2008年8月30日土曜日

コミュニティ新生

先週のカンボジアへの出張で出席したワークショップでは、一村一品運動と地域コミュニティ開発をどのようにリンクさせていくのか、ということが大きなテーマの一つであった。そして、それがカンボジアでも、言うは易く行うは難しである、という当たり前のことを改めて感じた。

言うまでもなく、カンボジアでは、1975-1979年の悲劇の影響が今の社会にも低奏通音のように響いている。あの記憶を曲がりなりにも覆い隠しながら、懸命に前へ向かって進んで行こうとしている様子が、あちこちからうかがえた。

プノンペンを発つ前に、Tuol Sleng博物館を訪れた。ここはもともと高校だったのだが、ポルポト時代に刑務所に変えられ、かつては生徒たちの笑い声が聞こえたであろう旧教室で、おぞましい数の人々が処刑された。旧教室の一つ一つには、古ぼけたベッドと手足を縛った鎖、そして壁には、そこで遺体が発見された時の様子を描いた絵が掲げられている。その絵が部屋毎に違うということは、まさにその部屋で起こった様子が描かれている、と想像できる。別の棟には、処刑された人々の顔写真がひたすら貼られていた。乳児から老人に至る無数のそれらの顔すべてに、私は直視されていた。


きっと、自分が生き残るために、誰かを「敵」として密告した、あるいはせざるを得なかった者も少なくなかったことだろう。生き残った者も深い深い傷を心に持ちながら、厳しいが平穏になった世の中を懸命に生きているのだろう。

そのような人々に、コミュニティ開発を進める前提として、よそ者が過去の振り返りを安易に促すことは、とても辛いことだ。ここ南スラウェシもそうである。1950年代後半の地方反乱で、隣近所で殺しあったこと、何もかも失って見知らぬ土地へ必死で逃げた人々、村や伝統文化・慣習の消失、といった記憶はいまだに生々しい。また、よそ者である私が言うのは当事者の方々に対して大変におこがましいのだが、地元学の端緒が水俣で始まったとき、そしてその後のプロセスでの苦しさやつらさは、想像を超えてあまりある。

時間がかかるし、その記憶が完全に消えることはおそらくない。いや、本当は、忘れてはいけない記憶というべきなのかもしれない。そうした過去を少しでも見られるようになる日をじっくり待たざるを得まい。

今回のカンボジアの経験で、一つ学んだ大きなことは、伝統や地域アイデンティティは、過去を踏まえつつも、新たに作り出していけるものだ、ということである。前にパプアで、「歴史や文化がよそ者に略奪されて自分たちは何も持っていない」という友人たちに、「今から歴史を作っていこう」と呼びかけたのを思い出した。

自分たちが気の付いていない地域資源やいつもは捨てているものの中から、あらたなモノやコトが生まれてくる可能性。いつか過去を直視できるようになるまで、そうした視点も重要になってくるだろう。コミュニティ再生は、コミュニティ新生であってもよいのだ。

2008年8月28日木曜日

AirAsia直行便でマカッサルへ

1週間のカンボジア出張を終え、クアラルンプールに寄ってから、24日にAir Asiaの直行便でマカッサルへ戻った。クアラルンプールからマカッサルまでは3時間、途中、気流の関係でかなり揺れたが、とくにトラブルもなく、スムーズに着陸した。

今回の直行便だが、定員120名に対して乗客は30人程度だった。食事はお金を払って買う仕組み。私は前もってブリアニを予約していたので、マレーシアで余った5リンギで菊花茶をつけて、ちょっと早めの夕食を食べた。

サービスはまあまあというところか。でも、客室乗務員は休む間もなく動いていた。乗客が降りていくそばから、客室乗務員が機内清掃を始めていた。マカッサルに到着して、ブリッジを降りて、到着ロビーへ向かうとき、ふと出発ロビーを見ると、もう乗客が折り返しクアラルンプール行きに乗り始めている。この間、たった15分程度だった。

