2009年5月18日月曜日

カレドゥパ島でカソワミを食べる

ワカトビ県滞在中に、カレドゥパ島へ1泊2日で出かけた。ワカトビ県のワンギワンギ島にある県都ワンチからは高速船で約1時間半。ダイビングで名高いホガ島は、カレドゥパ島のすぐ東にある。

カレドゥパ島の手前、海上集落に立ち寄る。ここは、バジャウ族の人々の暮らす集落である。本当に、海の上に浮いているかのような集落である。家にはパラボラ・アンテナも見える。




その昔、1950年代後半、スラウェシ島南部一帯で、政府に反抗してイスラーム連邦国家化を目指すダルル・イスラーム運動が起こった際、この地域も大変な争乱となった。反政府軍のイスラーム勢力は、カレドゥパ島にも攻め入ってきたが、その先兵として使われたのが、その海上で暮らすバジャウ族であった。バジャウ族を先頭にした反政府軍はカレドゥパ島に攻め入り、島民との間で殺戮が起きた。島民は対抗してバジャウ族を島外へ追い払った。しかし、バジャウ族も昔からカレドゥパ島近くの海域で暮らしてきたため、島の長老たちは慣習法に則り、ホルオ村のマンティゴラ地区にバジャウ族の居住地を定め、そこにバジャウ族を住まわせた。しかし、今でも、カレドゥパ島民のバジャウ族に対する感情はよくない。

カレドゥパ島は、決して大きな島ではない。しかし、中央部には、標高は決して高くはないが、山岳地帯の趣をもつ風景がある。この山岳部の頂上付近にパジャン村がある。この村には、古い要塞の跡があった。この村の尾根道からは、左右両方に海を見渡すことができる。


そしてこの村は、カレドゥパ織と呼ばれる伝統的な布を多くの村人が織っている村でもある。実はこのカレドゥパ織は、5年ほど前に消滅寸前であったのを、地元住民組織が中心となって、復活させたものである。今回は、残念ながらカレドゥパ織の現物を見ることはできなかったが、南スラウェシから入ってくるサロン・ブギス(サロンとは腰巻のこと)に比べると、織りが繊細で柔らかな手触りなのだとか。島内の伝統行事等でカレドゥパ織のサロンを着用することが増えているそうである。

さて、カレドゥパ島で食べたのは、カソワミと呼ばれるキャッサバ加工品である。実は、ワカトビ県には水田がなく、米を生産していない(米はすべて外からの移入)。住民の主食はキャッサバを加工したカソワミで、カレドゥパ島は県内で最も多くのキャッサバを生産している。カソワミには大きく3種類があるようだ。


上写真の左はカソワミ・オンロオンロ、右はカソワミ・キキリ、とカレドゥパ島では呼ばれる。ワカトビ県で一般的なカソワミはカソワミ・キキリで、カソワミ・オンロオンロはカレドゥパ島で主に食べられる。

カソワミを作るには、まず、キャッサバを切って、よく洗う。カソワミ・キキリはその後、キャッサバを砕いて圧力をかけて水分を飛ばす。さらに、特別な道具を使ってそれを細かくし、ココナッツの葉で編んだものでくるんで蒸す。一方、カソワミ・オンロオンロは、キャッサバを洗った後、キャッサバを砕いたものを型に入れ、一晩海水に浸す。そして2日間、天日で乾かす。乾かしたものを薄く削って、真水に浸し、圧力をかけて蒸す。たしかに、カソワミ・オンロオンロはほのかに塩味がして、それだけでもおいしいものだった。カレドゥパ島の人々は、どちらかというと、カソワミ・オンロオンロのほうを好むそうである。


この2つのカソワミ以外に、カソワミ・ビルというのがある。作り方はほとんど同じだが、天日乾燥させるときに色が黒くなるまで乾燥させるところが異なる。ビルはインドネシア語では青色だが、現地語では黒色を指す。南スラウェシのトラジャやカジャンでは、黒は基本となる色(カジャンでは「すべての色は黒から始まった」と信じられ、身に着ける衣服は黒一色である)であり、カレドゥパでの色をめぐる言葉の違いにも何か意味があるのかもしれない。

ワカトビは、米ではなく、イモの世界なのであった。そして、1997~1998年に米の不作でインドネシアが全国的に食糧危機と大騒ぎしていた頃も、キャッサバやイモを主食とするここでは、食糧難とは無縁の生活が営まれていた。そんなワカトビでも、農業省のプロジェクトを受けて水田を作りたい、と考える役人もいるのである。

もう一つ、カレドゥパ島にはカノと呼ばれるイモがある。ある人によれば、これはカレドゥパ島の固有種で、6種類あるという。このカノが栄養的にどのようなイモなのかは、素人の私にはよくわからない。でも、このカノでつくったチップスは、やめられない止まらない、クセのない飽きないおいしさだった。案内してくれた地元住民組織の代表が言った。「おいしいだろ? でも、お土産にはあげないよ。食べたければ、またカレドゥパに来いよ」。地に足のついた地域づくりが期待できそうな弁であった。



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