
とか何とかいってはいるが、やっぱり、マカッサルの夕陽である。これをじっと見ていると、楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、泣きたくなるようなことも、みんな赤い太陽と空が吸い込んでくれるような気がして、何だか落ち着くのである。

インドネシア、マカッサル、スラウェシ、日本、東京・・・日々の出来事や思うことを気楽に書き連ねた私家版ブログ。2008年5月以降の巻。
























その場所に着いたら、道路にたくさんの車が駐車してあった。たしかに、たくさんの人々でごった返している。ふと前を見ると、バイクがたくさん停まっているところに、ジーンズ姿の駐車係のようなおじさんがふらっと立っていたが、よくみたら、知り合いでもあるパル市長だった。ほんと、いつ会っても、その辺にいるフツーのおっさん、である。でもこの市長、電力不足で国営電気会社と交渉しても埒が明かないとなると、単身で中国へ乗り込み、中国語もできないのに石炭蒸気発電所への投資の話をまとめ、中央政府を説得して、発電所建設を実現させてしまった、というエピソードを持つ人物である。その風貌からは、どうみてもそんなことは想像つかないのだが。
いろいろなお菓子を売っていた。面白かったのは、Pisang Hijau(緑バナナ)。パルのは、パンダン椰子の葉で緑色に染めた薄焼きにバナナが包まっている。バナナの周りを厚く巻いて白いゴテゴテと赤いシロップをかけられたマカッサルのそれとは違い、パサッとした感じを受けた。
花火も堂々と売られていた。夜になると、子どもたちや若者たちがよく戯れている。
まずは、インスタント・ココアである。チョコレート、砂糖、ミルクの三位一体で3 in 1となっている。この製品は、南スラウェシ州マカッサルの工業省カカオ加工研究所で試作されたもの。とても甘い。以前、同研究所を訪れたときには、ショウガ入りインスタント・ココアの試作品を飲まされた。でも、意外にまずくなかった。
次は、高原地帯有機ロブスター・コーヒー。西スラウェシ州ママサ県で作られ、コンタクトパーソンの電話番号も書かれている。ママサは西トラジャ、あるいは本来のトラジャの原形を今も残す原トラジャとしても知られ、もちろんコーヒーの名産地。多くのコーヒーが南スラウェシ州タナ・トラジャ県へ出荷されている。「有機」というのはちょっと怪しいかも。
これは、芋・バナナ・チップスの「ウピス」。芋(Ubi)とバナナ(Pisang)をとってUpisと名づけたもの。芋とバナナを捏ね合わせて、ペーストにしたものを油で揚げたという。軽い歯触りで、たしかに芋とバナナが混ざるとこんな感じになるんだな、と実感。
ヤシ砂糖をオシャレに売ろうという動きは、各地でみられる。これは、扱いやすい小口にしたもの。通常のパック包装(上)と紙の包装(下)。とくに紙包装は、バリ島辺りで売ることを想定しているのだろうか。沖縄の黒砂糖のようなノリで、気楽に健康のために一口、という感じになるといいのだけれど。
これは「クエ・アチュアン」というちょっと面白いお菓子。見た目とは違ってソフトな感触が口に広がり、お茶と飲むとけっこう相性がいい。甘いお菓子だが甘ったるくはない。西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県のチャンパ・ラギアン郡で作られている地元のお菓子、とのこと。私はけっこう好きだ。
魚のアボン(魚肉を乾燥させて甘辛く煮付けたもの)。写真の魚がけっこうリアル。ご飯にかけて食べるとおいしいのかもしれないが、まだ試していない。
これは、トビウオの干物を売るためのパッケージング。西スラウェシ州のマジェネより北方の海岸にあるソンバ地区は、スラウェシでも南スラウェシ州タカラール県ガレソン地区と並んでトビウオ漁が盛んなところで、沿道の屋台でトビウオ料理が食べられるとのこと。次回は、ぜひトライしてみたい。
最後は、ココナッツ油。添加物を一切使用しておらず、本来のココナッツの香りが楽しめる食用油とのことで、これはホテルでも、マムジュ空港でも売られていた。昔ながらのココナッツ油、という線で売ろうとしている様子。これで揚げた揚げバナナをいただいたが、個人的にはとくに特別な何かを感じることはなかった。
日本軍政下のマカッサル市政府ともいうべき民政部は、現在の私立ラジャワリ・カトリック高校(正面玄関はJl. Lamadukkeleng、裏がJl. S. Hasanuddin)にあった。もともとこの高校を日本軍が接収して民政部としたのだそうである。つまり、戦後、元の高校に戻ったということである。民政部の当時は1階建ての建物だった。
当時の初等学校春日小学校。今は第1アンカサ幼稚園になっている(Jl. Semangkaの一番北の角)。近くにあるハサヌディン広場は当時「第二広場」と呼ばれた。当時の「第一広場」は現在のカレボシ広場である。
日本軍政期のマカッサルには、戦後の様々な著名人がやってきていた。日銀総裁となった澄田智氏、衆議院議長などを務めた前尾繁三郎氏、京都府知事や参議院議員を務めた林田悠紀夫氏などなど。この家は、歌手として名高かった藤山一郎氏が住んでいた家で、A氏によると、当時とほとんど変わらない、そのままの状態だそうである。場所はJl. Dr. Sutomo(当時名は明石通り)にある。
当時の三笠会館は、今はSosiete de Harmoniと呼ばれるマカッサル文化芸術センターになっている(Jl. Riburane No.15)。この建物は、1990年代までは南スラウェシ州政府が投資調整局などの役所として使っていたが、市内の芸術関係者の強い運動の結果、オランダ植民地時代の文化芸術センターと同様の機能を復活させたものである。日本軍政期の三笠会館では、藤山一郎氏や、巡業で来ていた森光子さんがステージ上で公演し、大いに盛り上がったそうである。A氏によれば、ステージも客席も当時の雰囲気がそのまま残っている。現在、どうやら、内部を改装して、名実ともに文化芸術センターとして設備を整える様子である。
マカッサル市内で最も有名な公立高校であるマカッサル第1高校(Jl. G. Bawakaraeng。当時名は有明通り)。ここは、日本軍政期には、マカッサル師範学校であった。