2011年12月18日日曜日

技術進歩と高リスク社会

新しい技術が便利な社会や豊かな生活を約束する、と我々はずっと信じてきた。そのために、高い経済成長を追い求めてきた。技術革新によって技術力が進み、あらゆる社会問題が技術進歩によって解決するかのような、そんな期待を抱きながら、我々はより良い生活を求めてきた。

そしてその過程で、新しい技術を素晴らしいものと礼賛し、その一方で、古い技術を後れたものとして捨て去ってきた。市中では新製品が次々に生まれ、古い技術を使った製品は価格が安くなり、消費者から見むきもされなくなって消えていった。

経済は常に、新しい需要を起こしながら、その需要を満たす製品を供給する、というサイクルを繰り返しながら、そしてそのサイクルを短くしながら、ダイナミックに動いていく。そして、その過程で古い技術やそれで作られた製品は消え、もはやそれらを再現する必要はないとみなされる状態となった。

常に最新の技術を求める社会、それがこれまでの日本だったのではないか。

しかし、その最新の技術が社会にとって本当に必要とされているかどうかを立ち止まって検証することはほとんどなかった。むしろ、最新の技術に合わせて我々の社会や生活のあり方を変えることで、財・サービスの新たな需要を生み出し、経済を発展させようとしてきた。

デジタル放送化で古いテレビを使えなくし、黒電話の代わりに電気なしでは使えない高級電話ファックス機を普及させ、数ヵ月ごとに携帯電話を買い換えなければという衝動を引き起こさせる。上にヤカンを乗せれられる石油ストーブの代わりに、電気で動く石油ファンヒーターを買わせると、加湿器の需要も生まれる。

東日本大震災の後、何が起こったか。停電のない日常を前提とした生活が崩れたのである。電気がなければ、テレビも観られないし電話もかけられない。石油ファンヒーターも動かない。携帯電話も充電できなくなる。

リスクのない社会を目指し、技術進歩を信奉した我々が、いったん現実のリスクに直面したとき、何もできず、パニックになる。

乾電池で動くラジオがあれば、テレビがなくとも情報がとれる。コンセントのない黒電話があれば、電話で連絡を取ることができる。電源の要らない石油ストーブならば、寒い部屋で凍える心配もない。

我々はリスクのない社会を目指して技術進歩を礼賛してきた結果、いったんリスクが起こったときに何も役に立たない技術だけの社会を作ってしまっていたのではないか。代替できる別の技術や製品を古いものとして捨て去ってきた結果として、技術が高度に発展した社会は、何か起こったときのリスクが極めて高い社会になってしまったのではないか。

高度技術を追究することは必要である。しかし、それ以外の技術を捨て去る必要があったのであろうか。高度技術に合わせて、それしか使えないような社会や製品を作り出し続けることが豊かな生活を約束することなのだろうか。むしろ、黒電話も使える社会のほうが、我々は安心できるのではないか。

様々な技術が並存する社会。それは、後発発展を続ける発展途上国の経済成長のボトルネックとみなされたものである。新しい技術が古い技術に取って代われないので、いわゆる二重経済が生じ、国家としての早急な成長が進まない、日本はその点が解消したから高度成長が可能になったのだ、といった見方である。

今から振り返ると、それはいったん何かが起こったときに何もできない、一般の人々では太刀打ちできないブラックボックスに依存する高リスク社会を築いてきたとはいえないだろうか。

様々な技術が並存し、それを必要や状況に応じて適宜選択して活用できる社会。古いものを捨て、新しいものに合わせることを強制しない社会。これがリスクの低い社会であろう。でも、日本は古いものを捨て去ってきた。経済成長が大きく望めない現状では、日本で古いものをもう一度作っていく費用と便益は決して経済的なものではない。そうであるならば、外から、まだそうした古い技術や製品が使われている発展途上国から日本へ持ち込むしかないのではないか。

技術レベルの高低のみで技術の優劣を語る時代、 先進国の進んだ技術を発展途上国へ教えるという一方通行的な姿勢。今や、これらを超えなければならないのではないか。

以上の点については、これからも考え続けていく。

2011年9月8日木曜日

メダンの"Barak Obama"

7月、北スマトラ州の州都メダンへ出張に行った際、街中で見かけた「バラック・オバマ」。

Barak Obamaは、Bakso Raksasa Oenak Tenan Mas の頭文字をつなぎ合わせた造語。Enak(おいしい)を旧仮名遣いの Oenak にするなど、工夫の跡が見える。大きな肉団子を売る小食堂。





2011年9月4日日曜日

スラウェシ発の高級チョコレート

京都へ出かけた際に、三条の商店街、西友の真ん前にあるDari-Kという小さな店に行った。Dari-Kは、スラウェシ産のカカオを使ったチョコレートを製造・販売している。



スラウェシのカカオといえば、国際市場では低級品として扱われ、飲食用よりも化粧品の材料や飼料などの用途に使われる場合も少なくなかった。低級品として扱われるのは、農民レベルでカカオを発酵させずに商人へ売買されてしまうためである。 なぜなら、農民レベルでは発酵カカオと未発酵カカオとの価格差があまりなく、農民レベルでは発酵のための機会費用が大きくなるためである。農民はすぐに現金を手に入れたいので、発酵カカオと価格差がなく、商人が買ってくれるなら、当然、手間をかけずに未発酵カカオを売るのは道理である。

