2011年2月5日土曜日

カレー麺系


先日、ミー・アチェ(Mie Aceh)の汁そばを食べた。いつもは汁なしのカレー焼きそばなのだが、今回は汁そば。生のバワン・メラを入れて食べると、カレー味のスープと絡んで、何ともいえぬおいしさが口の中に広がる。

カレー麺といえば、私の最大の好物はマレーシアのラクサ・ペナン。そして、それに勝るとも劣らないのがタイ・チェンマイのカオサイ。麺は異なるが、これら3つには何かつながりを感じる。チェンマイ、ペナン、アチェ。

2011年2月4日金曜日

中国正月の金徳院

2月3日は中国正月で、インドネシアは祝日。ジャカルタ最古の中国寺院の金徳院へ出かけて、「初詣」で賑わう様子をみてきた。

金徳院へは、グロドック側から入った。


キティちゃんの刺繍の入った赤い子供服。


通りで物売りをしている青年も赤い服を着ていた。



赤い提灯も掲げられていたが、これは何と読むのだろうか。


おじさんが後ろでギコギコ漕いで、子どもが前の車に乗って遊ぶ、の図。

グロドックから10分も歩かないうちに金徳院へ到着。


もうもうと線香の煙が立ちこめるなか、人々が祈りを捧げる。





上の最後の写真は、千手観音に手を合わせている。ここには行列ができていた。


金徳院の境内で、華人系の青年とムスリムの女性のカップルに出会った。とっても仲の良さそうな二人。青年が女性に祀られている神様についていろいろ説明していた。ジルバブ姿の女性がいても、とくに違和感を感じることはなかった。


境内の外には、たくさんの物乞いの人たちが待ち受けていた。彼らの場所にはひもが張られ、警備員が監視していた。


中国正月の金徳院へは、1991年の中国新年が明ける深夜0時頃に訪れたことがあった。ときはまだ中国文化の表出を押さえ込んでいたスハルト時代、ジャカルタの街中に何も中国正月の気配がないのとは対照的に、金徳院はたくさんの華人系市民でいっぱいだった。

中国正月が大っぴらに祝える現在、金徳院をめぐる空気のすべてが和やかに感じられた。境内で擦れ違う人々が柔らかな微笑みを返してくれた。

2011年1月20日木曜日

嬉しいことがあったので・・・

1月14日、個人的にとても嬉しいことがあったので、一人でささやかな祝いの宴をした。喜びを誰かと分かち合うのもいいのだけれど、なぜか、自分一人で祝いたい気持ちになっていた。

何で祝いの宴をするか、ちょっと迷った。結局、これにビールで祝いの宴にした。


イエローライスを真ん中にし、その周りをいろいろなおかずで囲んだリースタフェル(Rijsttafel)。肉とジャガイモの甘辛い煮付けとピリッと辛いサンバル・ゴレンがイエローライスと相まって、口の中で絶妙なハーモニーを醸し出した。やはり、ちゃんとしたところの『ナシ・ラメス』は違うのだ、と納得した。

このリースタフェルを味わいながら、南インドで食べたターリーを思い出した。あれも皿の上にちょこちょこカレーやギーを並べていたが、すぐに、手でかき回して混ぜて食べるのだ。さすがにこのリースタフェルを混ぜ混ぜして食べる気にはならなかったが、見た目がよく似ているので、ちょっとターリーとの親近感を感じた。

おいしいものを食べることで、なお一層、嬉しさがじわーっとわき上がってくるような、至福の時間を過ごした。ちょっと赤ら顔ではあったが。

2011年1月16日日曜日

次のステップ・・・

1月2日にジャカルタへ戻って、バタバタと毎日を過ごしてきた。いろいろな人と会う機会も多くなり、これまで受けてきたのとは違う種類の様々な刺激を感じるようになった。何となく、そろそろ、徐々に徐々にだが、次のステップが見え始めた感じがする。

これまでを振り返ると、それまでやっていた仕事や業務がスパッと終わって、ゼロから再び始まる、ということではなかった気がする。前の仕事や業務と次の仕事や業務は、けっこう長い時間にわたってクロスしていて、双方が響き合いながら、少しずつ次の仕事や業務のほうへ重心が移り始めていくような、そんな感じを抱いている。つまり、瞬間的に見ると、違う方向へスパッと動いたように見えながらも、その複線はそれ以前の相当に長い時間にわたって引かれていた、という感じである。

