2013年3月3日日曜日

新ブログ「インドネシアあるくみるきく」

3月1日より、新ブログ「インドネシアあるくみるきく」を開始しました。

 インドネシアあるくみるきく

よろしくお願いいたします。


2013年1月11日金曜日

心の中でまだ息づいていたもの

本当に久々のブログ執筆。

2013年1月10日、初めて会った方と、魂からほとばしる話をする時間が持てた。そして話をしながら、自分の本当の思いが心の中でまだしっかりと息づいていたことに気がついた。こんな気持ちになったのは、ジャカルタへ拠点を移してから初めてではないか。

ここのところ、ちょっと仮の自分でいることに疲れを感じていた。自由に感じている反面、今の流れに合わせている自分もいた。そしていつの間にか、仮面をかぶり始め、それが取れなくなってしまいそうな自分がいた。

それは、薄っぺらくなっていく自分であった。周囲の流れに合わせながら、生きていることへの真摯さが薄れ、上っ面を追いかける風に身を任せ始めていた自分であった。組織から自由になったはずなのに、なぜ自分は上っ面で薄っぺらくなっていくのだろう。立ち止まってふとそんなことを思った。そして、どっと疲れが出るのを感じた。

今日、その初めて会った方と話しながら、何となく救われた気分がした。薄っぺらくなっていく自分とは違う自分が久々に現れた。まだ自分は大丈夫だ。本当の自分でしっかりやっていけるはずだ。束の間かもしれないが、そんな気持ちを久々に感じた。

心の中でまだ息づいていたもの。それが自分の中にみなぎってきたとき、今よりももっと本質的な意味において、全力で生きていくパワーを全開させることになるのだろう。何となく、薄っぺらくなっていく自分に虚無感を感じながらも、そうはならない芯の部分を確認できた、いい時間を過ごせた。

2012年9月22日土曜日

9月23日、ジャカルタ・ジャパンまつりオープニング

明日9月23日、ジャカルタ・ジャパンまつりのオープニングで「気仙沼からインドネシアへ愛を込めて」と題して、インドネシア・パレード復活の様子を紹介します。気仙沼の皆さんの思いをうまく伝えられるかどうか、今からドキドキです。

ジャカルタ・ジャパンまつりのオープニングは、ジャカルタ時間の9月23日(日)午後1時半〜5時、Sari Pan Pacific HotelのBallroomで開催されます。詳細はこちらをご覧ください。
 

2012年8月25日土曜日

一時帰国終了

8月11〜25日に一時帰国しておりました。

11日朝成田に到着し、東京の自宅で昼食をとった後、そのまま気仙沼へ向かいました。気仙沼では、インドネシア大使館一行を迎えた歓迎交流会に出席し、大島の旅館に1泊しました。

12日は、午前中に陸前髙田へ行きました。気仙沼へ戻る途中で虎舞を見てから、みなとまつりを見物、とくに、インドネシアや日本の様々な方々から集められた道具や衣装を使ったインドネシア・パレードを見学しました。

13日は、朝、高速バスで気仙沼を出発し、南三陸経由で仙台へ。仙台からまたバスで相馬へ行き、相馬でタクシーに乗って松川浦、原釜方面へ。相馬からJRで原町へ行き、再びタクシーで避難制限地区の小高区を見て回り、原町から高速バスで福島の実家へ、と移動しました。

14日、15日は福島の実家で、母や弟らと過ごしました。

16日は、福島から高速バスでいわきへ向かい、アクアマリンふくしまを訪問。その後、泉からJRで東京へ向かい、ようやく東京の自宅に泊まれました。

東京では、友人や知人と会ったり、会議や打合せがありましたが、妻子と束の間の家族団らんのひとときを過ごしました。運良く、「ニッポンの嘘:報道写真家福島菊次郎90歳」を観ることができました。

24日は、JACジャパンにて「ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占う」と題した講演を行いました。

今回の一時帰国では、ずっと心の中でわだかまりとなっていた被災地訪問を、わずかの時間でしたが実現することができました。「行ってよかった」と実感すると同時に、「被災地を訪問した者の使命」といったものを考えずにはいられなくなりました。

また、短期間だからこそ、家族のありがたさをひしひしと感じ、支えられているという実感を改めて感じました。

さて、これから、エア・アジアの深夜便でジャカルタへ発ちます。次回の一時帰国は11月頃、何カ所かで講演会を予定しています。

2012年7月23日月曜日

講演会のお知らせ(2012年8月2日)

久々のブログ更新となりました。

いろいろありましたが、ようやくジャカルタでコンサルタントの仕事を始めました。引き続き、よろしくお願いいたします。

早速ですが、僭越ながら、下記の通り、講演会を開催することになりました。現段階で、まだ2年先の大統領選挙がどうなりそうか、インドネシア政治がどのように展開していくか、大胆にも見通してみよう、という趣旨です。聴講をご希望の方は、下記の申し込み方法に従って、メールにてお申し込みください。

==========


第1回JACインドネシアウォッチ

ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占う

厳しい国際経済情勢の中で、堅実な経済発展を進める東南アジアへの関心が高まっています。とくにインドネシアは、親日的な国民性とともに、急速に高齢化が進む中国や洪水リスクに見舞われたタイなどから、生産拠点の分散の観点で大きく注目されています。このインドネシアでも、憲法の規定により、ユドヨノ現大統領は2期目で引退し、2014年の大統領選挙で新しい大統領が選出されます。

次期大統領にはどのような人物が就くのか。次期大統領のもとでインドネシア政治はどのように動くのか。汚職体質は改善されるのか。まだまだ不確定な要素が多く、判断がつきにくい部分が多いことは承知のうえで、本講演では、1998年スハルト体制崩壊後の政治の展開や過去の大統領選挙を踏まえながら、敢えて現段階で、ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占います。

講師: 松井和久(JACシニア・アドバイザー)

日時: 2012年8月2日(木)16:30 - 18:30(受付開始16:00)

場所: スカイビジネスセンター
     Menara Cakrawala 19th Floor(スカイラインビルディング)
     Jl. M. H. Thamrin No. 9, Jakarta

参加費: Rp. 500,000 + PPN 10%

定員: 60名


<申し込み方法>

下記をご記入のうえ、メールにてお申し込みください。
1) 会社名 2) 氏名および役職 3) メールアドレス 4) 電話番号(できれば携帯番号)

申込先: JACビジネスセンター 石川礼子(reiko@jac-bc.co.id) 上田ぬ美子(numiko@jac-bc.co.id

==========

今後、ほぼ毎月、ジャカルタで講演会を行う予定です。1本は日本語でインドネシアについての話を、1本はインドネシア語で日本についての話をする予定です。

また、8月からNNAインドネシア・デイリー版の毎週木曜日に短いコラムを書くことになりました。

引き続き、インドネシアの政治・経済・社会を現場からウォッチしていくと同時に、インドネシアと日本とを様々な形でつなげていきたいと思っています。


2012年6月22日金曜日

バティック・パプアについて

パプアを訪れてからだいぶ経ってしまいました。今は、シンガポールでこれを書いています。

最近、インドネシアでは、バティック(蝋纈染め)がユネスコ無形文化遺産に登録されてから、全国各地でご当地バティックが作られるようになりました。そして、公務員は毎週金曜日にバティックを着用することになりました。

もちろん、パプアでもバティック・パプアが店で売られ、公務員たちは金曜日にはバティック・パプアを着用します。バティック・パプアのモチーフは極楽鳥(チェンデラワシ)、太鼓などの楽器、が主なものです。

このバティックのすべてが、実はバンドンやジョグジャカルタなど、ジャワ島で作られ、パプアに送られてきます。しかも、そのほとんどは、布に印刷されたプリンティング・バティックです。モチーフはパプア風ですが、色違いで模様はほぼ同じ、というバティック・シャツです。手書きのものも若干ありますが、それらもまた、ジャワ島で作られたものです。

実は昔、別のバティック・パプアがありました。私は1995年に、ビアク空港の売店でバティック・シャツを買ったのですが、トカゲと人の絵の入ったステキなものでした。このときのバティック・パプアは、州都ジャヤプラの郊外のワイエナにある州営企業で作られていました。しかし、その企業は2000年頃に閉鎖され、バティック・パプアは消えてしまいました。

今のバティック・パプアは、そのパプア産のバティック・パプアの流れとは別な話として現れてきたものです。

本来、バティックは、ジャワ文化の産物でした。パプアの人々は、一部を除いて、そうした布を作って身につける文化を持たなかったと考えられます。その意味で、パプアにとってのバティックは他所からもたらされた外来文化です(余談ですが、他のご当地バティックの多くも同じような構造を持っています)。