しかも、低級カカオの市場が国際的に存在しているため、汗水流して、苦労して、競争の激しい高級カカオ市場へ打って出る必要性も感じなかった。インドネシアは世界第3位のカカオ輸出国、しかもスラウェシはインドネシア産カカオの7割以上を占めるのだが、このままではスラウェシ産カカオから高級チョコレートが生まれるのは難しいと筆者は思っていた。経済性を度外視してスラウェシで発酵カカオを作り出し、それを使って高級チョコレートを作ろうとするドンキホーテでも現れない限り・・・、と。

Dari-Kの話を知って、まさか本当にドンキホーテが現れてくるとは、正直言って初めは信じられなかった。そして、うれしいと同時に本当にすごい、と思った。Dari-Kの代表は実際にスラウェシのカカオ農家に飛び込み、そこに滞在するなかで、カカオを十分に発酵してもらった。それを使って、カカオの素材自体にこだわり、カカオ豆の焙煎から手がける、世界でも珍しい、他のメーカーにはないチョコレートを作り上げた。このあたりの話は、次のDari-Kのホームページで紹介されている。

Dari Kが出来るまで

とにかく、Dari-Kのチョコレートが食べたかった。ようやくみつけたDari-Kのお店で、まず「ラトゥ」を食べた。しっとりとした舌触りの後にカカオの芳醇な味と香りが口の中いっぱいに広がった。あのスラウェシの道端で不細工に天日乾燥されていた未発酵カカオを、丁寧に発酵させるとこんな風になるとは! 驚きとともにおいしいものに出会えた喜びが沸いてきて、不覚にも涙が出そうだった。その次に「ラジャ」を食べる。細かく砕いたカカオ豆が表面を覆い、なかにカカオ豆が一粒丸ごと入っていた。今までどのチョコレートにもなかった食感である。


現段階では、(上写真の上段左から)チェリー、ラトゥ、カラメル、カチャン(ヘーゼルナッツ)、(同下段左から)ラジャ、キスミス、ジュルック(オレンジ)、カユマニス(シナモン)の8つの味で、今後、さらに種類を増やしていくそうである。

今の季節に、新製品のチョコレートアイスも販売中である。このアイス、濃厚なチョコレートアイスの上からローストして砕いたカカオ豆を振りかけて食べる、ユニークなものである。


そして、「世界一大きいカシューナッツ」と銘打って、スラウェシ産のカシューナッツも売られている。あまり知られていないが、スラウェシはカシューナッツの産地であり、とくに東南スラウェシ州は粒の大きなカシューナッツで有名である。


店に掲げられた「We love Sulawesi !」の文字。スラウェシを愛する仲間・・・!

Dari-Kのチョコレートは、賞味期限がわずか数日で、生ものとして味わうべき商品といえる。クール便で地方発送も承っているとのことである。

このDari-Kのチョコレートを、カカオ農家をはじめとするスラウェシやインドネシアの人々に食べてもらえると、必ずや、スラウェシの低級カカオのイメージは大きく変わってくることだろう。

数年前のバレンタインデーのとき、東京の某高級デパートで最も人気のあったチョコレートはフランス製だったが、カカオの産地はインドネシアだった、という話を聞いたことがある。Dari-Kのチョコレートも、インドネシア・スラウェシ発の高級チョコレートとして、これから認知されていって欲しいと切に願う。

Dari-Kのホームページ


2011年8月8日月曜日

ブログが書けない

6月、7月と1本もブログが書けなかった。所用でバタバタし続けているせいもあるが、なぜか書く気になれなかった。インドネシアで未来を確信できる前向きの勢いを感じる一方、日本や福島のことを思いながら悲しみと怒りと無力感に苛まれている。この2つの感情のあまりに大きなギャップに、自分の気持ちをうまく整理することができないでいる。

今日、ようやく約束していたレポートの執筆をほぼ終えることができた。内容は自分の専門分野なのでとくに問題はなかったのだが、執筆するように自分を仕向けていくことができず、辛かった。こんなに書けない、書く気持ちになれないことは、今までなかった。

8月17日に帰国する。今は、帰国した後の自分がどうなってしまうのか、正直言って、それがこわい。

2011年5月30日月曜日

新たなステップを目指して

新たなステップを目指して、実は4月に、知人と一緒に小さな会社を立ち上げた。

会社の名前は株式会社インドネシア総合研究所。略して、インドネシア総研。まだまだヨチヨチ歩きの生まれたてホヤホヤの会社である。ホームページは以下の通り。

 株式会社インドネシア総合研究所

インドネシアを対象としたビジネス・コンサルティング、市場調査、現地調査視察などを行う会社、である。もっとも、ビジネスだけに留まらず、大学などのスタディ・ツアー、市民団体やNGOどうしの交流など、社会・文化的な活動も視野に入れている。そういった関心項目の一つは、社会的投資やソーシャル・ビジネスである。