単純かもしれないが、こんなことを思うのだ。

日本のヒトやモノがもっとインドネシアやアジアや他の世界と交わり、インドネシアやアジアや他の世界のヒトやモノがもっと日本と交われれば、もっと楽しくて面白いことが起こってくるのではないか、と。交わりが深まれば、もっともっとお互いに興味を持ち、お互いに尊敬しあうようになるだろう。最初は一人勝ちを狙って他と付き合い始めても、相手もよくならなければ自分も利益を得られないことを知るだろう。

国家を超えた公共益が成立できる時代は、実はもう相当に前からできているのに、実際の国家や組織の行動はまだ「一人勝ち」を短期的に求める性向を本質的に変えてはいない。国家や組織の行動が変わるのを待っていては、何も始まらない。

一人一人の具体的な行動を積み重ね、繋げ合わせていくことによって、本当の意味での公共益が生まれてくるのではないか。そうした公共益を生み出すには、自分とは異なる他者への興味と尊敬が必要である。なぜなら、自分もまた他者から無関心と見下しを受けたいとは思わないはずだからである。

こんなことは基本中の基本のこと。でも、無意識に他者を見下したり、軽蔑したりすることが、自分も含めて、いかに多いことか。

そんな一人一人の具体的な行動を積み重ね、それを繋げていくという作業を、現実に始めてみたいと思うようになった。それは、持続性という観点からビジネスという形を採る場合もあるだろうし、ファンドや基金という形を採る場合もあるだろう。他者への尊敬という観点から、できれば、モラルハザードが起こりやすい援助という形は採りたくない。

ドンキホーテかもしれない。しかし、きっと、同じようなことを思っている仲間が世界中にいるはずだと信じている。

まずは、自分がどっぷりはまり込んでいるインドネシアと日本のヒトやモノをより深く繋げていくことから始めてみたい。すぐにスパッとうまくはいかず、試行錯誤は当分続くだろうけれども。

読者の皆さんからもいろいろな意見やアイディアをお聞きし、ネット上でアドバイスをいただければとても嬉しい。

2011年1月1日土曜日

2011年を迎えて

2011年を迎えた。2010年には、様々な出会いと悲しい別れがあった。とくに別れは、いずれ必ず来るものだと分かってはいても、簡単に気持ちの整理ができるものではない。

我が家は喪中のため、今回の年賀挨拶は遠慮させていただいている。ご了承願いたい。

前もそうだったが、近しい者たちとの別れに際して、常に「自分は慢心していないか。傲ってはいないか」と自問してしまう。

でも、別れた親しい者たちは、決して私が立ち止まったり、後ろばかり見たり、ネガティブ思考になったりすることを望んではいないだろう、とも思う。思う存分、自分なりに納得して喜びを感じるような生き方、そんな自分が周りを、友人たちを、世の中をより楽しく明るくしていけるような生き方を望んでいるはずだ。

悲しい別れを心の奥にしっかり大事にしまい込みながら、それを自分の生きる力に変換し、もっともっと能動的に生きていけるといいのだが。今年をどんな年にしていくか。いろいろと考え始めている。

そんな私を、故郷のウサギの張り子人形が「なーんちゃって。へへへ」と見つめてくれている。


2010年12月28日火曜日

ハノイからニンビンへ

12月16日、ハノイからニンビンまで2時間程度走った。ハノイ市内からしばらくは片側2車線の道路だったが、途中で片側2車線の道路に。道路の感じは、インドネシア・スラウェシ島のマカッサルからパレパレへ向かう昔の道路のような状態だった。通行量の割には道路が今ひとつである。そんななか、沿道に韓国系の現代自動車の大きな工場が見えてきた。


ハノイの街中もそうなのだが、沿道を見ていて不思議だったのが、道路と垂直に、ウナギの寝床のように建つ細長い建物である。道路沿いの間口を狭く、奥に長くなるように土地を区切っているように見える。ベトナムでは、そのように土地の区分けというか配分をするように決められているのだろうか。


ニンビンの街中では、牛車も走っていた。馭者のおじさんの帽子、ベトナムではよくかぶられている。


ニンビンから中国の南寧まで直行の高速バスが毎日朝7時半に出発している、という表示板。ニンビンは寧平と書くのか・・・。


街中には、社会主義をイメージさせる赤い看板が目立つ。ベトナム共産党が支配している国なのだ、ということを改めて認識する。


ニンビンからちょっと西側の山のほうへ入り、バイディン寺(Chua Bai Dinh)へ向かう。東南アジア最大の仏教寺院ということで、下の門から上の本殿まで2.5キロ歩かなければならない。車の運転手が気を利かせて、寺の前で住民らしき男一人を車に乗せ、脇道から守衛の立つ門をくぐって、本殿まで車で上ってくれた。