しかし、そこにパプア風のモチーフが使われ、パプアの人々がバティックを着るようになると、バティック・パプアがあたかも自分たちの産物であるかのような空気が作り出されてきます。しばらくすると、バティック・パプアを誇らしげに語り、我々外国人に土産物として勧めるといったことが起こってくるかもしれません。

しかし、それはパプアの人々が作りだしたものではなく、モチーフを借りたジャワ島の人々が作ったものなのです。バティック・パプアが売れても、その売上のほとんどはジャワ島へ還流していきます。

バティック・パプアを誇らしげに語るパプアの人々にとって、自分たちの文化とは一体何なのでしょうか。

パプアの人々は、自分たちはジャワやスマトラとは違う、と独自性を強調します。しかし、自分たちが作ったものではないにもかかわらず、バティック・パプアを自分たちのものとして認識するのは、よそ者によって作られた文化的産物を自分のものとしてそのまま受容する、という形態に他なりません。

実は、バリ島で有名なケチャック・ダンスなども、土着のものをドイツ人がアレンジしたものが今に伝わっているという話です。よそ者によって作られた文化的産物がそこの人々のものとして受容される、というのはパプアに限った話ではありません。

パプアの人々にとってパプアたるものとは何であるのか、という問いは、独自性を強調するパプアの人々自身が自らをどれだけ深く理解しているのか、という問題と重なってきます。

ジャヤプラを離れる前、州立パプア博物館に立ち寄りました。誰も来訪者のいない閑散とした館内には、アスマット族の素晴らしい彫刻品など、様々な展示物がありました。パプアの人々は、パプアという括りの前に、自分たちの種族の独自の文化的産物を持ち、それに魂を入れ込んできたことが感じられる展示物でした。しかし、それが、パプアに人々自身に見られることなく、展示されているのです。

自分たちの独自文化への無関心、それとは対照的な、外部者によって作られた文化的産物の受容、といったものに、パプア人の外部者に対する意識が絡んで、パプアを強調する動きを形作っており、その文化認識が意外に浅いことをまざまざと感じたのでした。

2012年6月7日木曜日

ジャヤプラは美しい街

パプアと聞いて、どんなイメージを持たれるでしょうか。6月2〜6日、パプア州の州都ジャヤプラへ行ってきました。

ジャヤプラに来たのは約1年ぶり。前回来たときには、ジャヤプラの手前のアベプラ付近の沿道の商店の数がずいぶん増えて、ここでも消費の波が押し寄せていることを実感しましたが、今回もそれは同じでした。地方でもお金は回っています。


センタニ空港からほど近い、国軍コンプレックスの中にある通称「マッカーサーの丘」にある記念碑(写真上)。1944年に米軍南西太平洋司令部がここに置かれていて、マッカーサー司令官がここで指揮を執りました。眼下にはセンタニ空港の滑走路とセンタニ湖が一望できる眺めのとてもよいところです。


ジャヤプラに初めて来たのは1995年12月、あのときに見たワニの養殖場はどうなったかが気になり、行ってみました。宅地化が進んでワニの異臭が敬遠され、養殖場は遥か遠く離れたマンベラモ地区へ移転したということでした。それでも、小さなワニが少し大きくなるまで養っている養殖場が一区画残っていました。


そこからちょっと離れた海岸に近いハマディ地区に、日本軍の上陸記念碑がありました。そしてその横には、函館市ニューギニア会の慰霊碑があり、ご遺族が読まれたとおぼしき鎮魂歌が彫られていました。残念ながらカギがかかっており、遠くから眺めるだけでしたが・・・。布が干されているのがご愛敬です。


ハマディ地区は、様々なパプアの民芸品が売られるマーケットがあることで有名ですが、その真ん前にきれいな中央市場ができていました。以前と同様、これらの商店を経営しているのはブギス人やジャワ人といった、パプア以外からやって来た人々やその子孫たちでした。


ここで、ワメナ名産の木の繊維で織られた網製のバッグ「ノケン」を買いました。伸縮自在で、自然素材(ちょっと素材自体の匂いはあるが・・・)。しかも丈夫。コンパクトに小さくなります。以前から、エコバッグの本命と睨んでいましたが、ジャカルタやマカッサルではなかなか手に入らず、ようやく手に入れたという次第。今年の夏、東京で使ってみようかな、と思っています。


それにしても、ジャヤプラという街は実に風光明媚な街です。ちょっと丘の上に上って下を見渡すだけで、素晴らしい景色を味わえます。




是非、一度、ジャヤプラの絶景を満喫しに来られることをお勧めします。

2012年5月20日日曜日

「簡単と高速!」

インドネシアは、昔から為替管理をしないできた国ですが、外国からの送金や外国への送金が比較的スムーズに行われています。ですから、外国から資金が入ってくるのも早ければ、外国へ資金が逃げてゆくのも早いわけで、1997〜1998年の通貨危機のときに、外貨を交換するのが急に難しくなったのを思い出します。

先日、ジョグジャカルタへ出張に行って帰ってきたとき、ジャカルタの空港で見かけたのが次の看板です。


にこやかな男性と女性が丁寧に手を合わせて「Welcome! Withdraw your money here. Easier & faster」と呼びかけています。これが「ようこそ!ここにあなたのお金を引き出します。簡単と高速!」と言い換えられていました。

にこやかな男性と女性にお金を引き出してもらおうかしら、と思ってしまいました。

インドネシアのほとんどすべての銀行のATMは24時間動いていて、時間外手数料のようなものは存在しません。他行にATMから送金するときにも手数料が引かれることもありません。時間外、という概念がないのです。24時間、いつでも同じサービスをATMは提供しています。

日本から持ってきた国際キャッシュカードで引き出せるATMも多数あります。bank International Indonesia (BII) には、ドル口座からドル紙幣で引き出せるATMもあります。

日本の地方へ行ったときに手持ちのお金がなくなって、夜間から翌朝8時45分までATMが稼働せず、お金が下ろせなくて困ったことがありました。インドネシアでは、けっこうな田舎へ行っても、ATMがあれば、お金が下ろせなくて困るという経験はあまり記憶にありません。

簡単と高速! たしかに。

2012年5月13日日曜日

心はまだ揺れ続ける

遠く離れたインドネシアにいても、故郷・福島のことを思わない日は1日たりともありません。いや、遠く離れれば離れるほど、福島のことを思う気持ちが強くなってくる、といったほうが正しいのかもしれません。

実際、今年の正月、福島の実家に帰省した際、高校時代のサークルの先輩・同輩たちと久方ぶりに会っての新年会がありました。サークルの恩師も来られて、出てくる話は高校時代の恥ずかしい話ばかり。大いに飲み、大いに笑い、楽しいひとときを過ごしたのですが・・・。

先輩・同輩の中には、震災のときに直接被害にあったり、生死の境にあったり、壮絶な経験をされた方が数多くいました。復旧・復興の前面に立って激務の毎日の県庁管理職や子供のケアに奔走する教員がいました。一人ひとことの段になると、「去年がひどかったから今年は絶対にいい年になる、いやいい年にする」と口々に決意が述べられました。

私も福島に留まって一緒に汗を流すべきではないか。「ここで一緒にやっぺ」という言葉を待っていた自分にかけられたのは、「大丈夫。俺たちが必ず復興させるから」という言葉でした。お前にはお前を必要としている場所があるはず、とも言われました。高校を卒業してからすでに30年以上が過ぎ、福島にまだ生えていると思った根っこは、物理的には消えてしまっていたのか、と思いました。それは、「福島にお前なんか必要ない」というのではなく、「福島に必要かもしれないけど、もっと必要としている場所があるだろ」という、福島人によく見られる「遠慮」だったのかもしれません。

ジャカルタに来てからも、今もまだ、福島への自分の心がまだ揺れ続けています。

つい最近、知人の方が福島の現状を世界へ向けて発信する仕事に就かれた、という話を聞きました。私もその仕事の公募があったことは知っていて、応募しようかどうか迷った末に、ちょうど前の仕事の関係で時期が合わない、ということで、応募しなかった仕事でした。知人の話では、その方以前に採用された方がいたが結局は辞退、ということが何度か繰り返されたのだとか。最終的に誰もやる人がいなくなって、結局、公募を呼びかける側にいた知人が自分で行かざるを得なくなった、という顛末になったそうです。

もし、そんな状況を知っていれば、前の仕事が終わった後、私が手を挙げてもよかったのに・・・と。

さらに、別の私の知人が東京での大学教員を辞めて、福島の現場でコミュニティ再生のために働き始めました。福島生まれでない彼の勇気が私にはない・・・。福島は自分の故郷なのに・・・。 本当は、自分が行くべきだったのではないか。