この会社を最初の一歩と位置づけて、まずは、日本とインドネシアとを、対等な立場で、深くしっかりとつないでいく活動を展開していきたいと考えている。

といっても、私は出資者の一人にすぎず、経営に直接関わるわけではない。チーフコンサルタントとして関わっていくことにした。

今後は、インドネシア側のクライアントを相手にした活動も考えていく予定で、ジャカルタに拠点を構えての展開も構想中である。

そして、インドネシアに関する専門家や日本語・インドネシア語のスペシャリストとの協働ネットワークづくりを進め、一緒に活動していく。各人それぞれの立場を尊重した、緩やかでしなやかなつながりを作って、それを広げていきたい。もし、仲間に加わりたい(あるいはちょっと興味があるという)方がいれば、是非、連絡して欲しい。インドネシア総研宛でも、私個人宛でもOK。

日本人、インドネシア人、その他どんな人でも、国境をらくらくと越えながら入り交じって、もっとワクワクする楽しい未来を作っていくことに何らかの貢献ができればうれしい。

これから、どんなステキなもの、新しい仕組みを作っていけるか。どんな面白いこと、楽しいことを起こしていけるか。頭の中にはいろいろな構想が湧いてくる。日本とインドネシアとを行き来しながら、皆さんと一緒に考え、動いてみたい。もちろん、1日24時間、1年365日、常に面白いアイディアを募集中。よろしくお願いします。

2011年5月27日金曜日

ミュージカル『虹の戦士』再演

友人の映画監督であるRiri Reza氏から、彼が監督を務めるミュージカル『虹の戦士』(Laskar Pelangi)再演のお知らせが来た。

期間:2011年7月1〜11日
場所:Teater Jakarta, Taman Ismail Marzuki (TIM), Jakarta

先行前売り券が2011年6月3〜5日に、Tiket Box, Teater Jakarta, TIMにて発売される(10〜17時)。対象席数は計1600席と限られている。なお、一人につき先行前売り券を6枚まで購入可。以下、カッコ内は通常料金。

Kelas 2: 10万ルピア(15万ルピア)
Kelas 1: 25万ルピア(35万ルピア)
VIP: 45万ルピア(55万ルピア)
VVIP: 65万ルピア(75万ルピア)

なお、通常チケットの発売は2011年6月10日からとなる。

前回、2010年12月17日〜2011年1月9日の公演を見逃した方、もう一度見たい方、チケットの手配はお早めに。

2011年5月25日水曜日

福島市の実家で

先週末、福島市の実家で過ごした。3月11日の東日本大震災の後、ようやくの帰郷だった。

白河を過ぎて須賀川付近から、瓦屋根にシートがかかり、石で抑えられた家が目につくようになった。3月11日の地震では、福島県内で被害が大変だったのは、県北の福島よりもむしろ郡山や須賀川だったと聞いた。液状化現象も起こっていたとか。でも、新幹線が福島に近づいても、瓦屋根を修復中の家が目につく。

実家は、何も変わっていなかった。母曰く、柱の多い平屋建ての家だったためか、壊れたり、倒れたりしたものはほんの一部だったようだ。ガラスのコップがいくつか割れた程度で済んだそうだ。母は、いつもの通り、淡々と一日を過ごしていた。

街中を歩いても、一見、何も変化は見られない。通りを歩く人は少ないが、もともと、市内はそんなものなので、とくに今回、人通りが少ないという印象はなかった。

運動部らしき高校生がかけ声をかけながらランニングし、テニスコートでは日が暮れるまで練習に明け暮れていた。

郊外では、農家のおじいさんが田植えの終わった田んぼで一息ついていたし、モモやリンゴの畑では、作業をする農家のご夫婦の明るい笑い声が聞こえていた。

新芽や若葉が萌え出でる、鮮やかな緑の勢いを感じる、いつもの福島の5月だった。

そんな、大好きな福島の5月を味わいながら、「今、自分は、内部被曝している最中なのだろうな」と思った。美しい空気と一緒に、目に見えない放射性物質が自分の体内に入っているのだろう、と悟った。

弟の娘たちは、相変わらず元気だった。妹は学校で健気にマスクをしているが、姉はマスクはしないらしい。格好を気にする中学生、マスクをしなさいという親のいうことも聞かない様子。それでも、姉のクラスでは何人かが福島の外へ転校していったそうだ。入れ替わりに、福島へ避難・転校してきた友達がクラスに数人いる。

彼らの親は、放射線量をとても気にしている。安全性について学校側を問い詰めるような親もいる。誰だって、自分の子供のことを心配しない親がいるはずがない。

弟の妻と話をしながら、息の詰まるような毎日を送っていることが感じられた。安全のためには避難した方がいいのかもしれないが、自分たちの生活がここで成り立っている以上、そう簡単に動くことはできない。でも、せめて、1〜2週間でも、福島を離れて別の場所で気分転換をしたい、思いっきり屋外で遊ばせたい、プールで遊ばせたい、というのが切実な気持ちのようだった。

「今年の夏には、よかったら東京の我が家にしばらくいらっしゃいよ」と言ったら、いつもは遠慮がちな弟の妻が、素直にとてもうれしがっていた。もっとも、東京だって絶対に安全だとは言えないのだろうが。

つい最近、結婚したばかりの従姉妹にも会った。彼女は、屋内でもマスクをしていた。風邪でも花粉症でもなかった。彼女の心配が本当に手に取るように感じられる。彼女は、一刻も早く福島を離れたがっていた。冗談で「インドネシアへ来る?」と言ったら、真顔で「行きたい、行きたい」と懇願された。