寺院はあたかも大規模建設工事中で、クレーンやら重機やらが動いている。伝統的な寺院という感じはしない。ベトナムの著名な実業家が資金を出しているという話だった。


本殿の中には、巨大な黄金の仏像が3体並べて置かれていた。「写真を撮らないか」とおばさんたちが寄ってくるが、断るとさっと場を離れた。本殿の外は、冷たい風が強く吹き付けていた。


この寺院の周辺は、石灰岩質のごつごつした山があちこちに見られる。タムコックという観光地で、「陸のハロン湾」とも呼ばれ、舟で川をのんびりとわたることもできるそうだ。でも、この日は風がとても冷たく、舟に乗る気にはなれなかった。ただし、こうした光景は、インドネシア・マカッサルの周辺で飽きるほど見ているので、取り立てて驚きはなかった。


ニンビンからハノイへ戻る途中で見た墓地。家のような祠を建てるところは、マカッサルの華人墓地に似ている。


上の写真のような、「囍」という文字を貼った車を途中で何度も見かけた。どうやら、結婚式へ向かう、あるいは結婚式から帰る車のようであった。


ハノイの街中で、小さなサンタ服をたくさん売っている店が何軒かあった。「クリスマスには子どもたちにサンタ服を着せる」習慣がベトナムにはあるのだろうか。それぐらい、たくさんの小さなサンタ服が売られていた。


ハノイの中心地に建設中の大規模ショッピングセンター+ホテルのコンプレックス。韓国のロッテ・グループである。この場所のすぐ向かいには、ハノイの最高級ホテルがあるが、それは韓国のデウ・グループのホテルである。否が応でも、ハノイ中心部で韓国の勢いを目の当たりにした。

2010年12月18日土曜日

ハノイで国際一村一品セミナー

12月13〜17日はベトナムのハノイへ出かけた。毎年恒例の国際一村一品セミナーに出席するためである。14日の全体セミナーの開催場所は、ハノイ・コンベンションセンター。中へ入るなり、その大きさに見とれてしまった。


本家・大分のそれを思い出させるような一村一品マップも展示されていた。


予想に反して、セミナー会場は500人程度を収容する会議場で、昨年のインドネシア・バリ島での会場に比べると半分ぐらいの大きさだった。会議場の手前に各国の一村一品ブースが置かれていた。

翌15日はスタディ・ツアーで、筆者は、ラタン・竹細工を作っているフービン(Phu Vinh)村を見学した。ここは、全国に多数の「工芸村」を展開しているベトナム政府が、一村一品事業のモデルとして力を入れているところらしく、日本、EU、アメリカなどへ製品を輸出しているとのことであった。


なかには、キューバのカストロ首相を描いたラタンの編み細工が飾られていた。この工房ではこれをとても誇りにしているようだった。


カストロ首相以外に、もちろん、ベトナム建国の父・故ホーチミン主席を描いたラタンの編み細工もあった。その手前にあるのは、この工房の製品の一部。


若い女性労働者がラタン編み細工を作っているが、その手先の動きの素早いこと。丸みを作るために、型を当てて作業していた。

ここまでは、ベトナム政府から一村一品事業としての支援を受けている工房の話。その隣には、もっと多くの人が働く別の工房があり、そこは、政府の支援を受けていないということだった。模範工房ではないということなのか、雰囲気はよりリラックスした感じだった。


これらの工房から少し離れたところにある、竹細工工場も見学した。ショールームには様々な製品が置かれ、その品質は高いようにみえた。



これは竹製の壺。竹とは思えない出来上がりである。


これは、日本向けに輸出されるラタン製のトレイ。何を運ぶと楽しいだろうか。


屋外では、竹製の小さい椅子を作っていた。誰が腰かけるんだろうか、小さい子どもかな? と思っていたら、これに花を差すのだそうだ。いろんなことを考え出す人がいるものである。

もの作りという点からも、集積やクラスターという観点からも、ベトナム各地に展開する工芸村の成り立ちとその歴史には興味を引かれる。とはいうものの、伝統工芸品を発展させていくというよりは、バイヤー側の注文を受け止めながら作るという面のほうが強いように思われた。

それでも、バイヤーとのやり取りのなかから、デザインや手法を磨いて自分のものにしていく能力を持っているか否か、それを自分で常に高めていこうと努めるか否か、という点が重要になってくるのだろう。そのプロセスを生産側が持続的かつ主体的に進めていけるかどうかについては、政府やバイヤーを含めた外部者がどのような働きかけをしていくか、これが重要なカギを握ることになるだろう。

その点で、ハノイ空港の土産物屋に並んでいた工芸品からは、オリジナリティの面でも品質の面でも、ベトナムらしいキラリと光る何かが、自分にはあまり見出せなかった。ベトナム工芸品のいい評判を聞いていただけに、これはちょっと予想外だった。

2010年12月6日月曜日

「マカッサルくん」とその仲間たち?