でも、これらの仕事をすると決断したとしたら、果たして東京の家族は諸手を挙げて賛成しただろうか。とくに、生計を立てていくということで、その仕事で家族を養っていけるのかどうか、冷静に考える必要があるのは当然のことでしょう。インドネシア流にいえば、全能の神が最適な形に導いてくれた、と考えなければ、何とも仕方ないような気もします。

でも、もし自分に家族がいなかったなら・・・。考えていくとキリがありません。いや、考えても仕方ないことなのかもしれません。

心はまだ揺れ続けています。でも、少なくとも次のことだけは心に留めなければなりません。

すなわち、故郷・福島のことを常に思い続けること。

福島の復活・再生・新生へ向けて活躍されている方々のことを思い続けること。

たとえ世の中が福島を忘れそうになっても常に福島のことを自分なりに発信し続けること。

インドネシアなどでの自分の活動がどこかでいつか福島の復活・再生・新生とつながっていくと信じて毎日を過ごしていくこと。

福島で生まれ、育ったことを誇りとし、正々堂々と生きていくこと。

あーあ、妻子に「力入れ過ぎだよ」なんて軽くいなされそうな。

活動拠点はインドネシアへ

読者の皆様に一つお知らせがあります。

今年4月、株式会社インドネシア総合研究所チーフコンサルタントを辞めました。活動の拠点を東京からジャカルタへ移し、今後は、インドネシアをベースにすることにしたためです。当面は、京都大学東南アジア研究所ジャカルタ連絡事務所の駐在を務めますが、7月以降は、当地の某インドネシア企業にスポンサーとなってもらい、コンサルタントとして活動していく予定です。

現在、日本企業のインドネシアへの進出熱が高まっています。企業進出を支援する日本のコンサルタントもたくさんジャカルタへやってくるようになりました。私も、そうしたお手伝いを具体的にさせていただきながら、その先にある日本とインドネシア、アジア、世界との関わりの未来を見据えたコンサルティングを行っていきたいと考えています。これからのインドネシア社会がどうなっていって欲しいか、アジアのなかで日本が、日本人がどのような存在になっていって欲しいか、様々な人々と一緒にどのような新しい何かをこの場で生み出していくことができるのか、そんなブロードなことを頭に描きながら、活動していければと願っています。


2012年5月7日月曜日

ジャカルタでトルコ料理

5月6日、いつも原稿執筆でお世話になっている某メディアの知人と一緒に、トルコ料理を食べました。場所は、京都大学東南アジア研究所ジャカルタ連絡事務所のすぐ近くにあるTurkuazというレストラン。9ヵ月前にオープンした比較的新しいレストランです。

このトルコ料理レストランですが、Jl. Gunawarmanに面しており、その前を通るたびに気になってしかたありませんでした。たまたま、今日は知人と会う約束があり、彼を誘って実験的に試してみようということになりました。

店に入ると、目につくのは美しい模様のステンドグラスが連なるランタンです。なかなかの装飾!


まず、出てきたのが前菜4種盛り合わせ。下の写真の左上から「キュウリ、トマト、クルミのザクロソース及びエクストラバージン・オリーブオイル和えサラダ」(Govurdgi Salatasi)、「バター炒め松の実とヒヨコ豆ペースト」(Tereyagli Cam Fistikli)、「ナス、トマト、チリペッパーのガーリック及びエクストラバージン・オリーブオイルあえ」(Babaganuc)、「焼きホウレンソウとトルコ白チーズのサモサ風」(Ispanakli Peyniril Borek)。ちょっと写真が暗くなってしまいました。


これらをふっくらと焼いたパンと一緒にいただきます。

メインで食べたのは次の2品です。まず、「味付きラム挽肉を練った小麦粉生地の中に入れ込んだミニ餃子のようなものに、ガーリック、バター、唐辛子で味付けしたヨーグルトソースをかけたもの」(Manti)。


続いて、「グリルしたラム挽肉に自家製チリペーストで味付けたケバブ」(Adana Kebab)。 生タマネギの和え物、干しぶどう入りご飯、パンなどが付け合わせになっています。ケバブの香辛料が絶妙な味付けになっていました。


最後に、デザートは、トルコで最も人気のあるデザート、とメニューに書かれていたBaklava。バター、ピスタチオに自家製シロップが染みこんだケーキの上にサクッとしたパイ生地がのっていました。飲み物は、あっさりとトルコ・ティー。


アルコール類はビンタンビールしかありませんが、1瓶8万ルピアで、ワインなどを持ち込み可能とのことです。

今回のトルコ料理は、繊細な味付けが香辛料との絶妙のバランスを醸しだし、素材の旨さが引き出されていました。ビールでも十分堪能できましたが、ワインが一緒だとさらにおいしさが引き立っただろうなと思いました。

気軽に入れる店ですが、ちょっと取り澄ました感じで食事をするのにもいい雰囲気のお店です。接客にも◎。インドネシア料理に飽きた人にもお勧めの味です。1階が禁煙席、2階が喫煙席です。

今回一緒に来てくれた知人は独身で、「次回はインドネシアの令嬢と一緒に来たい」とほろ酔い顔でした。


Turkuaz - Authentic Turkish Kitchen
Jl. Gunawarman No. 32, Kebayoran Baru, Jakarta Selatan
Phone: 021-7279-5846, 021-7279-5853, 0817-860190
turkuazrst@gmail.com
www.turkuazrst.com

2012年5月2日水曜日

気仙沼の鈴木さんとの出会い

4月29日のチカラン桜まつりでは、じゃかるた新聞のS記者の計らいで、気仙沼から来られた鈴木さん夫妻にお会いしました。これも何かの縁かもしれません。

鈴木さんらは気仙沼で10年以上「バリ・パレード」というイベントを開催してきました。しかし、昨年の大震災で、それまでバリ島に来てはコツコツと買い集めてきた衣装や道具がすべて使えなくなってしまいました。

今 回は、バリに加えて、2004年に大津波の被害を受けたアチェも訪問し、昨年は中止せざるを得なかった「バリ・パレード」を、アチェからの支援も含めた 「インドネシア・パレード」として、今年の8月12日に復活させるための協力を求める旅、ということでした。身の回りが少しずつ落ち着いてきて、「インド ネシア・パレード」を復活させたいと思える気持ちの余裕も何とか表せるようになったということでしょうか。


気仙沼には、漁船乗組員のインドネシア人男性に加えて、水産加工工場で働くインドネシア人女性も多数おり、インドネシアとの関係は半端では ありません。大震災の後、インドネシアのユドヨノ大統領夫妻が気仙沼を訪れ、仮設住宅の鈴木さん宅に上がり、慰問して話を聞いてくれたそうです。

鈴木さんは、「インドネシア・パレード」復活のための協力を呼びかけています。資金面での支援でも、物品面での支援でも、精神的な支援でもいいと思います。関心のある方は、是非、鈴木さんまでご連絡いただければと思います。
 

 鈴木敦雄さん
 電子メール:gogoponpoko@mail.goo.ne.jp


桜まつりで七夕に出会う

4月29日(日)、ジャカルタから東へ車で約1時間、工業団地が林立するチカランへ行き、インドネシア人の留学経験者や研修生OB/OGなどが集うKAJIという組織が主催する「チカラン桜まつり」を見てきました。

会場は、リッポー・チカランに新しくできた商業施設シティ・ウォーク。

リッポー・チカランは、インドネシア有数の民間企業グループであるリッポー・グループが開発したニュータウンで、都市としての機能がほぼ完備された町です。最近は、近くの工業団地で働く外国人(韓国人、日本人など)もたくさん住むようになり、一部には韓国式あるいは日本式が入り交じった飲食店街も現れています。

前日の大雨で、外に設営したテントが壊れてしまうというハプニングはあったものの、シティ・ウォークの入口ホールを会場にした桜まつりのイベントは、なかなかの盛り上がりを見せていました。

そこで目にしたのが、この噴霧器つき扇風機。風に加えて、霧状になった水も噴き出すという代物。水を噴き出すことで、少しは涼しい気分になるのでしょうかね。


シティ・ウォークの入口ホールから少し歩くと、日本をテーマにしたいくつかの「お店」が並んでいるジャパン・コーナーに着きました。その入口には、笹の葉に願い札がたくさんぶら下げられた七夕飾りが何本も置かれていました。

