2009年6月29日月曜日

翼の向こうに夕陽が沈む


6月10日、パルからマカッサルへ向かう飛行機の翼の向こうに夕陽が沈んでいく・・・。私の隣の席の男性がデジタル一眼を持ち出し、「夕陽を撮りたい」と乗り出してきて撮ったのだが、それにつられて、私も1枚撮った次第。

乾季と雨季で景観が大きく変化するスラウェシ島。飛行機に乗ると、必ず窓際の席に座り、美しいこの島の景観を空の上から堪能しようとする。同じルートを何度飛んでも、飽きることはない。もちろん、雲が湧いて何も見えないことも多々あるのだが・・・。

数々の思い出の写真を映してきた愛しの名機Fuji Finepix F30。このとき、この名機と、今月中にお別れすることになるとは思っていなかった・・・。

2009年6月21日日曜日

イベント情報:ScreenDocs! Travelling 2009


毎年恒例、インドネシア全国をまわる国内外の連続最新ドキュメンタリー映画上映会『ScreenDocs! Travelling』が、今年もマカッサルで開催される。もちろん、会場はCafe Baca Biblioholic、すなわち我が家の一角である。

期間は6月24日(水)~26日(金)、毎日午後2~9時。入場料は無料。

期間中に「トランスジェンダー」と「人権」をテーマとした17本のフィルム上映を行うほか、アメリカ・カリフォルニア州出身のドキュメンタリー映画監督のKathy Huang氏による「ドキュメンタリーフィルム紹介」、インドネシアのドキュメンタリー映画監督・製作者のChandra Tanzil氏による「ドキュメンタリーフィルムの調査とプロポーザル」の2本のワークショップも開催される。

主催はInDocsとRumah Ide Makassar。今年はどんなドキュメンタリー映画に出会えるのだろうか。

2009年6月20日土曜日

災い転じて福とする

今週は、とんでもない大災難が起こって、パニック、ショック、絶望、という気持ちに久々になってしまったが、ここにきてようやく精神的にも落ち着いてきた。そういうことが起きるときというのは、後から振り返ると、いつもとは違う何らかの兆候があるものである。その日は、朝、気持ちは元気なのに、何となく体にだるさを感じて、頭がシャキッとならないままだったのだ、と思いだす。

大災難の後、何人もの友人たちがメールやら、電話やら、SMSやらを送ってきて、同情の気持ちや励ましの言葉を伝えてきてくれた。大災難といっても人災であり、私の過失は決してゼロでない、自分が甘かったのだ、とずっと自分を責め続けてしまうのだが、彼らはなぜそんなにも優しくしてくれるのだろうか、と感じ入った。

インドネシア人は無責任だ、とか、自分に甘い、とか、よく日本人である我々は批判しがちだが、今回ばかりは、その真綿に包まれるような甘さが、自分は一人ではない、他人が見守ってくれている、という安心感を与えてくれ、自虐的な行為に走らせずに済んだのかもしれない。

一人になっても強く生きていかなければならない、という生き方がある。でも、一人でいることの弱さを自覚してみんなで慰めあいながら生きていく、というような生き方を、誰も否定することはできないだろう。

彼らの励ましや同情に支えられながら、それに応えて、まだ、この場所で精いっぱい暮らしていこうという気持ちが起こり始めてきた。災い転じて福とする(福となる、ではなく!)。お手伝いのティニさんが「失ったものの何倍もの幸せが来るように」と祈ってくれた。

2009年6月15日月曜日

アブラハムさんとカルンパン織

先週、6月7日に西スラウェシ州マムジュへ着いた後、かつて友人から会うように勧められていたアブラハムさんに会いに行った。その友人によると、アブラハムさんは、カルンパン織に関する研究を自前でしている方で、間もなくその成果を冊子にして出版するという話であった。