さて、マカッサル空港のイミグレだが、これがあっさりと終わった。机が二つ置かれていて、「外国パスポート」と「インドネシア・パスポート+再入国許可保持者」に分かれており、私は後者に並んだが、親切そうな他の乗客が「違うよ」と言ってくれた。私は再入国許可を持ってるんだよー。

たまたま、知り合いのイミグレ職員がいて、話しかけてくる。去年は滞在許可(KITAS)の件で、イミグレにはさんざんお世話になったが、その賜物か。

Air Asia就航当初、マスコミでボロくそにけなされていた税関も、何もなく通過した。乗客がたった30人程度だったこともあり、実にスムーズな入国手続だった。

こうして、実に気持ちよくマカッサルへ戻ってきたのであった。

2008年8月24日日曜日

カンボジア・バティック布の謎

カンボジアのプノンペン南部の絹織物の村を訪問した。織っている機械のところにインドネシアでよく見るようなバティック布がかけられていた。


この絹織物を作るのにかかわっている女性たちは、バティックのサロンを巻いていた。


道すがらに見た村の女性たちのほとんどが、バティック柄のサロンを巻いていた。下の写真のような感じである。


インドネシアからバティック布が東南アジア各地に流れていることは当然想像できるが、予想以上に、カンボジアの女性に浸透しているように見えた。

では、市場ではどんなバティック布が売られているのだろうか。プノンペン市内のトゥトゥンプン市場、旧名のロシアン・マーケットへ行ってみた。ここは昔、ロシア人が好んで買い物をしたことからその名があるという。

市場に着くと、明らかにタイ製やベトナム製のお土産ものがたくさん売られている。布関係で一番目立つのは、やはりカンボジア・シルクであった。シルクは、うず高く積まれて売られていた。


我々の目につくところには、バティック布は見当たらない。そこで、売り子のおばさんにバティック布があるか聞くと、少し奥のほうから取り出して見せてくれた。すべて、1枚3ドル、であった。


最初は、安価なインドネシアのプリント・バティックのように見えた。そして、札からメーカー名などを探そうとして、面白いことに気づいた。

まず、BATIKと書かれた右上に登録証のRが着いている。BATIKという名前があたかも商品登録されているような趣なのである。


上の写真。最初はATBM(Alat Tenun Bukan Mesin)、すなわち動力を使わない機織りで織られた761ルピアの布だと思った。761ルピアだからすごく昔のバティックがインドネシアからカンボジアまで流れついたのか、と思ったのだ。しかし、よく見ると、これはATBMではなく、ADRMと書かれている。インドネシアっぽく見せているが、Batik ADRMという商品名になっているところがおかしい。


Rosalettaという、いかにもインドネシア人ではなさそうな女性の古そうな写真を使ったものもあった。


この上の写真については、Dwi Songkranとあるが、どうもインドネシア・フレーバーのタイ製プリントのようである。普通のバティックとは明らかに異なる。

どうやら、インドネシアのプリント・バティックに似せて、タイなどで作ったバティックもどきがカンボジアの女性のサロンとなっているような気配がある。

タケオへ向かう道すがらにて

カンボジア滞在中に、プノンペンから南へタケオ方面へ行き、いくつかの村を訪問した。絹織物の村、野菜作りの村、竹などの工芸品づくりの村、などである。その道すがらで見かけた光景を、脈絡なく並べてみる。ただし、車の中から撮った写真が多いので、多少ボケている。ご容赦のほどを。


南へ向かう国道2号線は、周りよりも一段高いところ、すなわち尾根道のような形で通っている。このため、周りから国道2号線へ出るには、坂を登る構造になっている。プノンペン周辺は沼地が多く、雨季には頻繁に洪水が起こるため、最初から幹線道路を高い所に建設したようである。


