の創作意欲を沸かさせるためにも、メニューは彼にお任せしたほうがいい、ということになった。

「こんな何かやりたいという気持ちになったのは久々のことだ」とエコさんは興奮気味。

とくに海の食材の豊富なマカッサルなのだから、おいしいフランス料理やイタリア料理が食べたいと思う私なのだ。マカッサルの一般的な傾向に合わせざるを得なくなり、エコさんが仕方なくNasi GorengやCoto Makassarを作ることで満足しなくてはならない、そんなことが起こってほしくはない。今回の彼との出会いをきっかけに、マカッサルに新しい食の文化が生まれたらいいなあ、などと思うのである。

ともかく、こうして、予算は要相談としても、マカッサルでフランス料理を食べることができることになった。さっそく、断食明けの後にでも、私自身、企画してみたいと思っている。

どうでしょう、皆さん。マカッサルでフランス料理はいかが?

エコさんの連絡先は以下の通り。de LunaはSejahteraデパートの建物の4階。フランス料理を食べる場合には、3~4日前に人数と予算を問い合わせてほしい。

Eko Hadiwijaya
Executive Sous Chef
de Luna Resto & Cafe
Jl. Jend. A. Yani No. 37A-B, 4th Floor, Makassar
Tel. 0411-321333, Fax. 0411-324306
HP: 0811-413180

2008年9月8日月曜日

千客万来も一段落・・・

先週から今週にかけて、日本からスタディ・ツアーに来ている二つの大学生の一行と時間を過ごす機会があった。大学生は2~3年生が主体で、20人以上がまとまって、あるいはグループに分かれて行動する。学生だけでまわる一行もあれば、ほとんどをホームステイですごす一行もある。前者は日本の経済協力の実態を学ぶという明確な目的をもっていたし、後者は異文化体験それ自体に目的を定めていた。

しかし、共通していたのは、いずれも単なる物見遊山ではなく、積極的に学ぼうとする態度だった。そして、柔軟な思考のできる彼らは、私が繰り出す謎かけのような質問に懸命に答えようとし、その答えをあれこれ考えるプロセスのなかから、物事を多角的に見ること、自分を相手の立場に置き換えて考えることの重要さを学んでくれたようであった。

それにしても、大学2~3年生でこんな経験を主体的にできる彼らがとても頼もしく見えた。彼らが来るまでに耳に入ってくる話といえば、近年の若者の内向き志向、東南アジアなどの異文化世界への無関心な傾向、といった話であった。もしかすると、今回来た学生たちは実は少数派なのかもしれない。しかし、真剣に現実と向き合い、何かを学び取ろうとする若者が確かに存在していることが確認できたのは、とてもうれしいことだった。

彼らにとって、このスラウェシやマカッサルという現場はどのように映ったのであろうか。ここマカッサルに住むものとして、彼らがなんとも言えぬ近しい感情を抱き、スラウェシやマカッサルを大事に思ってくれたのなら、存外の喜びである。そして、再び訪ねてくれるようなことがあれば、本当にうれしい。そして、そうした彼らのような存在が、結果的に、日本とインドネシアとの関係を基本的なところでしっかりと強いものにしていくのだと信じている。

来年も再来年も、一人でも多くの人に来てもらいたい。そして、スラウェシ・ファン、マカッサル・ファンになってほしい。そんな若者たちとの出会いを、マカッサルで楽しみに待っている。

2008年9月2日火曜日

断食月が開始

9月1日から断食月が始まった。昼間の飲食店や商店の多くは、店を閉めている。カーテンをひいたり、戸をちょっと開けたりして、営業している飲食店も見かける。なんとなく、いつもより交通量が少ないような印象。

夜になると、断食明けの後、イスラム教徒がモスクで説教を聞いてお祈りをする。モスクの周りにはたくさんの夜店が並ぶ。夜のお祈りを終えた若い男たちが、宗教帽をかぶったまま、ヘルメットをつけずに、ドドドーッとバイクに乗って勢いよく走り始める。女たちは、白いベールをまとったまま、夜道を歩いている。

いつものおなじみの断食月の光景である。

2008年8月30日土曜日

コミュニティ新生

先週のカンボジアへの出張で出席したワークショップでは、一村一品運動と地域コミュニティ開発をどのようにリンクさせていくのか、ということが大きなテーマの一つであった。そして、それがカンボジアでも、言うは易く行うは難しである、という当たり前のことを改めて感じた。

言うまでもなく、カンボジアでは、1975-1979年の悲劇の影響が今の社会にも低奏通音のように響いている。あの記憶を曲がりなりにも覆い隠しながら、懸命に前へ向かって進んで行こうとしている様子が、あちこちからうかがえた。