アブラハムさんと奥さん

カルンパン織というのは、西スラウェシ州マムジュ県のカルンパン地方で織られてきた織布のことで、インドネシア語ではイカット(ikat)と一般に呼ばれる。インドネシア東部地域は各地でイカットが織られ、日本ではとくに、バリ島のさらに東に広がる西・東ヌサトゥンガラ州各地(ロンボク、スンバワ、スンバ、フローレス、アロール、ティモールなど)のイカットが有名だが、スラウェシでも、それに類するイカットがこのカルンパンなどでみられる。

アブラハムさんにカルンパン織についていろいろ聞いてみるのだが、「これらの話はぜーんぶ、わしのこの冊子に書いてある」というばかりで、なかなか詳しく教えてくれない。アブラハムさんがその冊子を書き始めたのは1986年。彼によると、その後、マムジュ県政府に資金的な支援をお願いしたが、何も対応してもらえず、ようやく今年になって、県政府から補助が出たので、5冊だけ印刷し、州知事夫人、県知事夫人、その他県政府関係者に配る、ということだった。どうしてもそれを読んでみたい私は、資金提供するから、5冊分けてくれないか、とお願いした。聞くと、中スラウェシ州パルに住んでいる甥が印刷をしているとのことで、数日後、たまたまパルに出張した際に、甥に会ってお願いしてきた。

そんなアブラハムさんとのやり取りを見ていた彼の奥さんが、ニコニコしながら、いろんなものを取り出してきた。本来のカルンパン織は、自然のものを使って染色材料をつくり、実際に綿花を植えて棉を取って糸を紡ぐ。すべて自然にある素材で、2~3ヵ月かけて織り上げるのである。以下は、その染色素材である。


上の写真はタルン(tarung)と呼ばれ、根を染色素材として使う。黒色や紺色を出すために用いる。


上の写真はバン・クドゥ(bang kudu)と呼ばれる植物の葉だが、染色材料には根を使い、赤色を出す。


上の写真は綿の実。これは粒が二つずつ並んでいるが、第二次大戦の日本軍による占領時代には、粒が一列で小さい種類の綿の実があったという。



上の写真はパッリ(kayu palli)、下の写真はアロピ(kayu aropi)と呼ばれる木の一部で、いずれも色落ちを防ぐために使う灰の材料になる。


アブラハムさんの奥さんが手塩にかけて織り上げたカルンパン織である。

材料を山や森から取ってきて、加工して、2~3ヵ月かけて手織りして、という長い時間をかけて出来上がったカルンパン織には、独特の風格が感じられる。こうして織られた織布は、100年以上経ってもボロボロにならないという。一生ものといってもよい。

しかし、その時間がかかることを嫌がって、カルンパン地方の人々も、手っ取り早く換金できるカカオ栽培などへ転換していくケースが後を絶たないのである。なんとか、カルンパン織の伝統を守るために、若者たちの一部が、外国人がやってくるトラジャに店を出して、そこでカルンパン織を売ってお金にしているのである。トラジャでは、ランテパオの大通りに面した市場にあるTodi' Shopでカルンパン織を購入できるとともに、染色材料の展示や織りの実演なども行われている。

もっとも、カルンパンの人々は、民族的にはトラジャ族に含まれる。かつてトラジャでもこのようなイカットが織られていたのではないかと想像するのだが、確証はない。

スラウェシ中部の山岳地帯には、木の皮から服を作る技術を持った人々が現存しているが、そうした技術が現存しているのは世界中でスラウェシだけという話もある。カルンパンでも、まだ木の皮から服を作る技術が残っている様子だ。

カルンパンへは、マムジュからかなりの悪路を1日がかりで行かなければならない。カルンパンは、このイカット以外にも、実は考古学では有名な場所で、スラウェシでの人類のくらしの原初形態を知るための貴重な遺跡があるといわれているが、保存状態はよくない。

カルンパンへ行って、カルンパン織の材料を山や森に取りに行くところから、材料を作って、織っていく工程のすべてを追ってみたい衝動に駆られる。

自然の恵みから、2~3ヵ月かけて100年以上もつモノを作る・・・。それとは対照的に、欲望をかきたて、不要な需要を喚起させながら経済成長を焦る現代の薄っぺらさ。カルンパン織に込められた、時間というものの意味がずしっと重く感じられる。

