2010年4月28日水曜日

Balla Idjo Guesthouse の始まり

昨日帰国し、今日からはまたフリーの身に。Facebookなどがあるので、マカッサルやスラウェシの友人たちとお別れした、という感慨はほとんどないまま、東京での家族との生活をスタートさせた。

今回は、これまでブログでほのめかしていたマカッサルでの小さなプロジェクトの話である。実は、以前から、マカッサルに自分がいつでも戻って来れる居場所を確保し、マカッサルを訪れる私の友人たちに、そこをくつろぎと交流の場として使ってもらおうと考えてきた。そしてこのたび、私の友人に限定した会員制のゲストハウス"Balla Idjo Guesthouse"を始めた。
Balla Idjoとは、マカッサル語で「緑の館」という意味である。

部屋数はバスタブ付きの4部屋、プールもある(朝食はプール前のテラスにて)。無線Wifiによるインターネット接続も24時間OK。料理上手な私のお手伝いティニさんが日本食も交えた食事を作ってくれる。彼女の食事については、本ブログの「ティニさんの食卓」のタグを覗いてほしい。

なお、昼食は別途、1人3万ルピアでナシゴレン、かた焼きそば、炒め焼きそば、ビーフン、ワンタンメン、カプルン(野菜たっぷりのスープとサゴ椰子澱粉)、マナドお粥など、希望のものを作ってもらえる(あらかじめ希望の料理をお知らせしてほしい)。また、宿泊せずに、食事(夕食)だけの場合にも、1人5万ルピアで対応する。基本的には、彼女のお任せ料理だが、トンカツ、酢豚などのリクエストにも応じる。

朝・夕食、洗濯、インターネット接続、NHKを含むテレビ視聴を含めて、会員が1泊30万ルピア、会員が紹介する非会員が1泊35万ルピア、と価格設定した。会員は私の友人(これから友人になる方も含む)に限定し、入会費として1口50万ルピア(日本円なら5000円)をお支払いいただくことにする。これらの支払いは、ティニさんに託してもらえればよいし、銀行振込などの方法も可能である(要ご相談)。

このほか、車(アバンザ)が運転手(アミルさん)付きで1台あり、レンタル可能である。マカッサル市内ならば1時間3万ルピア、1日30万ルピア、ガソリン代込みである。マカッサル市外ならば1日40万ルピア、ガソリン代は別途支払をお願いしたい。なお、1ヵ月借りるならば400万ルピアで、ガソリン代は別途支払いでお願いしたい。

Balla Idjo Guesthouseの中には、私のインドネシア語、英語、日本語の蔵書を並べた小さな図書館も作ったので、閲覧可能である。日本の地域づくりや生活史に関わるような本、スラウェシやインドネシアに関する英語の書籍、スラウェシに関するインドネシア語の書籍、などが置いてある。こちらは、とくに事前予約の必要はないが、書籍の外への持ち出しはご遠慮願いたい。

宿泊、食事、車レンタルなどの利用ご希望の方は、個別に私宛て、あるいはメールで balla_idjo@gmail.com へ事前に必ず連絡してほしい。部屋数に限りがあるので、いつも希望に応えられるとは限らないが、可能な限り、ご利用いただけるように取り計らう予定である。

場所は、Jl. Gunung Batu Putih No. 31, Makassar である。なお、Balla Idjoという名前は、一般には公開していないので、タクシーの運転手にその名を言っても通じないので、住所を告げてほしい。

この「ゲストハウス」は、私のマカッサルでの居場所作りであると同時に、国籍を問わない私の友人たちのくつろぎと交流のサロンとして活用してもらいたいとの希望を持って始めた。そして、これは、私がマカッサルを基点に、中長期的に構想しているいくつかの活動への一歩になるものと位置付けている。

身体はマカッサルから離れても、精神はマカッサルから離れることはない。Balla Idjoから面白くて、楽しくて、みんなを幸せにしていくようなことが始まる、そんな場所にしていければと願っている。

2010年4月27日火曜日

帰国

2年間のマカッサルでの業務を終了して、今日、4月27日朝、成田着で帰国した。到着した成田は、思ったよりも寒かった。自宅に戻って湯舟に浸かり、日本へ帰ってきたことを実感した。

さて、これからしばらくは、次へ向けての充電期間。楽しみである。

2010年4月14日水曜日

ただいま「お別れ」巡業中

4月27日の本帰国を前に、今週と来週は、スラウェシ各州へ「お別れ」巡業中である。今週は西スラウェシ州、ゴロンタロ州、中スラウェシ州、来週は東南スラウェシ州、北スラウェシ州、最後は地元南スラウェシ州、の予定。ただし、来週はどちらか1州になる可能性もある。