プノンペンを発つ前に、Tuol Sleng博物館を訪れた。ここはもともと高校だったのだが、ポルポト時代に刑務所に変えられ、かつては生徒たちの笑い声が聞こえたであろう旧教室で、おぞましい数の人々が処刑された。旧教室の一つ一つには、古ぼけたベッドと手足を縛った鎖、そして壁には、そこで遺体が発見された時の様子を描いた絵が掲げられている。その絵が部屋毎に違うということは、まさにその部屋で起こった様子が描かれている、と想像できる。別の棟には、処刑された人々の顔写真がひたすら貼られていた。乳児から老人に至る無数のそれらの顔すべてに、私は直視されていた。


きっと、自分が生き残るために、誰かを「敵」として密告した、あるいはせざるを得なかった者も少なくなかったことだろう。生き残った者も深い深い傷を心に持ちながら、厳しいが平穏になった世の中を懸命に生きているのだろう。

そのような人々に、コミュニティ開発を進める前提として、よそ者が過去の振り返りを安易に促すことは、とても辛いことだ。ここ南スラウェシもそうである。1950年代後半の地方反乱で、隣近所で殺しあったこと、何もかも失って見知らぬ土地へ必死で逃げた人々、村や伝統文化・慣習の消失、といった記憶はいまだに生々しい。また、よそ者である私が言うのは当事者の方々に対して大変におこがましいのだが、地元学の端緒が水俣で始まったとき、そしてその後のプロセスでの苦しさやつらさは、想像を超えてあまりある。

時間がかかるし、その記憶が完全に消えることはおそらくない。いや、本当は、忘れてはいけない記憶というべきなのかもしれない。そうした過去を少しでも見られるようになる日をじっくり待たざるを得まい。

今回のカンボジアの経験で、一つ学んだ大きなことは、伝統や地域アイデンティティは、過去を踏まえつつも、新たに作り出していけるものだ、ということである。前にパプアで、「歴史や文化がよそ者に略奪されて自分たちは何も持っていない」という友人たちに、「今から歴史を作っていこう」と呼びかけたのを思い出した。

自分たちが気の付いていない地域資源やいつもは捨てているものの中から、あらたなモノやコトが生まれてくる可能性。いつか過去を直視できるようになるまで、そうした視点も重要になってくるだろう。コミュニティ再生は、コミュニティ新生であってもよいのだ。

2008年8月28日木曜日

AirAsia直行便でマカッサルへ

1週間のカンボジア出張を終え、クアラルンプールに寄ってから、24日にAir Asiaの直行便でマカッサルへ戻った。クアラルンプールからマカッサルまでは3時間、途中、気流の関係でかなり揺れたが、とくにトラブルもなく、スムーズに着陸した。

今回の直行便だが、定員120名に対して乗客は30人程度だった。食事はお金を払って買う仕組み。私は前もってブリアニを予約していたので、マレーシアで余った5リンギで菊花茶をつけて、ちょっと早めの夕食を食べた。

サービスはまあまあというところか。でも、客室乗務員は休む間もなく動いていた。乗客が降りていくそばから、客室乗務員が機内清掃を始めていた。マカッサルに到着して、ブリッジを降りて、到着ロビーへ向かうとき、ふと出発ロビーを見ると、もう乗客が折り返しクアラルンプール行きに乗り始めている。この間、たった15分程度だった。

さて、マカッサル空港のイミグレだが、これがあっさりと終わった。机が二つ置かれていて、「外国パスポート」と「インドネシア・パスポート+再入国許可保持者」に分かれており、私は後者に並んだが、親切そうな他の乗客が「違うよ」と言ってくれた。私は再入国許可を持ってるんだよー。

たまたま、知り合いのイミグレ職員がいて、話しかけてくる。去年は滞在許可(KITAS)の件で、イミグレにはさんざんお世話になったが、その賜物か。

Air Asia就航当初、マスコミでボロくそにけなされていた税関も、何もなく通過した。乗客がたった30人程度だったこともあり、実にスムーズな入国手続だった。

こうして、実に気持ちよくマカッサルへ戻ってきたのであった。

2008年8月24日日曜日

カンボジア・バティック布の謎

カンボジアのプノンペン南部の絹織物の村を訪問した。織っている機械のところにインドネシアでよく見るようなバティック布がかけられていた。


この絹織物を作るのにかかわっている女性たちは、バティックのサロンを巻いていた。


道すがらに見た村の女性たちのほとんどが、バティック柄のサロンを巻いていた。下の写真のような感じである。


インドネシアからバティック布が東南アジア各地に流れていることは当然想像できるが、予想以上に、カンボジアの女性に浸透しているように見えた。

では、市場ではどんなバティック布が売られているのだろうか。プノンペン市内のトゥトゥンプン市場、旧名のロシアン・マーケットへ行ってみた。ここは昔、ロシア人が好んで買い物をしたことからその名があるという。