2009年6月14日日曜日

ジャカルタ、土曜の午後

久々のジャカルタでの土曜日。午前中は仕事だったが、昼食後はマカッサル行きの夜便まで時間がある。そこで、今回は、国立博物館で開催中の『スマトラの宝』展(Treasures of Sumatra)をみて、その後、お気に入りのMie Ayam(鶏そば)を食べることにした。

『スマトラの宝』展は、国立博物館が所蔵しているスマトラ関係の展示物を中心に、その他からの展示物を組み合わせ、スマトラの歴史文化をひと通り追えるように構成されていた。内容的に目を見張るものはとくになかったが、概要としてはまあこんなものなのかもしれない。1点だけ感想を言うとすれば、スマトラの歴史や文化に対する外からの影響を強調する一方で、スマトラ自身が本来的に持っていた土着の歴史文化に対する視点がやや弱いとの印象を持った。まあ、これは仕方がない面もあるだろう。2時間かけて、ゆっくりと見学した。受付であらかじめ頼んでおくと、展示品を解説したパンフレットを帰りに購入できる(10万ルピア)。開催期間は6月8日~9月8日である。


博物館の後は、トランス・ジャカルタに乗って、コタへ。グロドックにあるMie Ayam Pinangsiaは、もう20年近く通い詰めているお気に入りの麺屋の一つ。夕方5時に閉まるので、ちょっと気を揉んだが、4時半に到着して、Mie Ayam Pinangsia(特製鶏そば)にワンタンとバソ(牛肉団子)を合わせた、いつも注文するメニューを食べた。「特製」というのは、味をしみ込ませた鶏肉とマッシュルームが具として麺の上に乗っているからである。


ジャカルタの汁そばの麺は、一般に細いが、マカッサルのは太麵である。それぞれに味わいがあるのだが、ここのは、ワンタンもバソも手を抜くことなく上手に作ってある。ほかにお勧めなのは、ナシ・チャンプル(ジャカルタで一般的な「ナシ・ラメス」とはこの店では言わない)。これには、チャーシューや豚肉のサテが加わり、スープには牛肉団子が入る。

ジャカルタでのある土曜の午後のひとときである。

2009年6月13日土曜日

BBBからお試し投稿

ジャカルタに1泊2日で来ている。試しに、愛用のBBBからブログに投稿してみる。果たしてうまくいくのだろうか。

それにしても、今週は移動続きで、きつかった。しかも、昼食がとれなかった日が何日かあったし。昨日は、夜7時半まで会議で、その後、ダッシュでTIMへ向かい、パパ・タラフマラの公演を観賞したので、夕飯は深夜、カキリマでナシ・ゴレンとなってしまった。

パパ・タラフマラは、とにかくこれでもかと言う感じで動き回り、楽しかった。昔よりずいぶんと内容が分かりやすくなった印象をもったが、それは単に歳をとったということなのかもしれない。


2009年6月6日土曜日

サゴやし食品のプロ、我が家に登場!

インドネシアのヘルシー食材「サゴやし」については、これまで何度か私のブログで取り上げてきた。一応、おさらいをすると・・・。

ジャヤプラの味「パペダ」
パペダとクラディ
クンダリの地元料理を食べる
マサンバのバゲアは一味違う

そして今日、サゴやし研究を続けている旧知のO教授らと一緒に、日本のサゴやし食品のプロ「こうちゃん」が我が家に登場! 来るなり、台所に直行し、彼のリクエストを受けて「カプルン」を調理中の我が家のお手伝い・ティニさんの仕事を観察し始めた。

そして、熱せられたサゴやし澱粉を箸を使ってクルクル回して団子にする工程に挑戦。


じっと様子をみていたティニさんの息子も参戦。


できあがったカプルンは、ちょっと大人数だったので、今日は青い大きなボウルに入れられて、食卓へ。こうちゃんは、青い大きなボウルに入れられて出てきたので、ちょっとびっくりの様子。


