2011年12月18日日曜日

技術進歩と高リスク社会

新しい技術が便利な社会や豊かな生活を約束する、と我々はずっと信じてきた。そのために、高い経済成長を追い求めてきた。技術革新によって技術力が進み、あらゆる社会問題が技術進歩によって解決するかのような、そんな期待を抱きながら、我々はより良い生活を求めてきた。

そしてその過程で、新しい技術を素晴らしいものと礼賛し、その一方で、古い技術を後れたものとして捨て去ってきた。市中では新製品が次々に生まれ、古い技術を使った製品は価格が安くなり、消費者から見むきもされなくなって消えていった。

経済は常に、新しい需要を起こしながら、その需要を満たす製品を供給する、というサイクルを繰り返しながら、そしてそのサイクルを短くしながら、ダイナミックに動いていく。そして、その過程で古い技術やそれで作られた製品は消え、もはやそれらを再現する必要はないとみなされる状態となった。

常に最新の技術を求める社会、それがこれまでの日本だったのではないか。

しかし、その最新の技術が社会にとって本当に必要とされているかどうかを立ち止まって検証することはほとんどなかった。むしろ、最新の技術に合わせて我々の社会や生活のあり方を変えることで、財・サービスの新たな需要を生み出し、経済を発展させようとしてきた。

デジタル放送化で古いテレビを使えなくし、黒電話の代わりに電気なしでは使えない高級電話ファックス機を普及させ、数ヵ月ごとに携帯電話を買い換えなければという衝動を引き起こさせる。上にヤカンを乗せれられる石油ストーブの代わりに、電気で動く石油ファンヒーターを買わせると、加湿器の需要も生まれる。

東日本大震災の後、何が起こったか。停電のない日常を前提とした生活が崩れたのである。電気がなければ、テレビも観られないし電話もかけられない。石油ファンヒーターも動かない。携帯電話も充電できなくなる。

リスクのない社会を目指し、技術進歩を信奉した我々が、いったん現実のリスクに直面したとき、何もできず、パニックになる。

乾電池で動くラジオがあれば、テレビがなくとも情報がとれる。コンセントのない黒電話があれば、電話で連絡を取ることができる。電源の要らない石油ストーブならば、寒い部屋で凍える心配もない。

我々はリスクのない社会を目指して技術進歩を礼賛してきた結果、いったんリスクが起こったときに何も役に立たない技術だけの社会を作ってしまっていたのではないか。代替できる別の技術や製品を古いものとして捨て去ってきた結果として、技術が高度に発展した社会は、何か起こったときのリスクが極めて高い社会になってしまったのではないか。

高度技術を追究することは必要である。しかし、それ以外の技術を捨て去る必要があったのであろうか。高度技術に合わせて、それしか使えないような社会や製品を作り出し続けることが豊かな生活を約束することなのだろうか。むしろ、黒電話も使える社会のほうが、我々は安心できるのではないか。

様々な技術が並存する社会。それは、後発発展を続ける発展途上国の経済成長のボトルネックとみなされたものである。新しい技術が古い技術に取って代われないので、いわゆる二重経済が生じ、国家としての早急な成長が進まない、日本はその点が解消したから高度成長が可能になったのだ、といった見方である。

今から振り返ると、それはいったん何かが起こったときに何もできない、一般の人々では太刀打ちできないブラックボックスに依存する高リスク社会を築いてきたとはいえないだろうか。

様々な技術が並存し、それを必要や状況に応じて適宜選択して活用できる社会。古いものを捨て、新しいものに合わせることを強制しない社会。これがリスクの低い社会であろう。でも、日本は古いものを捨て去ってきた。経済成長が大きく望めない現状では、日本で古いものをもう一度作っていく費用と便益は決して経済的なものではない。そうであるならば、外から、まだそうした古い技術や製品が使われている発展途上国から日本へ持ち込むしかないのではないか。

技術レベルの高低のみで技術の優劣を語る時代、 先進国の進んだ技術を発展途上国へ教えるという一方通行的な姿勢。今や、これらを超えなければならないのではないか。

以上の点については、これからも考え続けていく。