それともう一つ、まだ公表できないある「プロジェクト」の準備を進めている。場所はもちろんマカッサルである。

というわけで、ブログの更新は滞り気味になるし、少々、疲労困憊状態。Twitterでできるだけつぶやいてみようと思っているが、なかなか・・・。

2010年4月4日日曜日

ALIGUKA


先日、私の友人であるマカッサルの若者たちが作成した『ALIGUKA』という映画を観てきた。

主人公はAligukaという名前の大学生。父親が議員で、何不自由ない生活である。その彼が、大学の卒業論文のテーマを「議員の汚職」にした。指導教官はテーマを変えるように強く求めるが、彼は頑として言うことをきかない。父親からは就職を世話するからとにかく卒業してくれ、と言われる。

プラムディヤ・アナンタ・トゥールやチョムスキーなどを愛読し、世の中に対して批判的なAligukaは、そんな指導教官や父親に嫌気がさして家出し、低所得者層の住む集合住宅で生活を始める。そんななか、父親が汚職容疑で逮捕される。それを横目に、Alikugaは、集合住宅の日々の生活で直面する隣人たちの様々な現実、彼らをそうした状態にさせている世の中の不公正さに直面しながら、一体、世の中がおかしいのか、自分がおかしいのか、分からない状態に陥っていく。そして、彼は精神病院の住人となる。精神病院の住人となったAligukaは、それまでの自分よりも幸せそうな表情をしている。

70分のこの映画は、インドサットがスポンサーになり、マカッサルの若者たちだけで製作された。Aligukaは、逆から読むとAku Gila、「私は気が変」、という意味になる。世の中の汚職を批判するナイーブな若者の話のようにみえるが、実は、それを表に出しつつ、裏では逆に、本の世界を絶対として、世の中の現実をしっかり見ようとしない、頭でっかちな若者たち(映画製作者自身を含む)をAligukaに託して批判しているのであった。

この映画は、マカッサルを州都とする南スラウェシ州がインドネシアで最も汚職のひどい州だという評価を意識して作成された。近いうちに、政治エリートを交えた場で上映することが計画されている。議員さんたちは、この映画をどのように観るのだろうか。

それにしても、こうした映画を作るマカッサルの若者に未来へ向けての前向きの、そして純なパワーを感じる。多くの場合、1回成功すると慢心して2回目以降が続かない傾向がここでは見られるが、是非、次はもっと優れた映画を作ってほしい、と思った。

2010年4月3日土曜日

バウバウ(2):ソウルと相思相愛

実は、バウバウ市は、韓国の首都ソウル特別市と姉妹都市なのである。

ことの発端は、希少言語の問題である。バウバウ市やブトン県に居住する少数種族のチアチア族が文字を持たず、自言語の消滅の危機にあるのだが、この希少言語を表音文字のハングルを使って保存しようという試みが、韓国の研究者によって始まった。その研究者たちのなかに、ハングルを発明した世宗の遠い子孫の方が入っていたことから、話が進み、いつの間にか、ソウル特別市と相思相愛になってしまい、姉妹都市になった、というのがバウバウ市長の話である。

すでに、ソウルから若者たちの使節団が訪れて滞在したほか、バウバウ市長一行も最近ソウルを訪れ、熱烈歓迎されたという。

バウバウ市にKorea Center WONAMというのを建設する計画もある。ともかく、バウバウ市は今、韓国との相思相愛の関係を生かして、地域振興に弾みをつける戦略を採り始めている。

筆者も、様々な方面から日本で姉妹都市の候補を探してくれと言われたものだが、多くの場合、「日本の姉妹都市からどんな援助をもらえるか」しか考えていなかった。一方、日本側も、何のために姉妹都市?、という空気が年々強くなっているように感じた。

韓国政府は今、インドネシアでの韓国語や韓国文化の普及に一層力を入れている。マカッサルの国立ハサヌディン大学にも、韓国政府の肝いりで韓国語学科が開設されたと聞く。他方、日本語や日本文化の紹介にかかる予算は年々削減されている。コミックやJポップでインドネシアの若者がどんどん(勝手に)日本好きになっているので、ま、いいか、ということなのだろうか。これも、いわゆる自立発展性、なのだろうか? でも、少なくともマカッサルの若者たちの日本理解は益々ステレオ・タイプ化しているように感じる。

それにしても、市長が「相思相愛」といって胸を張れるのは何ともうらやましいし、そういう気持ちを持たせるような、韓国やソウルの関係者の誠実な態度が想像できて、スラウェシ・ファンとしてはうれしく感じる。

でも、我々だって、誠実にインドネシア側と付き合ってきているはずなのだが、果たして、本当に彼らにはそう映っているのだろうか。もしそう映っていないのなら、その原因は何なのだろうか。最近、そんなことがなぜか気になり出している。