福島のテレビでは、頻繁に放射線量の測定数値が画面に流れている。母は毎日それをチェックするのが日課だ。でも、放射線量が3月15日頃の約20分の1に減った現在、それは不思議な安定感を母に持たせているようにも見える。

NHKが5月15日に放映した「ネットワークでつくる放射線地図」というドキュメンタリー番組の話を母にした。母はその番組を見ていなかったし、そこで描かれた放射線量をめぐるホットスポットの話などは知らない様子だった。いや、知ったからといって、今さら自分がどうなるということではない、あと何十年も生きるわけでもないし、とある種の覚悟を決めているかのようでもあった。

福島の子どもを持つ親たちがネットワークを作り、年間被曝線量20ミリシーベルトという基準を子どもに当てはめないように訴える運動を始めていたのは知っていた。5月23日、彼らは福島から文部科学省に押しかけ、強く訴えたが、文部科学省三役は現れなかった。

子ども連れの親たちが、雨が降るなか、建物の中には入れてもらえず、コンクリートの地面に座る形で、文部科学省の中堅幹部を相手に懸命に主張していた。そうした文部科学省の対応が、この国の人間を大切にしようとしない、上から目線の態度を如実に物語っていた。民主主義かつ先進国を自負する日本という国のそんな役人の対応を悲しく思った。

学校では、校庭の表面土を削り、それにシートをかぶせて遮蔽して埋め、その上に別の土をさらにかぶせる、という処置をするようである。これで、土の表面の放射線量が大きく減少する。でも、実は、どのシートを使うかが問題なのである。

それは、市町村の判断に任されている。吸着力の強いベントナイトシートを使えば最も効果があるが、高価である。財務力の乏しい市町村では、より安価な塩化ビニールシートやブルーシートを使うケースもあるようだ。でも、放射性物質の吸着・遮蔽力はベントナイトシートより遥かに落ちる。

国立大学附属ではベントナイトシートを使うが、公立では塩化ビニールシートやブルーシート、という違いがこのままだと現れてくる可能性がある。小・中学校は義務教育である以上、国がベントナイトシートの使用を義務づけて、必要な資金を都合すべきであると考えるが、どうだろうか。

これまでの政府や東電の発言や対応を見る限り、常に自らが責任を少しでも免れられるような逃げ道が先にありきだったように感じる。でも、実際に避難を強いられたり、高い放射線量のもとで不安を抱えて暮らす子どもや若者たちは、逃げ道を用意できない。

パニックを起こさないためという理由で正しくない情報を流し、情報をコントロールし、後で「実はこうだった」と後出しする対応をされて、人々が信頼するはずはないだろう。せめて、誠意を持って、正しくない情報を流したことをまず詫びるべきではないか。

本当に人々のことを思ってついた「嘘」なら、人々は分かってくれることだろう。でも、今までの対応では、それは難しい。いや、それでもなお、政府は人々に信用を強制し続けるのかもしれない。

福島市の実家で過ごしながら、ある意味、肝の据わった日常のなかに生きる母や市民の強さとともに、底知れぬ不安からせめて一時でも逃避したい切実な親たちの感情を思った。そして東京へ戻り、文部科学省のデモへの対応や国会での「言った、言わない」政局を見ながら、本当に日本は悲しい国になってしまった、と思わずにはいられなかった。

それでも、この国を、福島を、そこに生きる人々を思う純粋な気持ちはなくならない。やはり、自分たちのことは自分たちで守る。自分たちが動くしかない。当たり前のことなのだ。

2011年5月16日月曜日

バンジャルマシンのサシランガン

バンジャルマシンのサシランガン(Sasirangan)。ここの特産の絞り染めである。最近は、ジャカルタのバティック屋さんでもみかけるが、バンジャルマシンでこのサシランガンの工房をのぞく機会があった。


特徴は、波のような丸まった線。型を取って、デザインを描いていた。



絞り染めなので、制作プロセスはすべて手作りである。どのような模様を出すか、どの色を充てるか、細かく緻密に計算しながら、絞りを施していく。



下の写真のシャツの模様が伝統的な絞り模様の一つ、とのことだ。


ジャワでは、プリンティングのバティックが幅を利かせ、ろうけつ染め特有のシミのない、きれいなバティックを目にすることが多くなったが、このバンジャルマシンのサシランガンは、すべて手作りで、2枚と同じ模様のものには出会わない。素朴な味わいが何ともいえずほのぼのした気分にさせてくれる。

さっそく、私も明るい緑色のものなど3枚の半袖シャツを購入した。今年の日本の夏にも着てみたいと思っている。

2011年5月15日日曜日

南カリマンタンの水上マーケット

5月1〜5日は、南カリマンタン州バンジャルマシンに滞在した。実は、南カリマンタン州を訪れるのは初めてだった。そして、バンジャルマシンへ行ったら、まずは名物の水上マーケットを見に行かなければ、と思っていた。