市場に着くと、明らかにタイ製やベトナム製のお土産ものがたくさん売られている。布関係で一番目立つのは、やはりカンボジア・シルクであった。シルクは、うず高く積まれて売られていた。


我々の目につくところには、バティック布は見当たらない。そこで、売り子のおばさんにバティック布があるか聞くと、少し奥のほうから取り出して見せてくれた。すべて、1枚3ドル、であった。


最初は、安価なインドネシアのプリント・バティックのように見えた。そして、札からメーカー名などを探そうとして、面白いことに気づいた。

まず、BATIKと書かれた右上に登録証のRが着いている。BATIKという名前があたかも商品登録されているような趣なのである。


上の写真。最初はATBM(Alat Tenun Bukan Mesin)、すなわち動力を使わない機織りで織られた761ルピアの布だと思った。761ルピアだからすごく昔のバティックがインドネシアからカンボジアまで流れついたのか、と思ったのだ。しかし、よく見ると、これはATBMではなく、ADRMと書かれている。インドネシアっぽく見せているが、Batik ADRMという商品名になっているところがおかしい。


Rosalettaという、いかにもインドネシア人ではなさそうな女性の古そうな写真を使ったものもあった。


この上の写真については、Dwi Songkranとあるが、どうもインドネシア・フレーバーのタイ製プリントのようである。普通のバティックとは明らかに異なる。

どうやら、インドネシアのプリント・バティックに似せて、タイなどで作ったバティックもどきがカンボジアの女性のサロンとなっているような気配がある。

タケオへ向かう道すがらにて

カンボジア滞在中に、プノンペンから南へタケオ方面へ行き、いくつかの村を訪問した。絹織物の村、野菜作りの村、竹などの工芸品づくりの村、などである。その道すがらで見かけた光景を、脈絡なく並べてみる。ただし、車の中から撮った写真が多いので、多少ボケている。ご容赦のほどを。


南へ向かう国道2号線は、周りよりも一段高いところ、すなわち尾根道のような形で通っている。このため、周りから国道2号線へ出るには、坂を登る構造になっている。プノンペン周辺は沼地が多く、雨季には頻繁に洪水が起こるため、最初から幹線道路を高い所に建設したようである。


雨季とはいえ、タケオへ向かう道から見える光景は、プノンペン周辺と比べると、だいぶ降水量が少ない印象を受ける。南スラウェシ州の乾燥地であるジェネポント県西北部などで見られるロンタラ椰子のような椰子が見える。


プノンペンから国道2号線を1時間程度走ったところまでの間には、沿道にたくさんの縫製工場があった。対米輸出クォータの問題をクリアすることなどが目的なのだろうか、中国や台湾などの企業がみられる。そして、さらに先には、上写真のような工業団地建設予定地がいくつかできていた。


こちらは絹織物の村の住居。今回見た村の住居のほとんどは、高床式だった。ただし、柱の立て方が南スラウェシのものとは若干異なる。新しい住居では、高床を支える支柱はコンクリートになっていた。地面に支柱を直接立てる場合も、少し長めのコンクリートを立ててそこに支柱を乗せる場合も、いろいろ見られた。でも面白かったのは、上の写真のように、屋根に瓦を使っている家があったことである。南スラウェシでは、高床式で瓦屋根の家は見たことがないからだ。


華やかな色で飾られた家を沿道で見た。「おー、結婚式か」というと、さにあらず。実はお葬式、とのこと。ほかに、黒い布が張られたところもあったが、この華やかな色でお葬式をする意味については、よくわからない。

2008年8月20日水曜日

リバーサイドで夕食

プノンペンは、川とともにある町である。ワット・プノムのすぐ近くを、トンレサップ湖から流れてくるサップ川が流れ、そのすぐ向こうをメコン川が流れる。18日の夜は、ちょうどサップ川とメコン川が合流する地点の川岸に建てられたホテル・カンボジアナで夕食会があった。


上写真は、ホテル・カンボジアナから撮ったもの。ちょうど、サップ川とメコン川の合流点付近である。川岸にホテルのしゃれた東屋が張り出している。運よく、雨も降らずに済んだ。