雨季とはいえ、タケオへ向かう道から見える光景は、プノンペン周辺と比べると、だいぶ降水量が少ない印象を受ける。南スラウェシ州の乾燥地であるジェネポント県西北部などで見られるロンタラ椰子のような椰子が見える。


プノンペンから国道2号線を1時間程度走ったところまでの間には、沿道にたくさんの縫製工場があった。対米輸出クォータの問題をクリアすることなどが目的なのだろうか、中国や台湾などの企業がみられる。そして、さらに先には、上写真のような工業団地建設予定地がいくつかできていた。


こちらは絹織物の村の住居。今回見た村の住居のほとんどは、高床式だった。ただし、柱の立て方が南スラウェシのものとは若干異なる。新しい住居では、高床を支える支柱はコンクリートになっていた。地面に支柱を直接立てる場合も、少し長めのコンクリートを立ててそこに支柱を乗せる場合も、いろいろ見られた。でも面白かったのは、上の写真のように、屋根に瓦を使っている家があったことである。南スラウェシでは、高床式で瓦屋根の家は見たことがないからだ。


華やかな色で飾られた家を沿道で見た。「おー、結婚式か」というと、さにあらず。実はお葬式、とのこと。ほかに、黒い布が張られたところもあったが、この華やかな色でお葬式をする意味については、よくわからない。

2008年8月20日水曜日

リバーサイドで夕食

プノンペンは、川とともにある町である。ワット・プノムのすぐ近くを、トンレサップ湖から流れてくるサップ川が流れ、そのすぐ向こうをメコン川が流れる。18日の夜は、ちょうどサップ川とメコン川が合流する地点の川岸に建てられたホテル・カンボジアナで夕食会があった。


上写真は、ホテル・カンボジアナから撮ったもの。ちょうど、サップ川とメコン川の合流点付近である。川岸にホテルのしゃれた東屋が張り出している。運よく、雨も降らずに済んだ。

19日は、別のリバーサイドにあるレストランで夕食。川とは道を隔てているが、2階のベランダ席から川を眺められる。夕暮れになると、多くの観光客がこの通りのいくつかのレストランのベランダ席を陣取り、ビール片手に、リバーサイドの風景を楽しんでいる。なかなかしゃれた造りの建物が並んでいる。


19日の夕食を食べたレストラン、味はなかなかのものだった。アンコール・ビールを飲みながら、カニ肉チャーハン、魚の甘酢あんかけ、柔らか牛肉ソーセージ、特製スープ、を味わった。


あなどれないカンボジア料理。到着してから食べている料理は、ホテルのものも含めて、味のレベルがかなり高い。これまでずっと、食べる量を自主的に制限してきたのだが、すでに、一昨日から、それを解除してすることにした。うーむ、絶対に太るなあ。でも、「食べ物との出会いは一期一会」のモットーをしばし実践に戻すことにする。マカッサルに戻ってから、じっくりとまた食事量の制限をしよう、っと。

このレストランでも、支払いは米ドルだった。移動に使ったバイクタクシーのトゥクトゥク(下写真)への支払もしかり。昨日、ようやくリエル紙幣を手に入れる機会があった。3000リエル手元にある。でも、1米ドルが4100リエルでは、なかなか使い道がなさそうだ。

朝のワット・プノム

18日朝、ホテルのすぐ近くにあるワット・プノム(山の寺、の意)を散歩した。ワット・プノムは旧市街のベンチマークともいうべき中心部にあるお寺で、一周したら15分かかった。


朝の「境内」には、たくさんの家族連れがいた。身なりや振る舞いから察して、境内の掃除をする清掃夫・婦の家族か、ホームレスの家族のようにみえる。母親が子供に食事を与えている。


17日に空港からプノンペン市内へ入る間、マカッサルよりもはるかにきれいな町、との印象を持ったが、朝のワット・プノムは、たくさんのゴミだらけ。多くの清掃夫・婦が掃除をしていた。


