新年早々、テレビでも新聞でも「つながる」ということがあちこちで取り上げられている。コミュニティの再生、孤独死、キレやすい子供、様々な現象の背景に、人と人とがつながりを断ち、個々で生きていかなければならないかのような社会のなかで、これからどのように新しい人間的な社会を作っていくのか、というテーマがそうした番組や記事の背景にある。鳩山政権が掲げる「コンクリートから人へ」という標語も、そうした流れの中にある。
他方、自立あるいは自律ということも言われる。西欧社会を眺めながら、個の確立があって初めて自立・自律が可能になる、と、唱えられてきた。自分がしっかりしなければ、という強い気持ちが求められてきた。
でも、いつもは離ればなれの家族と久々に一緒に過ごしていると、とにかくぬくぬくと温かい気持ちになってくる。このもたれ合いの心地よさに言葉はいらない。
本当につながっているのならば、つながっていることを常に確認する必要は必ずしもないのではないか。また、時にはつながらない自由も必要なのではないか。
個々の人と人とのつながり以外に、人とコミュニティや地域や国家とのつながり、もっと広く言えば、ユニバーサルな世界社会とのつながり、といったもの(帰属意識と言ってもよいのかもしれないが)を基層的な部分で感じていることが、その個人にとって大事なことなのだろう。しかし、そうした基層的な部分を感じるときのアクセス・ポイントは、やはり具体的な誰かという個人ではないかという気がする。コミュニティや地域や国家や世界に対して「つながり」を感じるということは、それらに対する何らかの信頼に裏打ちされているのではないか。
そうした信頼を作っていくものは、日々の人と人との間の誠意あるコミュニケーションであろう。このコミュニケーション能力が本質的な部分で低下してきていることが問題なのだ。コミュニケーション能力は話し上手、聞き上手ということでは済まない。日頃のコミュニケーションの中で、相手や対象に対する深い想像力を養っていくことが重要なのではないかと思う。
物理的に「つながる」だけでは形式主義に陥る可能性がある。人間的というのは、自分以外の人や社会やコミュニティをどれだけ想像し、その存在を尊重(ときには尊敬)し、(鳩山首相が頻繁に使う)「思い」を深く抱けるか、そういう態度でコミュニケーションができるようになろうとするのか、ということにかかってくるのだろう。
人と人、コミュニティや社会をつなげるファシリテーションの役割は、ますます重要になるだろうが、それらを媒介するファシリテーター自身の人や社会やコミュニティに対する想像力と「思い」が問われてくるだろう。そして、ファシリテーションが特定の人のもつ技能として独占されることなく、すべての人や社会やコミュニティの在り方自体に体現されていくならば、いつの間にか、知らないうちに世の中が大きく変化してきたことに後付けで気付くのであろう。
休み中に色々考えている筆者の独り言である。ご容赦のほどを。