そして、皆さんと一緒に、カプルンを味わった。「うまい、うまい」と連呼しながら、皆さん、山盛り2杯を召し上がった。


一行は、明日から数日間、O教授が長年関わってきたサゴやしを生産しているルウ地方の村を訪問する。

サゴやしは、ノンコレステロールのヘルシー食材だが、実はアレルギー源のない、唯一といっていい食材でもあるそうで、すでに、日本でも病院食や機内食などで重用されている。こうちゃんの会社は、アレルギーのある子どもたちが安心して食べられる食品を作っている。今回は、スラウェシのサゴやしの様子を実際に視察して、今後、サゴやしの活用をもっと大きく展開できるかどうかを探るためにやってきたようである。

参考までに、こうちゃんの会社のホームページとブログをお知らせしておく。

辻安全食品
ブログ「こうちゃんねる」

スラウェシのサゴやしが日本のアレルギーに悩む人々を助けられるかもしれない、なんて考えただけでもうれしくなる。

そしてサゴやしは、それ自身に浄化作用があり、肥料なしでも成育するのである。サゴやしの生態については、まだ科学的な調査が十分には進んでいないと聞く。

数万年前から現在まで、生産・加工技術がほとんど変わっていない不思議な植物がこのサゴやしである。しかし、現場では、「サゴやしを食べるのは時代遅れで格好悪い」という風潮が根強く、米中心の食生活への転換が急速に進んでいる。

1本の幹に大量の澱粉を貯蔵したまま大地に立っているサゴやしは、自然の食糧貯蔵庫といってもよい。生い茂るサゴやしの葉の密集度は、熱帯雨林にも引けを取らず、二酸化炭素吸収量も同じぐらい高いとも言われる。

地球上で将来の食糧危機の懸念が話題になりつつあるなか、サゴやしの存在にはもっと注目してもいいのではないか。サゴやしがアレルギーに悩む人々を助け、サゴやしの森が周辺を浄化し、そしてサゴやし澱粉を食糧として供給する。

サゴやしが地球を救う・・・なんていったら、ちょっと大げさかもしれないが・・・。


2009年6月4日木曜日

超短期の一時帰国

5月29日にインドネシアを離れ、30日朝に成田に着き、6月1日深夜にマカッサルへ戻ってきた。機中泊1泊、日本に2泊の超短期の一時帰国となった。

本来の帰国目的があったのだが、祖母が亡くなったため、急遽、実家へ行かなければならなくなった。母の実家で、家族3人で、祖母の霊前に線香を手向けた。祖母との思い出が頭の中にどんどん湧き上がってくるが、そのほとんどが、小学1~2年生の頃の思い出だった。

その頃は病気があり、病院通いをすると、県庁所在地にある祖母の家にしばらく厄介になっていた。私の両親はそこから車で1時間以上離れた隣町に住んでいた。早寝早起きの祖母、午前5時にラジオから流れる「早起き鳥」という番組で目が覚めた。噛みしめるように話してくれた祖母の一言一言の詳細は忘れてしまったが、その言葉は知らぬ間に自分の血となり肉となっているのではないか、と言う感じがする。

祖母は97歳で永眠した。良き人生であったと孫の私は信じている。祖母の孫であることを誇りに思う。

実家の両親も、一時帰国した私のことをとても歓待してくれた。運動神経抜群だった体の自由が少しずつ利かなくなって、何となく記憶力が落ちてきていることを気にし始めた父が、私の健康のことを何度も何度も念じている。「父の代わりの記憶装置」を自称する母が、弱気になりがちな父を温かく支えている。そんな両親に元気を与えられるのならば、超短期の一時帰国だってちっとも厭わない、と強く思った。

もちろん、言うまでもなく、妻と娘にも・・・。当たりまえ、なのだろうが。