2010年4月2日金曜日

バウバウ(1):パイナップルと龍

3月26~28日、東南スラウェシ州バウバウへ行ってきた。バウバウはブトン島の中心都市で、人口は約10万人。島々を眺める風光明媚な狭い土地にひしめき合うように建物が建っている。

バウバウ市はブトン県から分立してまだ5年余。新しい市長オフィスが、海を見下ろす見晴らしのいい丘の上に立っていた。


ふと見ると、市長オフィスの前に「パイナップル」の像があった。


この後、ブトン王宮(スルタン)の要塞に囲われた場所を回ったが、そこの家にも「パイナップル」が屋根の上などに置かれていた。


ブトン王宮のシンボルは、このパイナップルと龍なのだそうである。要塞の中の家には、両方が屋根の上に置かれているものもあった。


そして、バウバウ港の前の公園には、大きな龍の像があった。この龍の尻尾は、小高い丘の上のブトン王宮の要塞で囲まれた地域までつながっている、とか、こ れからつなげる、とかいう話になっていた。この龍の像、シンガポールのマーライオンにヒントを得たのだとか。


バウバウでシンボルとして尊ばれるパイナップルと龍。何となくではあるが、沖縄との近さを感じた。もっとも、パイナップル料理が名物、ということは何もない。

でも、今、バウバウの関心は沖縄にではなく、韓国に向けられているのである。

2010年3月23日火曜日

ティニさんの食卓(4):豆のスープ


昔、ティニさんがアメリカ人の下で料理を作っていたときに覚えた豆のスープ。具だくさんで、ちょっとピリッとした辛さがアクセントのスープである。このスープ、「今日は豆のスープが食べたいな」と思ったときに、なぜか出てくる不思議な一品なのである。

インドネシアに来て元気になるといいな

数年前から、インドネシアで日本のニュースを見ていると、何となく明るさを感じない。鳩山政権が誕生してしばらく、やや明るさが感じられたのだが、今はまた明るさを感じられなくなった。また、インドネシアのなかで日本を引きずっている部分には、やはり明るさが感じられない。前向きなことを言ったりしたりしようとすると嘲笑われるような、変な気分になる。

インドネシア人看護士や介護士の問題は、様々なところで議論されているが、もし、日本人である自分がよその国で、そこの言葉を使う国家試験に受かれるかと考えれば、それはおそらく無理だろう。日本側にそうした想像力が欠けているのか。もしそれが分かっていて、そういう仕組みをインドネシア人看護士や介護士に課しているなら、それは「いじめ」みたいなものだろう。最近、インドネシアから看護士や介護士で日本へ行ってもしょうがないという人が急増しているそうだが、本音では来てほしくないのに、来ることになってしまったから柔らかに排除する、というような日本のやり方は、国際的に認知され納得されるとは思えない。誠意ある外交をしていることにはなるまい。

そんな状況で、看護や介護を受けている日本の方々は、残りの人生を楽しく生き生きと過ごしていこうと前向きになれるのだろうか。本当に元気になれるのだろうか。そういった方々の幸せを実感できるようにするのが、鳩山政権の公約だったのではないか。

ふと、発想を変えたほうがいいと思った。インドネシア人看護士や介護士が日本に行かないのであれば、日本で看護や介護を受けている方々がインドネシアへいらして余生を送ってはどうか。インドネシア人看護士や介護士は、接し方が丁寧で、日本のお年寄りの評判も上々と聞く。試験に不合格でインドネシアへの帰国を余儀なくされる看護士や介護士に、その経験をインドネシアで生かしてもらうのである。

そういうアイディアは、バリでもスラウェシでも、すでにいくつかあるのだが、日本人のお年寄りの様々な生活上のケアをきめ細かく行える体制作りに難があるようである。しかし、バリのように、すでに多くの日本の方々がセカンドハウスを持ち、バリ在住の日本人コミュニティが現地社会に溶け込んでいるようなところでは、ちょっと安易かもしれないが、何かうまくいきそうな気がする。

もっとシンプルにいえば、インドネシアに来て元気になって欲しいのである。インドネシアに移住しなくても、行ったり来たりしてもいい。そして、普通の日本のお年寄りと普通のインドネシアの人々が、何の色眼鏡も先入観もなく、互いに信頼し合えるような関係を作ることが、「友好」「親善」と口でいうより、援助をする・もらうというより、どんなに日本とインドネシアをつなげていくことか。それがどんなに日本の国益に有効であることか。

2010年3月13日土曜日

東京に帰る、マカッサルに帰る

区切りがついて、今のマカッサルでの業務は終わるが、マカッサルやスラウェシとの付き合いが終わるわけではない。マカッサルを(取り合えず)去るという感慨は、あまり感じない。