5月2日、朝5時に起床して、マルタプトラ川を1時間半ほど上流へ上り、バンジャル県ロック・バインタンにある水上マーケットを見に行った。あいにくの大雨、しかもガイドの用意した舟には屋根がなく、おなじみブルーのビニールシートを被っての川上りとなった。当然、体中ほぼずぶ濡れ状態。自分の行いの悪さを反省しつつ、大雨の洗礼を受け入れるしかない。なかなかの苦行、である。

水上マーケット、とされた場所には、まだ数隻しか舟が集まっていなかった。それでも、10分、20分と過ぎると、舟はどんどん集まってきて、最盛時には約70〜80隻程度になった。雨なので通常よりは少ないのかもしれないが、日々の生活に必要な野菜や果物を毎日買う場所なので、雨天中止ということはないらしい。ここは、まだ、地元の人々が生活のなかで使っている水上マーケットであった。



舟で売買するのはほとんどが女性である。雨が降っていたので、みんな笠をかぶっていた。野菜などを乗せてくる舟に混じって、何も乗せていない舟が近寄ってくる。商人の舟である。




せっかくなので、より近い、バンジャルマシン市内のクイン川の水上マーケットへも行ってみた。5月5日、またしても朝5時起床、川沿いの家々がすぐ手が届きそうなぐらいの狭い水路を進んでいく。時折かかる橋が低く、船がその橋の下をギリギリに通過する。水上マーケットから戻る頃には満ち潮で水位が上がるため、その狭い水路を通ることはできなかった。

今度は天候に恵まれた。真っ暗だった空が少しずつ明るくなり、朝の光が徐々に空へ映り始めていく。

クイン川の水上マーケットは、2日に行ったロック・バインタンのそれとはかなり趣が異なる。舟の数が少ないのと、私らのような観光客を乗せた舟が何隻かあり、そこへ盛んにモノを売りに来る舟がある。「毎日娘が作るんだよ」とたくさんの種類のスナックを売る娘さん思いの気のいいおじさん。1個1000ルピアのお菓子が船上ではとてもおいしく感じられた。

観光客の多くはインドネシア人で、外国人は見かけない。それでも、観光客をあてにして、ミ・バソ(肉団子入りそば)などの軽食を食べさせる船まで出ていた。


このクイン川の水上マーケット、以前はたくさんの舟で賑わったそうだが、陸上交通が発達するにつれて、利用者が少なくなり、今では風前の灯火のような状況になっているようだ。たしかに、2日に行ったロック・バインタンの水上マーケットのような、地元の人々が日常生活のなかで活用しているようには見受けられなかった。


インドネシアの民間テレビ会社RCTIのテレビ広告では、たくさんの舟で埋まったバンジャルマシンの水上マーケットが写され、ジルバブを被った女性商人の一人が親指を立てて「イエーイッ」とやる部分に"RCTI OK"の声が被さる。そのイメージでバンジャルマシンにやってきたのだが、実際はとてもつつましいものであった。もっとも、年に何回かのイベントの際には、たくさんの舟が動員され、「賑わい」を演出するのだそうである。

バンジャルマシンの周辺で水上マーケットが残っているのは、これらロック・バインタンとクイン川の2ヵ所だということだ。でもきっと他にも、毎日の生活を支える船上での交易が、外部者に知られることなく、行われていることだろう。しかし、陸上交通の改善とともに、水上マーケットもその役割を変えていくことになるのだろう。

2011年4月30日土曜日

"The Mirror Never Lies" 試写会潜入

4月24日〜5月7日の日程で、インドネシアに来ている。今回は、2週間という短い日程での調査が目的である。

4月29日の晩は、友人で映画監督のRiri Reza氏とマカッサル料理屋Pelangiで一緒に夕食をとった。午後9時になって彼がそそくさとし始めたので、次の予定を聞くと、映画の試写会があるという。詳しく聞くと、私が2009年12月に東南スラウェシ州ワカトビで会った若い女性映画監督の作品とのこと。試写会の招待状はなかったが、もしかすると、どさくさで潜り込めるかもしれない、ということで、Riri氏と一緒に試写会に行くと、何の問題もなく試写会に潜り込めたのはラッキーだった。

2009年12月に、ワカトビ県開発企画局長官の家で会った彼女はKamila Andiniさんで、あのときは映画を撮る前のリサーチに来ているときだった。海上生活をしてきたバジャウ社会を舞台とした、土の匂いのする映画を撮りたいと話していた。私からは、よそ者とそこの土地の人との関わりや地元学について、多少お話した記憶がある。

今回は、あのときに準備していた映画「The Mirror Never Lies」の試写会だった。

彼女がGarin Nugroho監督の娘だということを今回初めて知った。試写会にはGarin氏も来ていて、少々立ち話をした。ワカトビ県知事に再選された旧知のHugua氏はじめ、多くのワカトビの人たちとも会場でお会いした。

映画の内容は割愛するが、ワカトビの海の美しさが際立つ映像が印象的だった。出演していた地元のバジャウの子どもたち3人は、素晴らしい演技だった。ワカトビで感じるようなゆったりとした時間を感じるとともに、人物が丁寧に描写されていた。

Kamila Andini監督の第1作だが、作り手の真っ直ぐな視線が感じられるよい作品だった。次作以降も期待が持てるだろう。今後、インドネシアで注目すべき若手監督がまた一人現れた、という印象である。