身なりのあまりよくない家族たちが、束の間の団欒を楽しむかのように、指をさして笑っている。指の方向をみると、猿がいた。それもたくさんの猿。人間を避けるでもなく、わがもの顔で動き回っている。てっぺんにあるワット・プノムへ向かう階段でも、猿が楽しそうに走り回っていた。


ワット・プノムの前の小さな広場は、朝からたくさんの人々でごった返していた。屋台も出ている。私の目の前で、小さな子供がいきなり立ち小便をした。


すがすがしい朝食前の散歩、のはずだった。でも、プノンペンの町が抱える別の一面を垣間見るかのような、朝の散歩になった。

2008年8月17日日曜日

カンボジアに到着

一村一品運動に関する国際ワークショップに出席するため、今週はカンボジア・プノンペンに来ている。今日は、ジャカルタからAir Asiaを使い、クアラルンプール経由でプノンペンに到着した。

アジア屈指の安売り航空会社Air Asiaは、Point-to-Point方式、すなわち一区間のみを売る方式をとっている。このため、ジャカルタからクアラルンプールに到着して、そのまま次のプノンペン行きへ乗り継ぐことができなかった。クアラルンプールに着いたら、いったんマレーシアに入国し、クアラルンプール空港で再びプノンペン行きにチェックインし、マレーシアから出国するのである。今回は乗り換えの時間が3時間以上あったので、とくに問題はなかったし、入国・出国審査は極めてスムーズであった。

Air AsiaのクアラルンプールのターミナルはKLCC。クアラルンプール国際空港(KLIA)の向かいにあるプレハブのような質素な建物がそれである。飛行機の乗降はタラップを使う。


KLCCのなかは人、人、人でごった返していた。チェックイン・カウンターへの長い行列。KLCCで人数が多くて目立つのはインドネシア人だった。



ターミナル内にはKLIAにあるようなしゃれたレストランはなく、ファーストフードの店が目立つ。このターミナルから歩いて2分のところにフードコートがあるので行ってみると、人が少なく、冷房が利いていてホッとする。でも、かつての大学の学食のような風情だった。


でも、Air Asia自体は時間が遅れることもなく、順調に運行し、快適なフライトであった。スチュワーデスがきっちり仕事をしている姿を見るのは気持ちがいいものだ。同じ安売りを謳い文句にしながらも、乗客はそっちのけでペチャクチャおしゃべりに夢中な(それでいて愛想のよくない)某L航空のスチュワーデスに見習わせたいものだ。

しばらくして、プノンペン国際空港に到着。乗降ブリッジが3つしかなく、オープンしたばかりのマカッサルの新空港よりも小さいこじんまりとした空港だった。

カンボジアに着く前に、機内で入国カード、税関申告書と一緒に、ビザ申請書が配られた。今回は、到着時ビザでビジネス・ビザをとる。ワークショップ主催者からの招聘状もあるのでそれを見せ、写真と一緒に、イミグレの窓口に提出。ほどなく、パスポートにビザを貼って終了。「あれ、申請料25米ドルは払わないの?」と聞くと、「公用旅券の場合は無料です」との答え。たしかに今回は公用旅券。インドネシアではこんなこと聞いたことがない。ともかく、これも含めて、イミグレの対応はとても気持ちのいいものだった。

入国審査を終えて、税関を過ぎて、ふと気がついた。どこでお金を換えたらいいのだろう? 両替をしてくれる銀行の窓口が見当たらないのだ。「そこのATMで換金できるよ」という税関職員の指示に従って、国際キャッシュカードを使ってATMで換金すると、出てきたのは米ドル紙幣。カンボジアの現地通貨リエルにはどこで換えればいいんだー、空港の外のATMなら大丈夫ではないか、と思って空港の外に出ると、2つの机。一つは「市内までトゥクトゥク(バイクの後ろに乗客席をつけたバイクタクシー)で8米ドル」、もう一つには「市内までセダンのタクシーで9米ドル」とある。市内まで行くのに、リエルは必要なかったのだった。