どんな願い事を書いているのだろうか、と少し見てみると・・・。


「2013年の試験に合格して、成功者になれますように」
「ビジネス・キャリアで成功して、私にぴったりのいい人に巡り逢えて、友だちができて私を助けてくれますように」
「今年希望していることが実現しますように」
「もっと綺麗になりますように」

たわいもないと言えばそれまでかもしれませんが、どんな顔をして願い札に願いを書いているのかなあと想像するだけで、微笑ましく感じてしまいます。

予想通りというか、ジャカルタ中心部から1時間かかるチカランまで来る日本人の方はそれほど多くはないようでした。

それでも、前日の夜のJKT48のミニコンサートには、インドネシア人の若者のファンが多数やってきて、盛り上がったのだそうです。あっという間に、JKT48のファンクラブができて、それが活動しているということを今回初めて知りました。

桜まつりをめぐっては、表面上の盛り上がりとは別に、いろいろなことがあった様子ですが、詳細はわかりません。でも、インドネシアと日本との関係をもっとステキなものにしていく、という目的では、参加したすべての方々が同じだったということを信じたいと思います。

2012年4月29日日曜日

審査員は体力勝負

インドネシアでも最も入場者の多い展覧会の一つが、インドネシア国際ハンディクラフト展覧会(イナクラフト)。今年は2012年4月25〜29日にジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で開催されています。

以前から、高品質の工芸品が集まる評判の展覧会、イナクラフトの出展するのが中小ハンディクラフト生産者の誇り、などと聞いていたので、いつかは見てみたいと思っていました。しかし、昨年までは、うまくジャカルタ滞在と日程が合わなくて、見たことがありませんでした。

今年こそは見たいな、と思っていたら、知り合いのインドネシア・ハンディクラフト輸出業者協会(ASEPHI)の友人から「イナクラフトの審査員をしてくれないか」というお誘いが・・・。うむ、これを受ければ、噂のイナクラフトを存分にみることができる、と単純に考え、OKしました。

たしかに、存分にみることはできました。しかも、存分の2〜3乗ぐらいも・・・。

審査員は、約1日半かけて、広大な会場内を歩き回り、1000軒以上のスタンドの商品から、7つのカテゴリー(セラミック、自然繊維、繊維・布、木材・紙、石材、金属、その他)ごとに各3品、計21品を審査会用にノミネートしなければなりません。

学生アシスタントを従えて、4月25日は5時間、26日は3時間、休みなし、ぶっ通しで会場内を歩き回りました。でも、意外に「これは」というものに出会わず、とくにセラミックと金属については25日には1品も選べない有様でした。

実際、会場を回ると分かるのですが、見た目でスタンドの約4割はバティック(蝋纈染め) が占めており、審査をしながら、7つのカテゴリーで一様に3品ずつ選ぶというのが
あまり適当ではないような気がしてきました。

もっとも、このカテゴリーはUNESCOの基準に依拠しており、優秀商品をUNESCOが主宰するASEAN全体でのハンディクラフト展覧会(8月下旬にマレーシアのクパンで開催予定)へ出展するのが目的となっています。とにかく、無理矢理にでも選ばなければならない、という感じでした。

2日間、会場を歩き回って、結局、求められた21品のうち、15品しか選べませんでした。

さて、審査会。私以外の審査員は、もう何年もイナクラフトの審査員をしている強者ぞろいで、初参加は私のみ。聞くところによると、昨年まで常連だったオランダ人のコンサルタントが今年は出席できないので、急遽、代役を探した結果、私にお鉢が回ってきたようでした。

他の審査員は、品物だけでなく、それを作っている職人や会社のこともよく分かっている様子。純粋にいいものを選ぼうとした私とは違い、「これは去年の奴と同じだな」「この会社は受賞の常連だから落とそう」といった観点で審査を行っていました。

そして、私が選んだ商品は、ほぼすべてが落とされました。うーむ、商品に関する好みや品質ではなく、審査の観点が違うのだ、といい勉強になりました。

今回、最優秀賞を取ったのは、中ジャワ州プカロンガンのPirsa Artの絹布(下写真)。落ち着いた色彩の布で、とても細かで丁寧な織りに仕上がっており、高級感があり、日本でも受け入れられるのではないかと思いました。クールビズのフォーマルに近いシャツ用、着物用にも適しているかもしれません。


そして、私が選んだ商品で唯一選ばれた「セメント袋を再利用して細かく裁断し、それをつなげて布のようにし、表面にバティックをあしらったプレースマット」が新興作品賞を受賞しました。偶然ですが、これも中ジャワ州プカロンガンのHape Artという中小企業の作品で、普通の紙では難しいが、セメント袋の紙だとバティックがうまく描ける、ということでした。

イナクラフトは本日(4月29日)夕方5時頃まで開催されています。ただし、かなりの人出が予想されますので、来場時には十分お気をつけて。会場には、外国人バイヤー向けのマネーチェンジャーやクレジットカードセンターも設営されています。

それにしても、イナクラフトの審査員をするのは体力勝負でした。2日間で2キロほど体重が落ちました。でも、昨晩は、友人と中華を食べて、元に戻ってしまいましたが・・・。


2012年4月24日火曜日

犬も歩けば・・・彼と会う

昼間、いつものように、ジャカルタの街中を歩いていました。銀行へ行ったり、文房具や本・雑誌を買ったり、とごくごく普通に。

中心部のショッピングモールから外に出ようとしたら、見覚えのある顔の男性が女性と一緒に座っていました。彼との出会いはスハルト政権崩壊直後の1998年。大臣にまで上り詰め、たしか、今は某国で大使を務めていたはず。アチェ和平プロセスの陰で動いた一人でもありました。

聞くと、1年半前に任期終了で帰国し、今はジャカルタに住んでおり、時々、母校のハサヌディン大学で教えているとのこと。そう、彼とはマカッサルでも何度かお会いしていました。

「今も政府顧問とかなさっているんですか?」と軽い調子で聞いたら、「もう政府とは一切関わりを持っていないんだ」と強い口調で答えました。それも、なぜかとても嬉しそうな顔で。

1998年に初めてお会いしたとき、彼がスハルト後の新しい政治について力強く語っていた姿を思い出しました。政治家になる前のユドヨノ(大統領)のブレーンの一人だったのでした。

大使の任を終え、晴れ晴れとした表情の彼に、なぜか、これまで以上に親近感を抱いたのはなぜなのでしょうか。

マカッサルでもそうでしたが、ジャカルタでも、犬も歩けば・・・の世界。自分が動くと、また眠っていたいろいろな人脈がつながり出すのかもしれない。それも新しい形で。

私がマカッサルの仲間とやっているRumata'(「あなたの家」の意)というアートスペースを作る運動にも興味を示していた彼。文学者を集めたイベントのある6月に、会場のマカッサルで会えるとうれしいな。

そうそう、彼、なんていうと失礼に感じるべき方なのだろうが、同年代ということもあり、 そう呼んでしまうのであります。

2012年4月20日金曜日

つなげて、深めて、広げたい ー 今後の活動

久々のブログは、今後の私の活動のお知らせです。

いろいろ考えて、当面、活動の拠点を、日本からインドネシア(主にジャカルタ)へ移すことにしました。

まずは、4月22日から8月10日頃まで、京都大学東南アジア研究所客員研究員として、ジャカルタに駐在します。

そして、その間に準備を進め、その後、ジャカルタにある某インドネシア企業にスポンサーとなっていただき、民間(独立)コンサルタントとして活動していく予定です。

拙く抽象的な言い方ですが、10年後、20年後の未来を思い浮かべながら、「つなげて、深めて、広げる」ような活動ができたら、と思っています。

いったい、何が起こるのか。いや、起こしていけるのか。それも無理矢理ではなく、気がついてみたら自分たちが「こうなって欲しい」と思っていた方向へ世の中が自ずと動き始めていた、という感じになるのがいいな。力ずくで強引にではなく、しなやかに促すような形で。

もっと能動的に、もっと主体的に、何かいいこと、面白いこと、将来に希望が見えてくるようなワクワクすることを、みんなで一緒に構想し、実際に試み、作っていけたら、とてもうれしいです。

国や境遇を超えて、そんな仲間をどんどん増やしていきたいです。小さいこと、ローカルなことを起点として大事にしつつ、それが大きいことやグローバルなことと実はつながっていることを意識しながら、

このブログやFacebookやTwitterなどを通じて、そんな思いを共有できるような発信をこれからも続けていきたいと思っています。

当面(8月まで)の連絡先は以下の通りです。 インドネシアへ来られる場合には、是非、ご一報ください。

【住所】Jl. Kartanegara No. 38, Kebayoran Baru, Jakarta 12180, INDONESIA
【携帯】+62-811-4106670
【Email】matsui01@gmail.com
【Facebook】Kazuhisa Matsui
【Twitter】daengkm(日本語)、daengkm2(日本語以外)
【LinkedIn】Kazuhisa MATSUI