「The Mirror Never Lies」は、5月5日からインドネシア国内の21(トゥウェンティーワン)系の映画館で公開される。海の美しさだけでも観る価値のある映画だと思う。

なお、この映画については、以下でも紹介されている。

 インタビュー:インドネシアの映画監督・Kamila Andini @"The Mirror Never Lies (TMNL)"


2011年4月16日土曜日

耕志の会

福井に住む私の友人が「耕志の会」という団体を立ち上げた。

彼は、日本へ農業研修にやってくる外国人を受け入れ、自分の農地で実践的な作業を行いながら、暮らしと農業との関係、経済社会開発とは何か、異なった条件の下でどのように農業経営を成り立たせていくか、といった様々なテーマについて勉強会を行う、という研修を独自に続けている。

耕志の会は、座学、圃場実習、フィールドトリップ、圃場実験という彼のところでの一連の研修運営に加えて、この研修を修了し、母国へ帰った研修生が地域に根ざした新規起業を行うための小規模融資も活動の視野に入れている。

会のメンバーは、彼と研修生およびその修了者、である。対象はインドネシア人研修生とし、Yayasan Kuncup Harapan Taniというインドネシア語の団体名を併記している。

耕志の会については、以下のブログを参照して欲しい。

 設立総会を開く 会が立ち上がる

耕志の会では、サポーター会員を募集している。年会費1万円とのこと。興味のある方は、直接こちらのアドレスへ連絡して欲しい。

また、彼のブログも興味深いので、これを機会に是非読んでもらいたい。地域コミュニティの一員として、新旧世代の狭間で悩みながらも、そこに根ざした農業を日々実践する彼の言葉は重い。何につけても、上っ面の議論が横行する傾向が強い今日だが、地に足をつけ、生活と農業との一体化を模索する彼のブログは、多くの人々に読んでもらいたい内容を含んでいる。

2011年4月14日木曜日

桜の木の下で

わずかの時間だったが、今年も家族でお花見をすることができた。そして、今回ほど、桜の花を見て寂しさや悲しさを感じたことはなかった。



我が家の桜も早々に満開となった。しばらく前までは、桜の木の下に丸テーブルを出して、家族3人で遅めの朝ごはんを楽しむ、というのが春の休日の楽しみだった。

播磨坂では、羽目を外さない程度にお花見の宴が催されていた。お行儀のいいお花見だった。


氷川神社に行ったら、ソメイヨシノの白、八重桜のピンク、菜の花の黄色がきれいにそろっていた。


境内に上がる階段の前で、娘を撮った写真。


「明るい日本」になって欲しい。でも、よく見ると、「明るい」と「日本」の間にひびが入っていた。

桜吹雪とはよく言ったものだ。散りゆく桜の枝からは緑色の葉が日に日に増えて行く。これから成長していく緑とともに、前向きに毎日を過ごしていきたい。

2011年4月2日土曜日

ブログを書けなかった日々

この2ヵ月、ブログを更新できなかった。2月末までインドネシアにいたが、とにかく毎日いろいろあり、週末はジャカルタを離れて出かけていたので、実はネタはたくさんあった。日々の慌ただしさのなかで、書くタイミングを失してしまった。

2月27日に帰国して、翌28日から3月9日まで、インドネシア商工会議所関係者の研修にコースリーダーとしてずっと付き添っていた。そして研修が終わって、一息つくかと思った矢先、3月11日に東北関東大震災(東日本大震災と公式に命名されたようだが)が起こってしまった。

引き続く余震と緊急地震通報、毎時毎時テレビに映し出される被災地や人々の姿。そうこうするうちに福島原発の事故とそれに関わる情報が流れるようになった。公式見解とそれに対する様々なインターネット上の情報。テレビとツイッターを見続けているうちに、自分が普段の感情を失っていくのが分かった。

朝起きてテレビをつけると目に飛び込んでくる光景、人々の苦悩に自然と涙があふれ、同時に何も行動を起こせていない自分への怒りと被災した故郷の人々への後ろめたさ・申し訳なさ、悶々とした日々を送っていった。

そんな気分のまま、所用で3月22〜26日にジャカルタへ行った。いつもなら、インドネシアに着いた途端にポジティブ・スイッチが入り、気分が高揚するのに。今回は、乗っていたタクシーの運転手に「お客さん、どうして寂しそうな顔をしているんですか」なんて言葉をかけられる始末。予定では4月3日までインドネシア滞在だったが、そんな気持ちにもなれずに、滞在期間を短縮して帰国した。

でも、ジャカルタで会ったインドネシアの方々がみんな日本のことを心配し、優しい励ましの言葉をかけてくれたのが、とてもありがたかった。でも、どうして? どうしてこんなに日本は思われているのか、いったいこれまで何をしてきたんだ日本は、と思った。もっと今まで私たちの外国との付き合いに自信を持っていいのだ、と思った。と同時に、私たちが本当にどこまで相手の国の人々のことを思っているのか、と自省する必要もあるような気がした。

テレビとツイッターを見ながら、やるせない気分で悶々とする日々が続いている。前向きに何かをガンガンに進めようという気力がわき上がってこない。とくに、生まれ故郷の福島がどうやって復活するのか、負わされた汚名をどうやって払拭できるのか、延々と考える日々。原発事故の被害にあった側にも、原発管理の当事者側にも、私の友人がいる。住民対策や復旧作業に当たっている友人もいる。彼らの壮絶な日々に思いを馳せたとしても、それ以上の何もできない自分にもどかしさとふがいなさを感じている。

