まず、コペンハーゲンや京都での国際会議に参加している方々に、ワカトビのような気候変動や生物多様性保全の現場の人々の生活や活動がどのように認識されているのか、ということ。
東南スラウェシ州でも有数に貧しいと言われ、出稼ぎも少なくないワカトビでも、島々に暮らす人々の数は増加傾向にある。人々が生活するために必要な水や食糧生産(ワカトビの主食はキャッサバ。米はすべて外部から移入)のための土地は、今後も十分に確保できるのか。実は、ワカトビの中心であるワンギワンギ島やカレドゥパ島では、島内の森林伐採が進み、水源の維持に黄信号が点っている。
近い将来、毎日、大量の水を船で島外から運ばなければ人々の生活が維持できない事態になりはしないか。これまで、米はなくとも、キャッサバやサゴヤシで飢えを経験しなかったワカトビで、今後も人々を養うために十分な食料を確保していけるのか。
今回のワカトビでのワークショップのテーマは、持続的発展であった。
私は試みに参加者に質問してみた。イエスだったら挙手をお願いした。「皆さんはワカトビが好きですか?」。ほぼ全員が挙手。「皆さんはワカトビに住み続けたいですか?」。これもほぼ全員が挙手。「皆さんは自分たちの子供や孫にもワカトビでずっと暮らしてほしいですか?」。パラパラっとわずか数人が挙手。
参加者のほとんどは県政府の役人だったが、彼らにとっての「持続的発展」とは、珊瑚礁保全のような、外部者から働きかけがあって初めて認識する頭の中のものであって、自分たちの生活をどう維持していくかという現実の部分から持続的発展を認識していなかったことが明らかになってしまった。
国際会議の議論と現実とをつなげていくには、この辺からしっかりと取り組んでいかなければならないのではないだろうか。こうした役人たちの認識を形成させた一端は、我々外部者の現場の人々に対するこれまでの認識やアプローチの仕方による面がたぶんにあるだろうと思った。
もうひとつ。ワカトビでの会議の展開を見ながら、もはや「一方から一方へ援助するというやり方が意味をなさなくなりつつあるのではないか」ということ、また「相手側の自立を促し、自分たちだけでやれるようになっていく」ということが気候変動や生物多様性保全については当てはまれないのではないか、ということである。
相手側の自立支援のための援助では、援助する側に「いつまでにどのように相手側にとって援助が必要でなくなる状態にしていくか」というプロセスを明確にし、援助する側の退出の意識を明確化しておくことが重要である。それがないと、援助する側のモラルハザードが生じる。
しかし、グローバルな世界に直結する気候変動対策や生物多様性保全は、その現場の利益だけではなく、地域や国境を越えた地球全体の共通利益ともいえるものである。こうした地球全体の共通利益も、現場の人々の行為や活動によって影響を受けるという意味で、グローバル・イシューであると同時にローカル・イシューにもなる、両者直結のイシューととらえるべきであろう。相手が自立したら援助はおしまい、なのではなく、地球全体の共通利益のために、グローバルの世界とローカルの世界が一緒になって取り組んでいくべき性格のものなのではないか。
翻って、これまで両者は一緒になってやってきたと言えるだろうか。非常に簡単に言ってしまえば、先進国側が資金や援助を出し、現場側に「お願いだから、援助をあげるから、サンゴ礁を守ってくれ」というような面がないとは言えないのではないか。現場の方々に、環境を保全することが自分たちの生活を守っていくためにより利益がある、ということを真に認識してもらえているのだろうか。
「一緒に」という意味は、そこまで深く下りていって、現場の方々を敬い、真に寄り添うことによって、初めて可能になるものであろう。現場の方々が主体的に何かを起こし、それが地球全体の共通利益と結び付く方向性を目指していくのである。やはり、外部者の現場の方々への関わり方が問われてくるだろう。
そして、その「一緒に」という取り組みは、必ずしも公的援助である必要はないのではないか、とも思った。ワカトビの現場の人々の主体的な活動が気候変動対策や生物多様性保全に関わるものであれば、それを応援したい個人や組織が「社会的投資」のような形で関わりを持ってもよいのではないか。
たとえば、ワカトビで地元の人々がダイビング・ビジネスをやろうとするときに、外部者がそれに対して「社会的投資」のような形で応援することは、珊瑚礁保全の活動につながるだろう。ペットボトルをリサイクルして、海藻生産用の「浮き」を作る小さな工場を作りたい地元の方がいれば、それに「社会的投資」をおこなうことは、環境保全に貢献することになるだろう。ほんの小さなものでも、現場の人々の行為や行動に外部者の関心が向けられることで、現場で何かポジティブなことが生まれてくるのが期待できるのではないか。
まだまだ粗い、思いつきの域を出ない考えだが・・・。