引き続き、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。



(ブログの書きぶりを試しに「です・ます」調へ変えてみました)


2011年12月18日日曜日

技術進歩と高リスク社会

新しい技術が便利な社会や豊かな生活を約束する、と我々はずっと信じてきた。そのために、高い経済成長を追い求めてきた。技術革新によって技術力が進み、あらゆる社会問題が技術進歩によって解決するかのような、そんな期待を抱きながら、我々はより良い生活を求めてきた。

そしてその過程で、新しい技術を素晴らしいものと礼賛し、その一方で、古い技術を後れたものとして捨て去ってきた。市中では新製品が次々に生まれ、古い技術を使った製品は価格が安くなり、消費者から見むきもされなくなって消えていった。

経済は常に、新しい需要を起こしながら、その需要を満たす製品を供給する、というサイクルを繰り返しながら、そしてそのサイクルを短くしながら、ダイナミックに動いていく。そして、その過程で古い技術やそれで作られた製品は消え、もはやそれらを再現する必要はないとみなされる状態となった。

常に最新の技術を求める社会、それがこれまでの日本だったのではないか。

しかし、その最新の技術が社会にとって本当に必要とされているかどうかを立ち止まって検証することはほとんどなかった。むしろ、最新の技術に合わせて我々の社会や生活のあり方を変えることで、財・サービスの新たな需要を生み出し、経済を発展させようとしてきた。

デジタル放送化で古いテレビを使えなくし、黒電話の代わりに電気なしでは使えない高級電話ファックス機を普及させ、数ヵ月ごとに携帯電話を買い換えなければという衝動を引き起こさせる。上にヤカンを乗せれられる石油ストーブの代わりに、電気で動く石油ファンヒーターを買わせると、加湿器の需要も生まれる。

東日本大震災の後、何が起こったか。停電のない日常を前提とした生活が崩れたのである。電気がなければ、テレビも観られないし電話もかけられない。石油ファンヒーターも動かない。携帯電話も充電できなくなる。

リスクのない社会を目指し、技術進歩を信奉した我々が、いったん現実のリスクに直面したとき、何もできず、パニックになる。

乾電池で動くラジオがあれば、テレビがなくとも情報がとれる。コンセントのない黒電話があれば、電話で連絡を取ることができる。電源の要らない石油ストーブならば、寒い部屋で凍える心配もない。

我々はリスクのない社会を目指して技術進歩を礼賛してきた結果、いったんリスクが起こったときに何も役に立たない技術だけの社会を作ってしまっていたのではないか。代替できる別の技術や製品を古いものとして捨て去ってきた結果として、技術が高度に発展した社会は、何か起こったときのリスクが極めて高い社会になってしまったのではないか。

高度技術を追究することは必要である。しかし、それ以外の技術を捨て去る必要があったのであろうか。高度技術に合わせて、それしか使えないような社会や製品を作り出し続けることが豊かな生活を約束することなのだろうか。むしろ、黒電話も使える社会のほうが、我々は安心できるのではないか。

様々な技術が並存する社会。それは、後発発展を続ける発展途上国の経済成長のボトルネックとみなされたものである。新しい技術が古い技術に取って代われないので、いわゆる二重経済が生じ、国家としての早急な成長が進まない、日本はその点が解消したから高度成長が可能になったのだ、といった見方である。

今から振り返ると、それはいったん何かが起こったときに何もできない、一般の人々では太刀打ちできないブラックボックスに依存する高リスク社会を築いてきたとはいえないだろうか。

様々な技術が並存し、それを必要や状況に応じて適宜選択して活用できる社会。古いものを捨て、新しいものに合わせることを強制しない社会。これがリスクの低い社会であろう。でも、日本は古いものを捨て去ってきた。経済成長が大きく望めない現状では、日本で古いものをもう一度作っていく費用と便益は決して経済的なものではない。そうであるならば、外から、まだそうした古い技術や製品が使われている発展途上国から日本へ持ち込むしかないのではないか。

技術レベルの高低のみで技術の優劣を語る時代、 先進国の進んだ技術を発展途上国へ教えるという一方通行的な姿勢。今や、これらを超えなければならないのではないか。

以上の点については、これからも考え続けていく。

2011年9月8日木曜日

メダンの"Barak Obama"

7月、北スマトラ州の州都メダンへ出張に行った際、街中で見かけた「バラック・オバマ」。

Barak Obamaは、Bakso Raksasa Oenak Tenan Mas の頭文字をつなぎ合わせた造語。Enak(おいしい)を旧仮名遣いの Oenak にするなど、工夫の跡が見える。大きな肉団子を売る小食堂。





2011年9月4日日曜日

スラウェシ発の高級チョコレート

京都へ出かけた際に、三条の商店街、西友の真ん前にあるDari-Kという小さな店に行った。Dari-Kは、スラウェシ産のカカオを使ったチョコレートを製造・販売している。



スラウェシのカカオといえば、国際市場では低級品として扱われ、飲食用よりも化粧品の材料や飼料などの用途に使われる場合も少なくなかった。低級品として扱われるのは、農民レベルでカカオを発酵させずに商人へ売買されてしまうためである。 なぜなら、農民レベルでは発酵カカオと未発酵カカオとの価格差があまりなく、農民レベルでは発酵のための機会費用が大きくなるためである。農民はすぐに現金を手に入れたいので、発酵カカオと価格差がなく、商人が買ってくれるなら、当然、手間をかけずに未発酵カカオを売るのは道理である。

しかも、低級カカオの市場が国際的に存在しているため、汗水流して、苦労して、競争の激しい高級カカオ市場へ打って出る必要性も感じなかった。インドネシアは世界第3位のカカオ輸出国、しかもスラウェシはインドネシア産カカオの7割以上を占めるのだが、このままではスラウェシ産カカオから高級チョコレートが生まれるのは難しいと筆者は思っていた。経済性を度外視してスラウェシで発酵カカオを作り出し、それを使って高級チョコレートを作ろうとするドンキホーテでも現れない限り・・・、と。

Dari-Kの話を知って、まさか本当にドンキホーテが現れてくるとは、正直言って初めは信じられなかった。そして、うれしいと同時に本当にすごい、と思った。Dari-Kの代表は実際にスラウェシのカカオ農家に飛び込み、そこに滞在するなかで、カカオを十分に発酵してもらった。それを使って、カカオの素材自体にこだわり、カカオ豆の焙煎から手がける、世界でも珍しい、他のメーカーにはないチョコレートを作り上げた。このあたりの話は、次のDari-Kのホームページで紹介されている。

Dari Kが出来るまで

とにかく、Dari-Kのチョコレートが食べたかった。ようやくみつけたDari-Kのお店で、まず「ラトゥ」を食べた。しっとりとした舌触りの後にカカオの芳醇な味と香りが口の中いっぱいに広がった。あのスラウェシの道端で不細工に天日乾燥されていた未発酵カカオを、丁寧に発酵させるとこんな風になるとは! 驚きとともにおいしいものに出会えた喜びが沸いてきて、不覚にも涙が出そうだった。その次に「ラジャ」を食べる。細かく砕いたカカオ豆が表面を覆い、なかにカカオ豆が一粒丸ごと入っていた。今までどのチョコレートにもなかった食感である。


現段階では、(上写真の上段左から)チェリー、ラトゥ、カラメル、カチャン(ヘーゼルナッツ)、(同下段左から)ラジャ、キスミス、ジュルック(オレンジ)、カユマニス(シナモン)の8つの味で、今後、さらに種類を増やしていくそうである。

今の季節に、新製品のチョコレートアイスも販売中である。このアイス、濃厚なチョコレートアイスの上からローストして砕いたカカオ豆を振りかけて食べる、ユニークなものである。


そして、「世界一大きいカシューナッツ」と銘打って、スラウェシ産のカシューナッツも売られている。あまり知られていないが、スラウェシはカシューナッツの産地であり、とくに東南スラウェシ州は粒の大きなカシューナッツで有名である。


店に掲げられた「We love Sulawesi !」の文字。スラウェシを愛する仲間・・・!