たとえば、Facebookなどを通じて、地球上のどこにいても、Friendsとはずっとお付き合いしていける。今どこで何をしているか、インターネットにつながっている限り、好きなときに言葉を交わせる。学校の卒業式で歌った「仰げば尊し」の時代ではもはやないのだ。もっとも、それがちょっと味気なかったりする気もするのだが。

私にとって、妻子のいる東京と同じぐらい大事な場所がマカッサルである。このところ、東京に帰る、マカッサルに帰る、と無意識に言っている自分がいる。マカッサルは行き先ではなく、帰る場所なのだ。だから、4月末以降も、マカッサルからちょっとよそへ出かける、という感覚になるのだと思っている。

今、マカッサルでちょっと計画していることがある。うまくいけば、4月末にはそれを読者のみなさんにお知らせできると思うのだが。

2010年3月12日金曜日

区切り

先週から今週にかけて、いくつかの区切りがついた。

先週、3月4日に約80人が参加するセミナーを開催。3人のアシスタントたちが面倒なロジを含め、献身的な働きをしてくれた。彼らの根気強い働きなしに、セミナーの成功はおぼつかなかった。以前、やはり3人のアシスタントと一緒に仕事をした、充実した日々を思い出した。もう10年前の遠い昔の思い出だが、その時の興奮と感動を瞬間的にでも思い出したかのようだった。

その3人のアシスタントの中心で、これまで2年弱にわたって傍で働いてきてくれたA君が本日で退職した。昨年の公務員試験に合格し、来週からは公務員として働くことになっている。合気道が得意でもちょっとシャイな彼は、この間にすっかり成長して頼もしい存在になっていた。でも、彼とともに私も成長できたのだろうか。ともかく、感謝してもしきれないぐらい、献身的に働いてくれた。益々の活躍を祈ることしかできない。

そして今週、4月末での任期終了、本帰国後、再びマカッサルやスラウェシで今のようなポジションで業務をすることはない、ということが確定した。自分とマカッサルやスラウェシとの関わりがこれで切れるわけでは全くないが、マカッサルやスラウェシとの関わり方を時間の経過とともに変化させていくことになる。これは必然であり、とくに驚くべきことではない。

でも、あと1ヵ月半と思うだけで、見慣れた光景や友人たちの姿が突然愛おしくなってしまうのは、なぜなのだろうか。

2010年3月7日日曜日

ティニさんの食卓(3):海老フライ、小魚南蛮漬け風


ティニさんの海老フライ。気分が乗ると作ってくれるひと品。自家製のタルタルソースも、とてもおいしい。


そして、この小魚を揚げて、南蛮漬け風に仕上げた一品もよく食卓に上がる。小魚はキビナゴの仲間である。ご飯との相性は抜群。

マカッサルの我が家の幸せな食卓、である。

2010年3月6日土曜日

マカッサルの日々

先週、今週、そしておそらく来週もマカッサルの日々である。2月前半、続けざまに4本出張を入れ、途中で、マカッサル発マムジュ行きの飛行機が急遽キャンセルになり、13時間夜行バスに乗るというオマケまでついたが、何とか体は持ちこたえた。

出張から戻って、3月4日開催のセミナー準備に明け暮れ、セミナーも何とか無事に終わらせることができた。これは、ひとえに優秀なアシスタントたちが面倒なロジ関係をすべて引き受けてくれたことがきわめて大きかった。心から感謝している。

ここ数日、マカッサルは学生デモが激しかった。最初は、経営難に陥ったセンチュリー銀行へ多額の公的資金を注入した政府(とくに当時中銀総裁だったブディオノ副大統領とスリ・ムルヤニ蔵相への名指し批判)の判断への批判、および公的資金注入は問題ありとした国会決議への支持が学生デモのテーマだった。しかし、デモ首謀学生を拘束するため、警察がムスリム学生連合(HMI)マカッサル支部に押し入り、建物の一部を破壊したことが、デモ学生たちの警察への怒りを爆発させた。学生デモはエスカレートし、あちこちで大学前の公道を封鎖して古タイヤを燃やす学生たちに警官が催涙ガスを発射し、学生が投石や火炎瓶で対抗するという事態になってしまった。

交通は遮断され、あちこちで大渋滞となった。政府公用の赤ナンバー車が学生に襲われ、赤ナンバーのトラックや救急車が被害にあった。

またもや過激化したマカッサルの学生デモ。これでは、いくら努力しても、マカッサルの対外イメージは悪化する一方だ。「マカッサルの恥」と学生をののしる市民も少なくない。一方、学生は、10数年前に同様の激しいデモを行った学生たちがその後政治エリートに転身していった姿を見ている。自分たちも先輩に負けない騒ぎを起こしたい、というのであろうか。