こんなときだからこそ、自分の仕事をそれこそどんどん充実して行い、元気に笑いながら朗らかに楽しく生きていかなければならないことは、頭では分かっている。被災した方々が他人も自分たちと同じように悲しんで欲しいと思ってはいないことも想像できる。それでも今、そんなに簡単に割り切れない自分がいる。

今日からまた少しずつ、ブログを書いてみることにする。書いているうちに、そんな自分の気持ちの整理が少しずつ始まっていくような気がしているから。

2011年2月8日火曜日

バティック・バンテン

バンテン州セランで、前から行きたいと思っていたバティック・バンテンの工房を訪問した。工房主のUke氏は、10年ほど前から工房を開き、バンテン王国の故事から75種類のモチーフを現代によみがえらせ、そのうちの20種類のモチーフを使って、バティック・バンテンを作ってきている。

この工房の特徴は、手書き(tulis)と型押し(cap)でバティックを描いていることで、今、はやりの安価で大量生産可能なプリンティングは一切行っていない。


ロウを溶かす燃料には、灯油ではなく、薪を使っている。Uke氏曰く「自然に優しいし、コストも1日たった500ルピアで済む」とのこと。





筆者が今回、バンテン州の友人からいただいたバティックのモチーフはラゲンマイタ(Langenmaita)。帆船で愛を育んだ幸せが到達する港、という意味だそうである。大変おめでたい意味で、その友人の気持ちがモチーフの持つ意味を通じて感じられる。自分で購入した布のモチーフはマンダリカン(Mandalikan)。その意味は、イスラム教の布教の際に、バンテン王国のアリア・マンダリカ王子に授けられた称号、ということである。


Uke氏は長年、スマトラのブンクル州に滞在したことがあり、そのときに、彼が考案した地元バティックが、現在のバティック・ブスレック(Batik Besurek)なのだそうである。ブンクル州のバティック・ブスレックについては、以前、ブログでも紹介した。

 ブンクルのバティック

バティックがユネスコの無形文化遺産に登録されて以来、インドネシア各地で様々なご当地バティックが勃興している。新しく考案されたものが多いなかで、他とは違う何か、とくに歴史から掘り起こした深さと丁寧な制作作業が新たな価値を見出していくのではないか、と思える。


マレーシアの国際バティック・コンテストにおいて、モチーフ部門で第1位になったバティックの布を購入した(上写真)。モチーフが明るく前面に出てくるのではなく、落ち着いた色彩のなかに渋くモチーフが描かれていた。生地の絹がとてもなめらかである。普段着では着られないような布地だったが、値段は想像よりもずっと安かった。バティックにあるような物語が、絹の布地にはまだないからなのかもしれない。

2011年2月5日土曜日

カレー麺系


先日、ミー・アチェ(Mie Aceh)の汁そばを食べた。いつもは汁なしのカレー焼きそばなのだが、今回は汁そば。生のバワン・メラを入れて食べると、カレー味のスープと絡んで、何ともいえぬおいしさが口の中に広がる。

カレー麺といえば、私の最大の好物はマレーシアのラクサ・ペナン。そして、それに勝るとも劣らないのがタイ・チェンマイのカオサイ。麺は異なるが、これら3つには何かつながりを感じる。チェンマイ、ペナン、アチェ。

2011年2月4日金曜日

中国正月の金徳院

2月3日は中国正月で、インドネシアは祝日。ジャカルタ最古の中国寺院の金徳院へ出かけて、「初詣」で賑わう様子をみてきた。

金徳院へは、グロドック側から入った。


キティちゃんの刺繍の入った赤い子供服。


通りで物売りをしている青年も赤い服を着ていた。



赤い提灯も掲げられていたが、これは何と読むのだろうか。


おじさんが後ろでギコギコ漕いで、子どもが前の車に乗って遊ぶ、の図。

グロドックから10分も歩かないうちに金徳院へ到着。


もうもうと線香の煙が立ちこめるなか、人々が祈りを捧げる。





上の最後の写真は、千手観音に手を合わせている。ここには行列ができていた。


金徳院の境内で、華人系の青年とムスリムの女性のカップルに出会った。とっても仲の良さそうな二人。青年が女性に祀られている神様についていろいろ説明していた。ジルバブ姿の女性がいても、とくに違和感を感じることはなかった。


境内の外には、たくさんの物乞いの人たちが待ち受けていた。彼らの場所にはひもが張られ、警備員が監視していた。


中国正月の金徳院へは、1991年の中国新年が明ける深夜0時頃に訪れたことがあった。ときはまだ中国文化の表出を押さえ込んでいたスハルト時代、ジャカルタの街中に何も中国正月の気配がないのとは対照的に、金徳院はたくさんの華人系市民でいっぱいだった。

中国正月が大っぴらに祝える現在、金徳院をめぐる空気のすべてが和やかに感じられた。境内で擦れ違う人々が柔らかな微笑みを返してくれた。

2011年1月20日木曜日

嬉しいことがあったので・・・

1月14日、個人的にとても嬉しいことがあったので、一人でささやかな祝いの宴をした。喜びを誰かと分かち合うのもいいのだけれど、なぜか、自分一人で祝いたい気持ちになっていた。