Dari-Kのチョコレートは、賞味期限がわずか数日で、生ものとして味わうべき商品といえる。クール便で地方発送も承っているとのことである。

このDari-Kのチョコレートを、カカオ農家をはじめとするスラウェシやインドネシアの人々に食べてもらえると、必ずや、スラウェシの低級カカオのイメージは大きく変わってくることだろう。

数年前のバレンタインデーのとき、東京の某高級デパートで最も人気のあったチョコレートはフランス製だったが、カカオの産地はインドネシアだった、という話を聞いたことがある。Dari-Kのチョコレートも、インドネシア・スラウェシ発の高級チョコレートとして、これから認知されていって欲しいと切に願う。

Dari-Kのホームページ


2011年8月8日月曜日

ブログが書けない

6月、7月と1本もブログが書けなかった。所用でバタバタし続けているせいもあるが、なぜか書く気になれなかった。インドネシアで未来を確信できる前向きの勢いを感じる一方、日本や福島のことを思いながら悲しみと怒りと無力感に苛まれている。この2つの感情のあまりに大きなギャップに、自分の気持ちをうまく整理することができないでいる。

今日、ようやく約束していたレポートの執筆をほぼ終えることができた。内容は自分の専門分野なのでとくに問題はなかったのだが、執筆するように自分を仕向けていくことができず、辛かった。こんなに書けない、書く気持ちになれないことは、今までなかった。

8月17日に帰国する。今は、帰国した後の自分がどうなってしまうのか、正直言って、それがこわい。

2011年5月30日月曜日

新たなステップを目指して

新たなステップを目指して、実は4月に、知人と一緒に小さな会社を立ち上げた。

会社の名前は株式会社インドネシア総合研究所。略して、インドネシア総研。まだまだヨチヨチ歩きの生まれたてホヤホヤの会社である。ホームページは以下の通り。

 株式会社インドネシア総合研究所

インドネシアを対象としたビジネス・コンサルティング、市場調査、現地調査視察などを行う会社、である。もっとも、ビジネスだけに留まらず、大学などのスタディ・ツアー、市民団体やNGOどうしの交流など、社会・文化的な活動も視野に入れている。そういった関心項目の一つは、社会的投資やソーシャル・ビジネスである。

この会社を最初の一歩と位置づけて、まずは、日本とインドネシアとを、対等な立場で、深くしっかりとつないでいく活動を展開していきたいと考えている。

といっても、私は出資者の一人にすぎず、経営に直接関わるわけではない。チーフコンサルタントとして関わっていくことにした。

今後は、インドネシア側のクライアントを相手にした活動も考えていく予定で、ジャカルタに拠点を構えての展開も構想中である。

そして、インドネシアに関する専門家や日本語・インドネシア語のスペシャリストとの協働ネットワークづくりを進め、一緒に活動していく。各人それぞれの立場を尊重した、緩やかでしなやかなつながりを作って、それを広げていきたい。もし、仲間に加わりたい(あるいはちょっと興味があるという)方がいれば、是非、連絡して欲しい。インドネシア総研宛でも、私個人宛でもOK。

日本人、インドネシア人、その他どんな人でも、国境をらくらくと越えながら入り交じって、もっとワクワクする楽しい未来を作っていくことに何らかの貢献ができればうれしい。

これから、どんなステキなもの、新しい仕組みを作っていけるか。どんな面白いこと、楽しいことを起こしていけるか。頭の中にはいろいろな構想が湧いてくる。日本とインドネシアとを行き来しながら、皆さんと一緒に考え、動いてみたい。もちろん、1日24時間、1年365日、常に面白いアイディアを募集中。よろしくお願いします。

2011年5月27日金曜日

ミュージカル『虹の戦士』再演

友人の映画監督であるRiri Reza氏から、彼が監督を務めるミュージカル『虹の戦士』(Laskar Pelangi)再演のお知らせが来た。

期間:2011年7月1〜11日
場所:Teater Jakarta, Taman Ismail Marzuki (TIM), Jakarta

先行前売り券が2011年6月3〜5日に、Tiket Box, Teater Jakarta, TIMにて発売される(10〜17時)。対象席数は計1600席と限られている。なお、一人につき先行前売り券を6枚まで購入可。以下、カッコ内は通常料金。

Kelas 2: 10万ルピア(15万ルピア)
Kelas 1: 25万ルピア(35万ルピア)
VIP: 45万ルピア(55万ルピア)
VVIP: 65万ルピア(75万ルピア)

なお、通常チケットの発売は2011年6月10日からとなる。

前回、2010年12月17日〜2011年1月9日の公演を見逃した方、もう一度見たい方、チケットの手配はお早めに。

2011年5月25日水曜日

福島市の実家で

先週末、福島市の実家で過ごした。3月11日の東日本大震災の後、ようやくの帰郷だった。

白河を過ぎて須賀川付近から、瓦屋根にシートがかかり、石で抑えられた家が目につくようになった。3月11日の地震では、福島県内で被害が大変だったのは、県北の福島よりもむしろ郡山や須賀川だったと聞いた。液状化現象も起こっていたとか。でも、新幹線が福島に近づいても、瓦屋根を修復中の家が目につく。

実家は、何も変わっていなかった。母曰く、柱の多い平屋建ての家だったためか、壊れたり、倒れたりしたものはほんの一部だったようだ。ガラスのコップがいくつか割れた程度で済んだそうだ。母は、いつもの通り、淡々と一日を過ごしていた。

街中を歩いても、一見、何も変化は見られない。通りを歩く人は少ないが、もともと、市内はそんなものなので、とくに今回、人通りが少ないという印象はなかった。

運動部らしき高校生がかけ声をかけながらランニングし、テニスコートでは日が暮れるまで練習に明け暮れていた。

郊外では、農家のおじいさんが田植えの終わった田んぼで一息ついていたし、モモやリンゴの畑では、作業をする農家のご夫婦の明るい笑い声が聞こえていた。

新芽や若葉が萌え出でる、鮮やかな緑の勢いを感じる、いつもの福島の5月だった。

そんな、大好きな福島の5月を味わいながら、「今、自分は、内部被曝している最中なのだろうな」と思った。美しい空気と一緒に、目に見えない放射性物質が自分の体内に入っているのだろう、と悟った。

弟の娘たちは、相変わらず元気だった。妹は学校で健気にマスクをしているが、姉はマスクはしないらしい。格好を気にする中学生、マスクをしなさいという親のいうことも聞かない様子。それでも、姉のクラスでは何人かが福島の外へ転校していったそうだ。入れ替わりに、福島へ避難・転校してきた友達がクラスに数人いる。

彼らの親は、放射線量をとても気にしている。安全性について学校側を問い詰めるような親もいる。誰だって、自分の子供のことを心配しない親がいるはずがない。

弟の妻と話をしながら、息の詰まるような毎日を送っていることが感じられた。安全のためには避難した方がいいのかもしれないが、自分たちの生活がここで成り立っている以上、そう簡単に動くことはできない。でも、せめて、1〜2週間でも、福島を離れて別の場所で気分転換をしたい、思いっきり屋外で遊ばせたい、プールで遊ばせたい、というのが切実な気持ちのようだった。

「今年の夏には、よかったら東京の我が家にしばらくいらっしゃいよ」と言ったら、いつもは遠慮がちな弟の妻が、素直にとてもうれしがっていた。もっとも、東京だって絶対に安全だとは言えないのだろうが。

つい最近、結婚したばかりの従姉妹にも会った。彼女は、屋内でもマスクをしていた。風邪でも花粉症でもなかった。彼女の心配が本当に手に取るように感じられる。彼女は、一刻も早く福島を離れたがっていた。冗談で「インドネシアへ来る?」と言ったら、真顔で「行きたい、行きたい」と懇願された。

福島のテレビでは、頻繁に放射線量の測定数値が画面に流れている。母は毎日それをチェックするのが日課だ。でも、放射線量が3月15日頃の約20分の1に減った現在、それは不思議な安定感を母に持たせているようにも見える。

NHKが5月15日に放映した「ネットワークでつくる放射線地図」というドキュメンタリー番組の話を母にした。母はその番組を見ていなかったし、そこで描かれた放射線量をめぐるホットスポットの話などは知らない様子だった。いや、知ったからといって、今さら自分がどうなるということではない、あと何十年も生きるわけでもないし、とある種の覚悟を決めているかのようでもあった。

福島の子どもを持つ親たちがネットワークを作り、年間被曝線量20ミリシーベルトという基準を子どもに当てはめないように訴える運動を始めていたのは知っていた。5月23日、彼らは福島から文部科学省に押しかけ、強く訴えたが、文部科学省三役は現れなかった。

子ども連れの親たちが、雨が降るなか、建物の中には入れてもらえず、コンクリートの地面に座る形で、文部科学省の中堅幹部を相手に懸命に主張していた。そうした文部科学省の対応が、この国の人間を大切にしようとしない、上から目線の態度を如実に物語っていた。民主主義かつ先進国を自負する日本という国のそんな役人の対応を悲しく思った。