19日は、別のリバーサイドにあるレストランで夕食。川とは道を隔てているが、2階のベランダ席から川を眺められる。夕暮れになると、多くの観光客がこの通りのいくつかのレストランのベランダ席を陣取り、ビール片手に、リバーサイドの風景を楽しんでいる。なかなかしゃれた造りの建物が並んでいる。


19日の夕食を食べたレストラン、味はなかなかのものだった。アンコール・ビールを飲みながら、カニ肉チャーハン、魚の甘酢あんかけ、柔らか牛肉ソーセージ、特製スープ、を味わった。


あなどれないカンボジア料理。到着してから食べている料理は、ホテルのものも含めて、味のレベルがかなり高い。これまでずっと、食べる量を自主的に制限してきたのだが、すでに、一昨日から、それを解除してすることにした。うーむ、絶対に太るなあ。でも、「食べ物との出会いは一期一会」のモットーをしばし実践に戻すことにする。マカッサルに戻ってから、じっくりとまた食事量の制限をしよう、っと。

このレストランでも、支払いは米ドルだった。移動に使ったバイクタクシーのトゥクトゥク(下写真)への支払もしかり。昨日、ようやくリエル紙幣を手に入れる機会があった。3000リエル手元にある。でも、1米ドルが4100リエルでは、なかなか使い道がなさそうだ。

朝のワット・プノム

18日朝、ホテルのすぐ近くにあるワット・プノム(山の寺、の意)を散歩した。ワット・プノムは旧市街のベンチマークともいうべき中心部にあるお寺で、一周したら15分かかった。


朝の「境内」には、たくさんの家族連れがいた。身なりや振る舞いから察して、境内の掃除をする清掃夫・婦の家族か、ホームレスの家族のようにみえる。母親が子供に食事を与えている。


17日に空港からプノンペン市内へ入る間、マカッサルよりもはるかにきれいな町、との印象を持ったが、朝のワット・プノムは、たくさんのゴミだらけ。多くの清掃夫・婦が掃除をしていた。


身なりのあまりよくない家族たちが、束の間の団欒を楽しむかのように、指をさして笑っている。指の方向をみると、猿がいた。それもたくさんの猿。人間を避けるでもなく、わがもの顔で動き回っている。てっぺんにあるワット・プノムへ向かう階段でも、猿が楽しそうに走り回っていた。


ワット・プノムの前の小さな広場は、朝からたくさんの人々でごった返していた。屋台も出ている。私の目の前で、小さな子供がいきなり立ち小便をした。


すがすがしい朝食前の散歩、のはずだった。でも、プノンペンの町が抱える別の一面を垣間見るかのような、朝の散歩になった。

2008年8月17日日曜日

カンボジアに到着

一村一品運動に関する国際ワークショップに出席するため、今週はカンボジア・プノンペンに来ている。今日は、ジャカルタからAir Asiaを使い、クアラルンプール経由でプノンペンに到着した。

アジア屈指の安売り航空会社Air Asiaは、Point-to-Point方式、すなわち一区間のみを売る方式をとっている。このため、ジャカルタからクアラルンプールに到着して、そのまま次のプノンペン行きへ乗り継ぐことができなかった。クアラルンプールに着いたら、いったんマレーシアに入国し、クアラルンプール空港で再びプノンペン行きにチェックインし、マレーシアから出国するのである。今回は乗り換えの時間が3時間以上あったので、とくに問題はなかったし、入国・出国審査は極めてスムーズであった。

Air AsiaのクアラルンプールのターミナルはKLCC。クアラルンプール国際空港(KLIA)の向かいにあるプレハブのような質素な建物がそれである。飛行機の乗降はタラップを使う。


KLCCのなかは人、人、人でごった返していた。チェックイン・カウンターへの長い行列。KLCCで人数が多くて目立つのはインドネシア人だった。



ターミナル内にはKLIAにあるようなしゃれたレストランはなく、ファーストフードの店が目立つ。このターミナルから歩いて2分のところにフードコートがあるので行ってみると、人が少なく、冷房が利いていてホッとする。でも、かつての大学の学食のような風情だった。


でも、Air Asia自体は時間が遅れることもなく、順調に運行し、快適なフライトであった。スチュワーデスがきっちり仕事をしている姿を見るのは気持ちがいいものだ。同じ安売りを謳い文句にしながらも、乗客はそっちのけでペチャクチャおしゃべりに夢中な(それでいて愛想のよくない)某L航空のスチュワーデスに見習わせたいものだ。

