2009年1月25日日曜日

友人R君からの電話

1月24日夜、マカッサルの日本人会新年会の宴も酣(たけなわ)の最中に、インドネシア人の友人R君から電話が入った。彼はマカッサル出身で、日本に研修に行った後、今はジャワ島の日系自動車部品工場で働いている。結婚もし、賑やかな子どもの声が電話口から聞こえていたのだが・・・。

何となく予感はあった。そして、電話の内容ははたしてその予感通りであった。上司から早期退職をするよう促されているという。彼によると、けっこうな退職金をもらえるので迷っているという。工場で何人ぐらい解雇されるのか聞くと、1000人中約200人が切られるそうだ。「マカッサルに帰って何か仕事を探そうかな」という彼に、(本人も知っているように)マカッサルで新たに仕事を探すのはやはり難しいので、できる限りねばって今の仕事を続けたほうがいいのではないか、と話した。

日本の自動車メーカーは、全世界規模での生産調整を余儀なくされている。かつては2億人という巨大な国内市場を標的に自動車を生産してきたインドネシア立地の日系自動車メーカーも、10年以上前からアジア市場や世界市場を念頭に、国際生産戦略の中にインドネシアの工場をも位置づけた。たとえば、キジャンといえばトヨタが生産したインドネシア仕様の多目的商用車で、インドネシア以外では生産・販売されていなかったが、最新のキジャン・イノーバは、タイでもベトナムでもたくさん走っている。12月にバンコクとホーチミンに出かけたとき、街中を走るキジャン・イノーバをみながら、ふと「自分は本当に他国へ来たのだろうか」という気持ちが湧いてきた。自動車メーカーの国際戦略は、あたかも個性豊かに見えた東南アジア各国の街の風景を一様な単色に染め始めているような感じさえした。

その自動車メーカーが生産調整を本格化させれば、その下請の役割を果たす多くの自動車部品メーカーも追随せざるを得ない。大きく報道されている日本の派遣労働者だけでなく、世界中でR君のような状況に置かれた人々がどっと増えてしまうのだろう。

思い起こせば、かつて日本は、1970年代以降の日系企業のアジア進出を受けて、アジア各国での下請産業の育成を目指した。結局、円高そして企業の国際化の後、日本で下請の役割を果たしてきた多くの日系企業が、親企業の後を追うようにインドネシアを含むアジア各国に進出した。アジア各国から日本への研修も盛んに行われ、日系自動車メーカーはその生産拠点を日本から海外へ展開させ、効率性を追求する国際生産・販売戦略に沿って、生き残りを図ってきた。その下請日系企業で働くアジア各国の労働者もまた、解雇の危機に直面している、という(考えてみれば当たり前の)ことを、彼の電話から実感した。

かつて、我が家から国際電話でラジオ・ジャパン(インドネシア語放送)の新年特番に参加し、電話口で「東京ラブストーリー」を熱唱したR君は、日本が好きで好きで、大学を中退して日本への研修に旅立った過去がある。今は嵐に入りつつあるが、いずれまたいい日が来る。そう信じたいし、彼にもそう信じてもらいたいが、待ったなしの厳しい状況に直面していることもまた事実なのである。

前にブログで、アジアはまだ明るさがある、と印象で書いた。しかし、日本経済や国際経済の暗い影が明るさを感じるインドネシアにも入り込んでいる。農業生産が好調な現在、まだ10年前の通貨危機の時ほど暗くはならないだろうという楽観論を持ち続けたいが、対外的な面で暗さを払しょくするのは難しくなってくるのかもしれない。やはり、インドネシア国内由来の経済活動が明るさを持ち続け、自分たちの身の回りを自分たちで耕すことで、この難しい時期を切り抜けていくしかないのであろう。

R君がどうなるかはわからない。「あなたのところで雇ってもらえるとありがたいのだが」とも言われたが、やんわりと断った。彼のことはとても気がかりだが、もう少し、自力で頑張ってほしいと思っている。

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