学校では、校庭の表面土を削り、それにシートをかぶせて遮蔽して埋め、その上に別の土をさらにかぶせる、という処置をするようである。これで、土の表面の放射線量が大きく減少する。でも、実は、どのシートを使うかが問題なのである。

それは、市町村の判断に任されている。吸着力の強いベントナイトシートを使えば最も効果があるが、高価である。財務力の乏しい市町村では、より安価な塩化ビニールシートやブルーシートを使うケースもあるようだ。でも、放射性物質の吸着・遮蔽力はベントナイトシートより遥かに落ちる。

国立大学附属ではベントナイトシートを使うが、公立では塩化ビニールシートやブルーシート、という違いがこのままだと現れてくる可能性がある。小・中学校は義務教育である以上、国がベントナイトシートの使用を義務づけて、必要な資金を都合すべきであると考えるが、どうだろうか。

これまでの政府や東電の発言や対応を見る限り、常に自らが責任を少しでも免れられるような逃げ道が先にありきだったように感じる。でも、実際に避難を強いられたり、高い放射線量のもとで不安を抱えて暮らす子どもや若者たちは、逃げ道を用意できない。

パニックを起こさないためという理由で正しくない情報を流し、情報をコントロールし、後で「実はこうだった」と後出しする対応をされて、人々が信頼するはずはないだろう。せめて、誠意を持って、正しくない情報を流したことをまず詫びるべきではないか。

本当に人々のことを思ってついた「嘘」なら、人々は分かってくれることだろう。でも、今までの対応では、それは難しい。いや、それでもなお、政府は人々に信用を強制し続けるのかもしれない。

福島市の実家で過ごしながら、ある意味、肝の据わった日常のなかに生きる母や市民の強さとともに、底知れぬ不安からせめて一時でも逃避したい切実な親たちの感情を思った。そして東京へ戻り、文部科学省のデモへの対応や国会での「言った、言わない」政局を見ながら、本当に日本は悲しい国になってしまった、と思わずにはいられなかった。

それでも、この国を、福島を、そこに生きる人々を思う純粋な気持ちはなくならない。やはり、自分たちのことは自分たちで守る。自分たちが動くしかない。当たり前のことなのだ。

2011年5月16日月曜日

バンジャルマシンのサシランガン

バンジャルマシンのサシランガン(Sasirangan)。ここの特産の絞り染めである。最近は、ジャカルタのバティック屋さんでもみかけるが、バンジャルマシンでこのサシランガンの工房をのぞく機会があった。


特徴は、波のような丸まった線。型を取って、デザインを描いていた。



絞り染めなので、制作プロセスはすべて手作りである。どのような模様を出すか、どの色を充てるか、細かく緻密に計算しながら、絞りを施していく。



下の写真のシャツの模様が伝統的な絞り模様の一つ、とのことだ。


ジャワでは、プリンティングのバティックが幅を利かせ、ろうけつ染め特有のシミのない、きれいなバティックを目にすることが多くなったが、このバンジャルマシンのサシランガンは、すべて手作りで、2枚と同じ模様のものには出会わない。素朴な味わいが何ともいえずほのぼのした気分にさせてくれる。

さっそく、私も明るい緑色のものなど3枚の半袖シャツを購入した。今年の日本の夏にも着てみたいと思っている。

2011年5月15日日曜日

南カリマンタンの水上マーケット

5月1〜5日は、南カリマンタン州バンジャルマシンに滞在した。実は、南カリマンタン州を訪れるのは初めてだった。そして、バンジャルマシンへ行ったら、まずは名物の水上マーケットを見に行かなければ、と思っていた。

5月2日、朝5時に起床して、マルタプトラ川を1時間半ほど上流へ上り、バンジャル県ロック・バインタンにある水上マーケットを見に行った。あいにくの大雨、しかもガイドの用意した舟には屋根がなく、おなじみブルーのビニールシートを被っての川上りとなった。当然、体中ほぼずぶ濡れ状態。自分の行いの悪さを反省しつつ、大雨の洗礼を受け入れるしかない。なかなかの苦行、である。

水上マーケット、とされた場所には、まだ数隻しか舟が集まっていなかった。それでも、10分、20分と過ぎると、舟はどんどん集まってきて、最盛時には約70〜80隻程度になった。雨なので通常よりは少ないのかもしれないが、日々の生活に必要な野菜や果物を毎日買う場所なので、雨天中止ということはないらしい。ここは、まだ、地元の人々が生活のなかで使っている水上マーケットであった。



舟で売買するのはほとんどが女性である。雨が降っていたので、みんな笠をかぶっていた。野菜などを乗せてくる舟に混じって、何も乗せていない舟が近寄ってくる。商人の舟である。




せっかくなので、より近い、バンジャルマシン市内のクイン川の水上マーケットへも行ってみた。5月5日、またしても朝5時起床、川沿いの家々がすぐ手が届きそうなぐらいの狭い水路を進んでいく。時折かかる橋が低く、船がその橋の下をギリギリに通過する。水上マーケットから戻る頃には満ち潮で水位が上がるため、その狭い水路を通ることはできなかった。

今度は天候に恵まれた。真っ暗だった空が少しずつ明るくなり、朝の光が徐々に空へ映り始めていく。

クイン川の水上マーケットは、2日に行ったロック・バインタンのそれとはかなり趣が異なる。舟の数が少ないのと、私らのような観光客を乗せた舟が何隻かあり、そこへ盛んにモノを売りに来る舟がある。「毎日娘が作るんだよ」とたくさんの種類のスナックを売る娘さん思いの気のいいおじさん。1個1000ルピアのお菓子が船上ではとてもおいしく感じられた。

観光客の多くはインドネシア人で、外国人は見かけない。それでも、観光客をあてにして、ミ・バソ(肉団子入りそば)などの軽食を食べさせる船まで出ていた。


このクイン川の水上マーケット、以前はたくさんの舟で賑わったそうだが、陸上交通が発達するにつれて、利用者が少なくなり、今では風前の灯火のような状況になっているようだ。たしかに、2日に行ったロック・バインタンの水上マーケットのような、地元の人々が日常生活のなかで活用しているようには見受けられなかった。


インドネシアの民間テレビ会社RCTIのテレビ広告では、たくさんの舟で埋まったバンジャルマシンの水上マーケットが写され、ジルバブを被った女性商人の一人が親指を立てて「イエーイッ」とやる部分に"RCTI OK"の声が被さる。そのイメージでバンジャルマシンにやってきたのだが、実際はとてもつつましいものであった。もっとも、年に何回かのイベントの際には、たくさんの舟が動員され、「賑わい」を演出するのだそうである。

バンジャルマシンの周辺で水上マーケットが残っているのは、これらロック・バインタンとクイン川の2ヵ所だということだ。でもきっと他にも、毎日の生活を支える船上での交易が、外部者に知られることなく、行われていることだろう。しかし、陸上交通の改善とともに、水上マーケットもその役割を変えていくことになるのだろう。

2011年4月30日土曜日

"The Mirror Never Lies" 試写会潜入

4月24日〜5月7日の日程で、インドネシアに来ている。今回は、2週間という短い日程での調査が目的である。

4月29日の晩は、友人で映画監督のRiri Reza氏とマカッサル料理屋Pelangiで一緒に夕食をとった。午後9時になって彼がそそくさとし始めたので、次の予定を聞くと、映画の試写会があるという。詳しく聞くと、私が2009年12月に東南スラウェシ州ワカトビで会った若い女性映画監督の作品とのこと。試写会の招待状はなかったが、もしかすると、どさくさで潜り込めるかもしれない、ということで、Riri氏と一緒に試写会に行くと、何の問題もなく試写会に潜り込めたのはラッキーだった。

2009年12月に、ワカトビ県開発企画局長官の家で会った彼女はKamila Andiniさんで、あのときは映画を撮る前のリサーチに来ているときだった。海上生活をしてきたバジャウ社会を舞台とした、土の匂いのする映画を撮りたいと話していた。私からは、よそ者とそこの土地の人との関わりや地元学について、多少お話した記憶がある。

今回は、あのときに準備していた映画「The Mirror Never Lies」の試写会だった。

彼女がGarin Nugroho監督の娘だということを今回初めて知った。試写会にはGarin氏も来ていて、少々立ち話をした。ワカトビ県知事に再選された旧知のHugua氏はじめ、多くのワカトビの人たちとも会場でお会いした。