何で祝いの宴をするか、ちょっと迷った。結局、これにビールで祝いの宴にした。


イエローライスを真ん中にし、その周りをいろいろなおかずで囲んだリースタフェル(Rijsttafel)。肉とジャガイモの甘辛い煮付けとピリッと辛いサンバル・ゴレンがイエローライスと相まって、口の中で絶妙なハーモニーを醸し出した。やはり、ちゃんとしたところの『ナシ・ラメス』は違うのだ、と納得した。

このリースタフェルを味わいながら、南インドで食べたターリーを思い出した。あれも皿の上にちょこちょこカレーやギーを並べていたが、すぐに、手でかき回して混ぜて食べるのだ。さすがにこのリースタフェルを混ぜ混ぜして食べる気にはならなかったが、見た目がよく似ているので、ちょっとターリーとの親近感を感じた。

おいしいものを食べることで、なお一層、嬉しさがじわーっとわき上がってくるような、至福の時間を過ごした。ちょっと赤ら顔ではあったが。

2011年1月16日日曜日

次のステップ・・・

1月2日にジャカルタへ戻って、バタバタと毎日を過ごしてきた。いろいろな人と会う機会も多くなり、これまで受けてきたのとは違う種類の様々な刺激を感じるようになった。何となく、そろそろ、徐々に徐々にだが、次のステップが見え始めた感じがする。

これまでを振り返ると、それまでやっていた仕事や業務がスパッと終わって、ゼロから再び始まる、ということではなかった気がする。前の仕事や業務と次の仕事や業務は、けっこう長い時間にわたってクロスしていて、双方が響き合いながら、少しずつ次の仕事や業務のほうへ重心が移り始めていくような、そんな感じを抱いている。つまり、瞬間的に見ると、違う方向へスパッと動いたように見えながらも、その複線はそれ以前の相当に長い時間にわたって引かれていた、という感じである。

単純かもしれないが、こんなことを思うのだ。

日本のヒトやモノがもっとインドネシアやアジアや他の世界と交わり、インドネシアやアジアや他の世界のヒトやモノがもっと日本と交われれば、もっと楽しくて面白いことが起こってくるのではないか、と。交わりが深まれば、もっともっとお互いに興味を持ち、お互いに尊敬しあうようになるだろう。最初は一人勝ちを狙って他と付き合い始めても、相手もよくならなければ自分も利益を得られないことを知るだろう。

国家を超えた公共益が成立できる時代は、実はもう相当に前からできているのに、実際の国家や組織の行動はまだ「一人勝ち」を短期的に求める性向を本質的に変えてはいない。国家や組織の行動が変わるのを待っていては、何も始まらない。

一人一人の具体的な行動を積み重ね、繋げ合わせていくことによって、本当の意味での公共益が生まれてくるのではないか。そうした公共益を生み出すには、自分とは異なる他者への興味と尊敬が必要である。なぜなら、自分もまた他者から無関心と見下しを受けたいとは思わないはずだからである。

こんなことは基本中の基本のこと。でも、無意識に他者を見下したり、軽蔑したりすることが、自分も含めて、いかに多いことか。

そんな一人一人の具体的な行動を積み重ね、それを繋げていくという作業を、現実に始めてみたいと思うようになった。それは、持続性という観点からビジネスという形を採る場合もあるだろうし、ファンドや基金という形を採る場合もあるだろう。他者への尊敬という観点から、できれば、モラルハザードが起こりやすい援助という形は採りたくない。

ドンキホーテかもしれない。しかし、きっと、同じようなことを思っている仲間が世界中にいるはずだと信じている。

まずは、自分がどっぷりはまり込んでいるインドネシアと日本のヒトやモノをより深く繋げていくことから始めてみたい。すぐにスパッとうまくはいかず、試行錯誤は当分続くだろうけれども。

読者の皆さんからもいろいろな意見やアイディアをお聞きし、ネット上でアドバイスをいただければとても嬉しい。

2011年1月1日土曜日

2011年を迎えて

2011年を迎えた。2010年には、様々な出会いと悲しい別れがあった。とくに別れは、いずれ必ず来るものだと分かってはいても、簡単に気持ちの整理ができるものではない。

我が家は喪中のため、今回の年賀挨拶は遠慮させていただいている。ご了承願いたい。

前もそうだったが、近しい者たちとの別れに際して、常に「自分は慢心していないか。傲ってはいないか」と自問してしまう。

でも、別れた親しい者たちは、決して私が立ち止まったり、後ろばかり見たり、ネガティブ思考になったりすることを望んではいないだろう、とも思う。思う存分、自分なりに納得して喜びを感じるような生き方、そんな自分が周りを、友人たちを、世の中をより楽しく明るくしていけるような生き方を望んでいるはずだ。

悲しい別れを心の奥にしっかり大事にしまい込みながら、それを自分の生きる力に変換し、もっともっと能動的に生きていけるといいのだが。今年をどんな年にしていくか。いろいろと考え始めている。

そんな私を、故郷のウサギの張り子人形が「なーんちゃって。へへへ」と見つめてくれている。