嘆かわしい事態に直面した、マカッサルの日々である。

2010年2月27日土曜日

ティニさんの食卓(2):とんかつ 


ティニさんの作るトンカツは、肉はやや薄めで、衣がカラッと揚がっている。ひと口カツ、といった感じかもしれない。

以前、マカッサルに滞在していたころ、一時帰国中に青年海外協力隊の方に留守番をお願いしたとき、協力隊の皆さんが我が家に集まって、トンカツ・パーティーをしたものだった。日頃、なかなか、豚肉を食べることのない彼らにとって、とても貴重なひと時、という話だった。


実は、もうひとつ。ティニさんのカエル肉の空揚げも絶品である。おそらく、マカッサル市内の中華料理屋で出すカエルよりもずっとおいしいだろう。私の家族がマカッサルに来るときには、行きつけのカエル肉商人にあらかじめ予約して、必ずこれを作ってくれる。肉の柔らかさが何とも言えない。

2010年2月26日金曜日

生物多様性保全、現場へのまなざし

ブログをいろいろ眺めていたら、以下の農業情報研究所(WAPIC)の記事に目がとまった。

 熱帯地域で食料を確保し、熱帯林の生物多様性を守るのは小規模家族農業 米国の新研究

タイトルだけ見て、「なんでこんな当たり前のことを?」という疑問がわいたのである。記事を読んで、「大量の食料を生産する一方で世界に残る熱帯林の生物多様性を保全する最善の方法は大規模な工業的農業」というのが多くの生態学者の通念である、ということを初めて知った。そうだったのか。

この考え方は、人間が自然を制御できる、近代科学技術を使って適切に管理すれば実現可能、という信念に基づいた発想だろう。

この「通念」に欠けているのは、熱帯地域、熱帯林地域で生活をしている人々がいる、という単純な事実である。

しかし、スラウェシの農村を歩いていると、何らかの理由で、処女地へ移り住み、粗放的で土地の肥沃度を収奪するような農法で食料を生産し、そこでの食料生産が増える人口を支えられなくなると、その人口の一部がさらに処女地を求めて他へ移動する、という形での小規模家族農業を目にする。

実は海の場合も同じで、魚が獲れなくなると、さらに魚が獲れるところを求めて、漁民はますます遠くへ船を出していくのである。

たとえ小規模であっても、現場での営みが粗放的かつ収奪的で移動を伴うものであり続ければ、資源の持続性は担保できない。彼らが放棄した土地や海が、自然回復力を持つ程度の収奪であれば持続性を確保できるだろうが、そこでの活動が自給的ではなく商業的な色彩を強めれば、自然回復力が発揮できる限界を超えて、資源は収奪されることだろう。

自分の住んでいる土地で自分たちの生活が成り立つだけの食料生産を適度に行うには、農業や漁業の移動性を抑制し、その場所で持続的に資源を皆で管理していかなければなるまい。その意味で、たとえば、農業では水田耕作などの定着農業、漁業では海藻栽培や養殖に注目していくことが必要になる。

ミシガン大学の研究者が、生物多様性保全の観点から、熱帯地域の小規模家族農業の役割について注目したことは評価できる。先進国側は、生物多様性保全の議論をする際に、その現場に生活する人々へのまなざしを持って、もっと現実的な議論をすべきである。

しかし、上で指摘したように、現場で生活する人々へのまなざしだけでは不十分なのである。粗放的・収奪的な農業・漁業は、先進国資本による大規模工業的農漁業のみで起こるのではない。人口圧に絡む世界中の現場で生活する無数の人々によっても起こるのである。だからこそ、現場に寄り添い、現場の無数の生活者の現実と向き合いながら、生物多様性保全と食料生産の両立を一つずつ図っていくしかないのである。

それは、現場の生活者の責任と自立発展性のみに帰せられる問題ではない。我々が現場の生活者を尊重し、彼らと一緒になって、一つずつ課題克服へ向けて、丁寧に解決を図っていくべき性格の問題であると考える。

2010年2月23日火曜日

インドネシアの盲人比率は全人口の1.5%

2月22日付けのSeputar Indonesia紙に、「ボゴールにアイバンク設立」という記事が載っていた。元大統領のハビビ氏の奥様が盲人福祉団体の会長を務めているらしく、保健大臣や夫のハビビ氏とともに写真に写っていた。

この記事によると、インドネシアの盲人比率は全人口の1.5%。すなわち、全国に約300万人の盲人の方がいる計算になる。ちなみに他国での盲人比率は、バングラデシュが1%、インドが0.7%、タイが0.3%であり、世界的に見ても、インドネシアの盲人比率はかなり高い、ということである。