しばらくして、プノンペン国際空港に到着。乗降ブリッジが3つしかなく、オープンしたばかりのマカッサルの新空港よりも小さいこじんまりとした空港だった。

カンボジアに着く前に、機内で入国カード、税関申告書と一緒に、ビザ申請書が配られた。今回は、到着時ビザでビジネス・ビザをとる。ワークショップ主催者からの招聘状もあるのでそれを見せ、写真と一緒に、イミグレの窓口に提出。ほどなく、パスポートにビザを貼って終了。「あれ、申請料25米ドルは払わないの?」と聞くと、「公用旅券の場合は無料です」との答え。たしかに今回は公用旅券。インドネシアではこんなこと聞いたことがない。ともかく、これも含めて、イミグレの対応はとても気持ちのいいものだった。

入国審査を終えて、税関を過ぎて、ふと気がついた。どこでお金を換えたらいいのだろう? 両替をしてくれる銀行の窓口が見当たらないのだ。「そこのATMで換金できるよ」という税関職員の指示に従って、国際キャッシュカードを使ってATMで換金すると、出てきたのは米ドル紙幣。カンボジアの現地通貨リエルにはどこで換えればいいんだー、空港の外のATMなら大丈夫ではないか、と思って空港の外に出ると、2つの机。一つは「市内までトゥクトゥク(バイクの後ろに乗客席をつけたバイクタクシー)で8米ドル」、もう一つには「市内までセダンのタクシーで9米ドル」とある。市内まで行くのに、リエルは必要なかったのだった。

ワークショップの会場になるホテルで聞いてわかったことだが、支払いはすべて米ドルだった。ホテルにいる限り、リエルはほとんど使わない。カンボジア人でも、ドルで支払うケースがよくあるそうだ。何となく、自国通貨を米ドルにした東ティモールへ昔行ったときと印象が重なる。果たして、今回滞在する1週間のうち、リエルを使うような場所へ行く機会があるのだろうか…。

トラジャのパマラッサン

トラジャ料理では、鶏肉、豚肉、鯉(ikan mas)、ウナギ(lendong)などをパマラッサンで煮込んだ黒い色の煮込み料理がおなじみである。このパマラッサン、実は東ジャワ料理で有名な黒い肉スープのラウォン(Rawon)などに使われるクルワックと同じものである。

パマラッサン(pamarrasan)は木の実である。下の写真のように、茶色っぽい大きめの実があちこちに実る。木自体はかなり大きい。私はいつも、レモの岩石墓地を見に行った際に、岩石墓地から水田を回る散歩道に生えているパマラッサンの木を眺める。


このパマラッサン、実の中は小石のようなものが包まれている。この小石のような固いものを割ると、中は真っ黒な物体がある。これを粉状にして、煮込み料理に使う(下写真の左上)。実の中の果肉(下写真の右上)も皮(下写真の右下)も、料理に使う。とくに、果肉は、パマラッサン料理には欠かせないものとされるが、果肉も入ったパマラッサン料理には、Restoran Mamboでしか今回は出会わなかった。


下写真は、Restoran Mamboで食べたパマラッサン料理。竹筒に入っているのは、豚肉とマヤナ(mayana)という葉を入れて蒸したもの。この竹筒で蒸す料理をピオン(pion)といい、Mamboでは鶏肉、豚肉、鯉、水牛肉で調理可能であるが、時間がかかるため、少なくとも2~3時間前に予約する必要がある。



ピオンの右にあるのが、豚肉のパマラッサン。もちろん、パマラッサンの果肉が入っている。果肉の入っているほうが、個人的には断然美味しい。

そして、上写真の右下の野菜は、パキス(pakis)と呼ばれるシダの一種とパパイヤの花の炒めものである。この組み合わせは、マナドなどでもおなじみで、パパイヤの花(下写真のカボチャの脇にあるもの)の醸し出すちょっとした苦味がなんとも言えず美味である。


それにしても、トラジャではなぜ黒い色の料理が多いのだろうか。以前、南スラウェシ州ブルクンバ県のカジャンの伝統区域を訪ねたとき、「世界の最初の色は黒で、それから様々な色ができていった」という話を聞いた。カジャンの伝統区域に住む人々は、黒以外の色の服を着てはいけないし、よそ者がその区域に入るには黒装束にならなければならない。そういえば、トラジャの人々の伝統衣装も基調は黒である。そんなことが、パマラッサンにも関係しているように思えるのである。

そうそう、トラジャに行かれたら、テロン・ブランダ(telong Belanda)のジュースを是非味わってほしい。見た目がナス(telong)のようなので、オランダ・ナスという名がついたのかもしれない(下写真)。トラジャの特産品の一つである。