日本では、地域おこしや地域活性化に「ゆるキャラ」が大活躍だが、インドネシアの地方ではまだあまり見かけない。

でも、マカッサルには、どう猛果敢な雄鳥をイメージしたキャラクターがある。名前は知らないので、我が家では「マカッサルくん」と呼んでいる。「マカッサルくん」は、いろんなところで使われている。「マカッサルくん」のゴム製キーホルダーは何種類かあり、私のお気に入りである。


今回、南スラウェシ設立341周年で使われたキャラクターは、下の写真の二人である。来年もこのキャラクターが使われるのだろうか。


2010年12月5日日曜日

バンダアチェからラムノまで

この間、何かとバタバタしていたせいで、ブログの更新がおろそかになってしまった。11月17日に帰国したものの、その後も予定がいろいろ入ったのと、書かなければならない何本かの原稿があり、ツイッターではつぶやいていたものの、ブログに手がつけられなかった。11月はわずか1本とお寒い状況だったが、これから少しずつまた書いていこうと思う。

というわけで、しばらく古いネタを持ち出すことにする。今回は、10月16日、バンダアチェから西海岸をラムノまで走ったときの様子を紹介してみる。

バンダアチェからラムノまでは約2時間。ラムノの中心地を抜けて、しばらく走ると川の前で道がなくなった。

車もバイクも人も、この川を原動機付きの筏に乗って渡ることになる。ラムノには、ここ以外に、街中の市場近くにも、同様に川を渡る場所があった。

渡し場の脇には「茶屋」があり、川を渡る人々が一休みする。その間に筏屋が川を渡る準備をする。

茶屋で食べたスナック。左は餅米を発酵させたもの。右はよくあるチマキのようなもの。


茶屋を仕切っているご夫婦。津波のときの話をいろいろとしてくれた。地震の後、最初は水が引いたが、その後ほどなく轟音とともに水が押し寄せてきて、川沿いの家はすべてあっという間になくなった。無我夢中で逃げたそうだ。「津波のトラウマがない、なんて嘘だ」と強調していた。

渡し場からさらに5分ほど南下すると、橋げたの残骸があった。幹線道路の立派な橋だったそうだ。津波の後、新しい道路はかつての海沿いではなく、内陸のラムノの街中、筏の渡るところに造る予定だそうだ。きっと、津波が起こるまでは、この海沿いの橋を渡るドライブは、沿道でも有数の景色のよいコースだったのだろう。

橋に通じていたこの道は、かつての幹線道路。今では、牛やヤギの天国になっていた。

崩壊した橋のすぐそばには、緑色の屋根の新しい小さな住宅がたくさん建設されていた。マークからすると、サウジアラビアによる援助だろうか。

ラムノからバンダアチェへ向かう道路沿いは、水田地帯。

海沿いの丘を越えるところで海側を見ると、なかなかの景観だった。2つの島の向こうにインド洋を見渡す。

ラムノ方面を振り返ってみると、上の写真のような光景。ここも津波に間違いなく襲われたのだろう、と思わせるような地形だった。

丘越えの海に面した茶屋で一服。ここで出されたアチェ・コーヒーは、上の写真のようにコーヒー粒が満載。表面のコーヒー粒を皿に移してから飲む。濃い。甘い。口の中に残るコーヒーの粒々が何ともいえない感触。コーヒーを飲むというより食べる、という味わい方かもしれない。

インスタントラーメンのインドミーも。ここではアチェ風の味付けにして出してくれた。これが辛くてとてもおいしい。意外なところで意外においしいものに出会えたうれしさ。

この茶屋を切り盛りしている若夫婦。

茶屋を出てしばらく行くと、サルの一群がお出ましに。そーっと走っていると、ボスらしい雄ザルが逃げずにこちらを見て威嚇してくる。この辺りにはけっこうな数のサルが生息しているようだ。


沿道で小魚や干物などを売る小屋が並んでいた。ハマグリのような大きな貝も売られていた。売り子は女性たちで、試しに買ったちりめんじゃこは塩がかなり効いていた。最近、インドネシア産のちりめんじゃこが日本でも売られるようになったが、見た目は日本で見るものとほとんど変わりなかった。

「津波に注意」の標識。交通標識なのだろうか。

沿道の警察署の前。「この付近でこの間テロリストが射殺された」と運転手が説明してくれた。周辺は人影のない、何の変哲もない場所だった。