インドネシア国内で最も盲人比率の高い州は、なんと、筆者が居住している南スラウェシ州で2.6%、最も低い州は東カリマンタン州の0.3%である。南スラウェシ州には約18万人の盲人の方がいる。東インドネシア地域への玄関口、開発の拠点を自負する南スラウェシ州だが、識字率や乳児死亡率など、教育・保健分野のインデックスは全国平均を軒並み下回っている。高い盲人比率も含め、何かが根本的にまずいのではないかという気がしている。

インドネシア全国での盲人となる原因は、白内障が52%、緑内障が13.4%、近視・遠視・乱視などの屈折障害が9.5%、網膜症が8.5%、などとなっている。

インドネシアに住んでいると、徐々に改善されてきているとは言うものの、障害を持った方々への配慮はほとんど見かけない。ジャカルタなどでは、盲人の方向けの点訳奉仕なども行われているようだが、必要とされる書物の数と内容が圧倒的に不足している。社会が安定し、経済が好転して生活が少しずつ豊かになっていくなかで、障害を持った方々への配慮が改善されていくことを願うばかりだが、その道はまだまだ遠そうである。


インドネシアの点字は、アルファベットを基にした表記のようである。以前、訪れた研修施設では、オーストラリアの教会関係団体が作った点字指導書のインドネシア語訳版を使っていた。

2010年2月21日日曜日

イニンナワ10周年行事フィナーレ

1週間以上経ってしまったが、2月13日夜、イニンナワ・コミュニティ10周年記念行事の最終日だった。この日まで、4日間、毎日盛りだくさんのイベントが行われてきたが、あいにく、筆者はマカッサルを離れていたため、様子を見ることができなかった。結局、13日の最終日のみ、彼らのイベントを見ることができた。


昼間に行われたのは、マカッサル市内のパサール(市場)で立ち退きを強制されている商人たちを支援しているNGOが主催した、地元パサールについての討論会だった。パサール・テロン、パサール・パナンプの商人たちが集まり、これまでのマカッサルにおける地元パサールの歴史や行政・治安当局にどう集団として対応していくか、といったことが話し合われた。イニンナワ・コミュニティには、農村を支援しているグループもあり、そこでは買い付け商人たちの横暴が問題になっていることから、両者を一堂に会して議論したほうが面白いのではないか、という意見もあったようだが、結局、実現しなかった。

夜は、4日間の記念行事のフィナーレとして、南スラウェシの地元音楽を楽しむ夕べとなった。最初に登場したのは、パロポからの音楽グループ。リズミカルな太鼓とバイオリンを弾きながらの朗々とした詠唱が耳にとても心地よかった。


次に登場したのは、パンケップ県トンポブル村の方々で、ガンブスと呼ばれる、ヤギの皮を張った手製の弦楽器での演奏であった。下写真左側のサレさん(ペチ帽をかぶった年配の方)は、ガンブスの名手として伝説の人物だったそうだが、なぜか、この30年間、ガンブスを演奏しようとしなかった。パンケップ県知事や南スラウェシ州観光局が頼んでも、頑としてガンブスを弾こうとはしなかった。イニンナワ・コミュニティのなかの農村支援NGO「パヨパヨ」がジャワで牛糞を利用したバイオガスの適用を学び、それをパンケップ県山間部のトンポブル村で試したところ、村人に好評を博した。徐々に燃料のための薪用に木を伐採するのが減り始めた。そんななか、突然、サレさんがガンブスを弾こうという気になったのだそうである。でも、なぜなのだろう? ともかく、彼が30年ぶりに弾いたというガンブスは、素朴だがジーンと来るものであった。


トンポブル村のガンブス演奏の後は、イニンナワ・コミュニティの若者たちによる歌、ビオラ演奏などが行われ、パロポのグループが再度演奏した後、ゴワ県の有名な漫談師・ダエン・ミレが登場した。ちょうどウクレレ漫談の牧伸二さんのように、指で弾く小さな弦楽器のケチャピをリズミカルに操り、マカッサル語で聴衆を惹きつけながら最後のオチでどっと笑いをとる、というパターンが何度も何度も繰り返されて、場が大いに盛り上がった。マカッサルの大衆芸能の豊かさを心底感じられたひとときであった。


そして、パロポの演奏グループとダエン・ミレのセッション。即興で双方がそれぞれの持ち味を生かしながら掛け合う。両者に当初の打ち合わせはない。しかし、その即興の妙が存分に発揮され、双方がノリノリになりながら、自由自在に演じる舞台だった。