映画の内容は割愛するが、ワカトビの海の美しさが際立つ映像が印象的だった。出演していた地元のバジャウの子どもたち3人は、素晴らしい演技だった。ワカトビで感じるようなゆったりとした時間を感じるとともに、人物が丁寧に描写されていた。

Kamila Andini監督の第1作だが、作り手の真っ直ぐな視線が感じられるよい作品だった。次作以降も期待が持てるだろう。今後、インドネシアで注目すべき若手監督がまた一人現れた、という印象である。

「The Mirror Never Lies」は、5月5日からインドネシア国内の21(トゥウェンティーワン)系の映画館で公開される。海の美しさだけでも観る価値のある映画だと思う。

なお、この映画については、以下でも紹介されている。

 インタビュー:インドネシアの映画監督・Kamila Andini @"The Mirror Never Lies (TMNL)"


2011年4月16日土曜日

耕志の会

福井に住む私の友人が「耕志の会」という団体を立ち上げた。

彼は、日本へ農業研修にやってくる外国人を受け入れ、自分の農地で実践的な作業を行いながら、暮らしと農業との関係、経済社会開発とは何か、異なった条件の下でどのように農業経営を成り立たせていくか、といった様々なテーマについて勉強会を行う、という研修を独自に続けている。

耕志の会は、座学、圃場実習、フィールドトリップ、圃場実験という彼のところでの一連の研修運営に加えて、この研修を修了し、母国へ帰った研修生が地域に根ざした新規起業を行うための小規模融資も活動の視野に入れている。

会のメンバーは、彼と研修生およびその修了者、である。対象はインドネシア人研修生とし、Yayasan Kuncup Harapan Taniというインドネシア語の団体名を併記している。

耕志の会については、以下のブログを参照して欲しい。

 設立総会を開く 会が立ち上がる

耕志の会では、サポーター会員を募集している。年会費1万円とのこと。興味のある方は、直接こちらのアドレスへ連絡して欲しい。

また、彼のブログも興味深いので、これを機会に是非読んでもらいたい。地域コミュニティの一員として、新旧世代の狭間で悩みながらも、そこに根ざした農業を日々実践する彼の言葉は重い。何につけても、上っ面の議論が横行する傾向が強い今日だが、地に足をつけ、生活と農業との一体化を模索する彼のブログは、多くの人々に読んでもらいたい内容を含んでいる。

2011年4月14日木曜日

桜の木の下で

わずかの時間だったが、今年も家族でお花見をすることができた。そして、今回ほど、桜の花を見て寂しさや悲しさを感じたことはなかった。



我が家の桜も早々に満開となった。しばらく前までは、桜の木の下に丸テーブルを出して、家族3人で遅めの朝ごはんを楽しむ、というのが春の休日の楽しみだった。

播磨坂では、羽目を外さない程度にお花見の宴が催されていた。お行儀のいいお花見だった。


氷川神社に行ったら、ソメイヨシノの白、八重桜のピンク、菜の花の黄色がきれいにそろっていた。


境内に上がる階段の前で、娘を撮った写真。


「明るい日本」になって欲しい。でも、よく見ると、「明るい」と「日本」の間にひびが入っていた。

桜吹雪とはよく言ったものだ。散りゆく桜の枝からは緑色の葉が日に日に増えて行く。これから成長していく緑とともに、前向きに毎日を過ごしていきたい。

2011年4月2日土曜日

ブログを書けなかった日々

この2ヵ月、ブログを更新できなかった。2月末までインドネシアにいたが、とにかく毎日いろいろあり、週末はジャカルタを離れて出かけていたので、実はネタはたくさんあった。日々の慌ただしさのなかで、書くタイミングを失してしまった。

2月27日に帰国して、翌28日から3月9日まで、インドネシア商工会議所関係者の研修にコースリーダーとしてずっと付き添っていた。そして研修が終わって、一息つくかと思った矢先、3月11日に東北関東大震災(東日本大震災と公式に命名されたようだが)が起こってしまった。

引き続く余震と緊急地震通報、毎時毎時テレビに映し出される被災地や人々の姿。そうこうするうちに福島原発の事故とそれに関わる情報が流れるようになった。公式見解とそれに対する様々なインターネット上の情報。テレビとツイッターを見続けているうちに、自分が普段の感情を失っていくのが分かった。

朝起きてテレビをつけると目に飛び込んでくる光景、人々の苦悩に自然と涙があふれ、同時に何も行動を起こせていない自分への怒りと被災した故郷の人々への後ろめたさ・申し訳なさ、悶々とした日々を送っていった。

そんな気分のまま、所用で3月22〜26日にジャカルタへ行った。いつもなら、インドネシアに着いた途端にポジティブ・スイッチが入り、気分が高揚するのに。今回は、乗っていたタクシーの運転手に「お客さん、どうして寂しそうな顔をしているんですか」なんて言葉をかけられる始末。予定では4月3日までインドネシア滞在だったが、そんな気持ちにもなれずに、滞在期間を短縮して帰国した。

でも、ジャカルタで会ったインドネシアの方々がみんな日本のことを心配し、優しい励ましの言葉をかけてくれたのが、とてもありがたかった。でも、どうして? どうしてこんなに日本は思われているのか、いったいこれまで何をしてきたんだ日本は、と思った。もっと今まで私たちの外国との付き合いに自信を持っていいのだ、と思った。と同時に、私たちが本当にどこまで相手の国の人々のことを思っているのか、と自省する必要もあるような気がした。

テレビとツイッターを見ながら、やるせない気分で悶々とする日々が続いている。前向きに何かをガンガンに進めようという気力がわき上がってこない。とくに、生まれ故郷の福島がどうやって復活するのか、負わされた汚名をどうやって払拭できるのか、延々と考える日々。原発事故の被害にあった側にも、原発管理の当事者側にも、私の友人がいる。住民対策や復旧作業に当たっている友人もいる。彼らの壮絶な日々に思いを馳せたとしても、それ以上の何もできない自分にもどかしさとふがいなさを感じている。

こんなときだからこそ、自分の仕事をそれこそどんどん充実して行い、元気に笑いながら朗らかに楽しく生きていかなければならないことは、頭では分かっている。被災した方々が他人も自分たちと同じように悲しんで欲しいと思ってはいないことも想像できる。それでも今、そんなに簡単に割り切れない自分がいる。

今日からまた少しずつ、ブログを書いてみることにする。書いているうちに、そんな自分の気持ちの整理が少しずつ始まっていくような気がしているから。

2011年2月8日火曜日

バティック・バンテン

バンテン州セランで、前から行きたいと思っていたバティック・バンテンの工房を訪問した。工房主のUke氏は、10年ほど前から工房を開き、バンテン王国の故事から75種類のモチーフを現代によみがえらせ、そのうちの20種類のモチーフを使って、バティック・バンテンを作ってきている。

この工房の特徴は、手書き(tulis)と型押し(cap)でバティックを描いていることで、今、はやりの安価で大量生産可能なプリンティングは一切行っていない。


ロウを溶かす燃料には、灯油ではなく、薪を使っている。Uke氏曰く「自然に優しいし、コストも1日たった500ルピアで済む」とのこと。





筆者が今回、バンテン州の友人からいただいたバティックのモチーフはラゲンマイタ(Langenmaita)。帆船で愛を育んだ幸せが到達する港、という意味だそうである。大変おめでたい意味で、その友人の気持ちがモチーフの持つ意味を通じて感じられる。自分で購入した布のモチーフはマンダリカン(Mandalikan)。その意味は、イスラム教の布教の際に、バンテン王国のアリア・マンダリカ王子に授けられた称号、ということである。


Uke氏は長年、スマトラのブンクル州に滞在したことがあり、そのときに、彼が考案した地元バティックが、現在のバティック・ブスレック(Batik Besurek)なのだそうである。ブンクル州のバティック・ブスレックについては、以前、ブログでも紹介した。

 ブンクルのバティック

バティックがユネスコの無形文化遺産に登録されて以来、インドネシア各地で様々なご当地バティックが勃興している。新しく考案されたものが多いなかで、他とは違う何か、とくに歴史から掘り起こした深さと丁寧な制作作業が新たな価値を見出していくのではないか、と思える。


マレーシアの国際バティック・コンテストにおいて、モチーフ部門で第1位になったバティックの布を購入した(上写真)。モチーフが明るく前面に出てくるのではなく、落ち着いた色彩のなかに渋くモチーフが描かれていた。生地の絹がとてもなめらかである。普段着では着られないような布地だったが、値段は想像よりもずっと安かった。バティックにあるような物語が、絹の布地にはまだないからなのかもしれない。