こうした地元音楽の演奏をリラックスした雰囲気で楽しみながら、ここでこうやって、イニンナワ・コミュニティの若者たちと過ごしてきた思い出の数々を思い起こし、何ともいえぬ芳醇な気持ちを感じていた。言葉にうまく言い表せないのだが、何物にも代えがたい「豊かな空間」、とでもいうものを、この我が家のなかで心地よく感じた夜であった。

2010年2月20日土曜日

修理屋さん


大量消費・使い捨て社会がマカッサルにも急速に押し寄せているが、まだいたのである。靴やカバンやサンダルや傘の修理屋さんが。

昔、ジャカルタに住んでいたとき、こんな修理屋さんが家々を回っては、細々したものを修理してくれたものだ。今では、ショッピングモールのスーパーの隣に近代的な店を構えた修理屋チェーンが代替している。

2010年2月13日土曜日

ワカトビの海を眺めながら思ったこと

ワカトビの海を眺めながら、いろいろな思いにふけった。

まず、コペンハーゲンや京都での国際会議に参加している方々に、ワカトビのような気候変動や生物多様性保全の現場の人々の生活や活動がどのように認識されているのか、ということ。

東南スラウェシ州でも有数に貧しいと言われ、出稼ぎも少なくないワカトビでも、島々に暮らす人々の数は増加傾向にある。人々が生活するために必要な水や食糧生産(ワカトビの主食はキャッサバ。米はすべて外部から移入)のための土地は、今後も十分に確保できるのか。実は、ワカトビの中心であるワンギワンギ島やカレドゥパ島では、島内の森林伐採が進み、水源の維持に黄信号が点っている。

近い将来、毎日、大量の水を船で島外から運ばなければ人々の生活が維持できない事態になりはしないか。これまで、米はなくとも、キャッサバやサゴヤシで飢えを経験しなかったワカトビで、今後も人々を養うために十分な食料を確保していけるのか。

今回のワカトビでのワークショップのテーマは、持続的発展であった。

私は試みに参加者に質問してみた。イエスだったら挙手をお願いした。「皆さんはワカトビが好きですか?」。ほぼ全員が挙手。「皆さんはワカトビに住み続けたいですか?」。これもほぼ全員が挙手。「皆さんは自分たちの子供や孫にもワカトビでずっと暮らしてほしいですか?」。パラパラっとわずか数人が挙手。

参加者のほとんどは県政府の役人だったが、彼らにとっての「持続的発展」とは、珊瑚礁保全のような、外部者から働きかけがあって初めて認識する頭の中のものであって、自分たちの生活をどう維持していくかという現実の部分から持続的発展を認識していなかったことが明らかになってしまった。

国際会議の議論と現実とをつなげていくには、この辺からしっかりと取り組んでいかなければならないのではないだろうか。こうした役人たちの認識を形成させた一端は、我々外部者の現場の人々に対するこれまでの認識やアプローチの仕方による面がたぶんにあるだろうと思った。

もうひとつ。ワカトビでの会議の展開を見ながら、もはや「一方から一方へ援助するというやり方が意味をなさなくなりつつあるのではないか」ということ、また「相手側の自立を促し、自分たちだけでやれるようになっていく」ということが気候変動や生物多様性保全については当てはまれないのではないか、ということである。

相手側の自立支援のための援助では、援助する側に「いつまでにどのように相手側にとって援助が必要でなくなる状態にしていくか」というプロセスを明確にし、援助する側の退出の意識を明確化しておくことが重要である。それがないと、援助する側のモラルハザードが生じる。

しかし、グローバルな世界に直結する気候変動対策や生物多様性保全は、その現場の利益だけではなく、地域や国境を越えた地球全体の共通利益ともいえるものである。こうした地球全体の共通利益も、現場の人々の行為や活動によって影響を受けるという意味で、グローバル・イシューであると同時にローカル・イシューにもなる、両者直結のイシューととらえるべきであろう。相手が自立したら援助はおしまい、なのではなく、地球全体の共通利益のために、グローバルの世界とローカルの世界が一緒になって取り組んでいくべき性格のものなのではないか。

翻って、これまで両者は一緒になってやってきたと言えるだろうか。非常に簡単に言ってしまえば、先進国側が資金や援助を出し、現場側に「お願いだから、援助をあげるから、サンゴ礁を守ってくれ」というような面がないとは言えないのではないか。現場の方々に、環境を保全することが自分たちの生活を守っていくためにより利益がある、ということを真に認識してもらえているのだろうか。

「一緒に」という意味は、そこまで深く下りていって、現場の方々を敬い、真に寄り添うことによって、初めて可能になるものであろう。現場の方々が主体的に何かを起こし、それが地球全体の共通利益と結び付く方向性を目指していくのである。やはり、外部者の現場の方々への関わり方が問われてくるだろう。

そして、その「一緒に」という取り組みは、必ずしも公的援助である必要はないのではないか、とも思った。ワカトビの現場の人々の主体的な活動が気候変動対策や生物多様性保全に関わるものであれば、それを応援したい個人や組織が「社会的投資」のような形で関わりを持ってもよいのではないか。

たとえば、ワカトビで地元の人々がダイビング・ビジネスをやろうとするときに、外部者がそれに対して「社会的投資」のような形で応援することは、珊瑚礁保全の活動につながるだろう。ペットボトルをリサイクルして、海藻生産用の「浮き」を作る小さな工場を作りたい地元の方がいれば、それに「社会的投資」をおこなうことは、環境保全に貢献することになるだろう。ほんの小さなものでも、現場の人々の行為や行動に外部者の関心が向けられることで、現場で何かポジティブなことが生まれてくるのが期待できるのではないか。

まだまだ粗い、思いつきの域を出ない考えだが・・・。

ワカトビ再訪

2月7~9日にワカトビを再訪した。何度来ても、ワカトビの珊瑚礁の海の美しさを堪能してしまう。今回も、ワカトビ県知事に誘われて、他の訪問者と一緒に、ホガ島まで小旅行をした。

ワカトビの中心、ワンギワンギ島の上空から。

海面下のサンゴが見渡せる、透明な海水。

珊瑚礁の海の上で暮らすバジャウ人の海上集落。

帆をかけ、風を受けながら走る漁民たちの小舟。

近年盛んな海藻生産。県知事曰く、「海の田んぼ」。
世界の海藻生産の大半はワカトビを含む珊瑚礁三角地帯で営まれる。

ホガ島の桟橋。ワカトビ県は、このホガ島を珊瑚礁三角地帯の気候変動や珊瑚礁保全に関する現場密着型の調査研究センターにしたい意向。実際、英国エセックス大学がこれまで10年間、ここを拠点に珊瑚礁の状況について定点観測を行ってきている。

にわか雨に打たれながら、船上から見た夕日。


2010年2月6日土曜日

イニンナワ・コミュニティ10周年に


マカッサルの若者たちが設立したイニンナワ・コミュニティが10周年を迎える。イニンナワ・コミュニティは、様々な小さな若者グループやNGOの極めて緩やかな連合体で、明示的な代表者は存在せず、10~20人の中心メンバーがうまく役割分担しながら、この緩やかな連合体を動かしてきた。

コミュニティには、パサールの小商人を支援するNGO、有機農業を学んで農村と都市を結ぼうとしているNGO、外国語で出版された南スラウェシに関する文献のインドネシア語翻訳出版を行うNGO、高校生を対象に農村などでホームステイを伴った研修を行うNGO、マカッサルでは民間図書館としては草分けのNGO、意味のある写真撮影を目指すアマチュア・カメラマンのNGO、などが参加している。

インドネシアで組織を作るときには、必ずトップがだれで、副がだれで、会計役がだれで、と、まず形から入るのが常識だが、イニンナワ・コミュニティにはそれがない。何となくまとまって、つながっている。そして、傘下(にあるとされる)の団体同士が、これも自然に何となく互いに協力し、関係を持って活動している。一人で複数の団体に所属しているものも数多い。そして、このコミュニティに関わるものは、来るものを拒まず、去るものを追わず、という形で、活動や考え方に共鳴してくれれば、誰でもコミュニティの仲間として受け入れてもらえる。悪い言葉でいえばいい加減、でもいい言葉でいえば柔軟極まりない「集団」である。

こんな連合体が10年もマカッサルで存続していること自体が不思議に思える。彼らとはもう5年以上の付き合いになるが、何とも言えず気持ちがよい。決して国際援助機関の資金供与を当てにしないため、資金不足は常態化しているが、援助業界で流布される「グッドガバナンス」とか「ファシリテーション」とかいったヨコ文字言葉などには全く見向きもせず、自分たちの活動を自分たちのペースでそこそこに続けてきたのである。

こうしたイニンナワ・コミュニティの設立10周年行事が、2月10~13日に、彼らの活動場所である我が家で行われる。内容は盛りだくさんで、本の出版記念講演会+討論、エッセイ・コンテスト、演芸会、本の廉価即売、ローカルマーケットに関する討論会、写真展、読書愛好会の集い、文学・音楽の集い、など様々が企画されている。

仮に私がマカッサルからいなくなったとしても、彼らの活動が地道にさらに展開していけるように、と願いつつ、できる限り、私も彼らと一緒に10周年記念行事を楽しみたいと思っている。私の大事な大事な仲間たちである。

イニンナワ・コミュニティの活動の一部が2月6日付のKOMPAS紙に紹介された。以下のサイトを参照されたい(インドネシア語)。

ININNAWA: Inspirasi dari Makassar