ワークショップの会場になるホテルで聞いてわかったことだが、支払いはすべて米ドルだった。ホテルにいる限り、リエルはほとんど使わない。カンボジア人でも、ドルで支払うケースがよくあるそうだ。何となく、自国通貨を米ドルにした東ティモールへ昔行ったときと印象が重なる。果たして、今回滞在する1週間のうち、リエルを使うような場所へ行く機会があるのだろうか…。

トラジャのパマラッサン

トラジャ料理では、鶏肉、豚肉、鯉(ikan mas)、ウナギ(lendong)などをパマラッサンで煮込んだ黒い色の煮込み料理がおなじみである。このパマラッサン、実は東ジャワ料理で有名な黒い肉スープのラウォン(Rawon)などに使われるクルワックと同じものである。

パマラッサン(pamarrasan)は木の実である。下の写真のように、茶色っぽい大きめの実があちこちに実る。木自体はかなり大きい。私はいつも、レモの岩石墓地を見に行った際に、岩石墓地から水田を回る散歩道に生えているパマラッサンの木を眺める。


このパマラッサン、実の中は小石のようなものが包まれている。この小石のような固いものを割ると、中は真っ黒な物体がある。これを粉状にして、煮込み料理に使う(下写真の左上)。実の中の果肉(下写真の右上)も皮(下写真の右下)も、料理に使う。とくに、果肉は、パマラッサン料理には欠かせないものとされるが、果肉も入ったパマラッサン料理には、Restoran Mamboでしか今回は出会わなかった。


下写真は、Restoran Mamboで食べたパマラッサン料理。竹筒に入っているのは、豚肉とマヤナ(mayana)という葉を入れて蒸したもの。この竹筒で蒸す料理をピオン(pion)といい、Mamboでは鶏肉、豚肉、鯉、水牛肉で調理可能であるが、時間がかかるため、少なくとも2~3時間前に予約する必要がある。



ピオンの右にあるのが、豚肉のパマラッサン。もちろん、パマラッサンの果肉が入っている。果肉の入っているほうが、個人的には断然美味しい。

そして、上写真の右下の野菜は、パキス(pakis)と呼ばれるシダの一種とパパイヤの花の炒めものである。この組み合わせは、マナドなどでもおなじみで、パパイヤの花(下写真のカボチャの脇にあるもの)の醸し出すちょっとした苦味がなんとも言えず美味である。


それにしても、トラジャではなぜ黒い色の料理が多いのだろうか。以前、南スラウェシ州ブルクンバ県のカジャンの伝統区域を訪ねたとき、「世界の最初の色は黒で、それから様々な色ができていった」という話を聞いた。カジャンの伝統区域に住む人々は、黒以外の色の服を着てはいけないし、よそ者がその区域に入るには黒装束にならなければならない。そういえば、トラジャの人々の伝統衣装も基調は黒である。そんなことが、パマラッサンにも関係しているように思えるのである。

そうそう、トラジャに行かれたら、テロン・ブランダ(telong Belanda)のジュースを是非味わってほしい。見た目がナス(telong)のようなので、オランダ・ナスという名がついたのかもしれない(下写真)。トラジャの特産品の一つである。

2008年8月12日火曜日

トラジャ・サダンの布

トラジャに出かけ、サダンで布を見た。サダンにはこれまで何度か行ったことがあるが、いい思い出があまりない。サダンの特有の布を持ちながら、とにかく買ってくれのオンパレード。外国人だからわからないだろうと、ジャワのバティックや東ヌサトゥンガラのイカット(絣)を並べて売る節操のなさ。とにかく、売れて金が入ればいいのだ、という雰囲気があり、好きになれなかったのである。今回もそれを覚悟して行った。

でも、少しゆっくりと、サダンのオリジナルの布は何かを聞いてみることにした。それが今回は結構面白かった。


左の布はパ・マタ・パ(Pa'mata pa)という布で、織り目が目(mata)のような形になるのでその名があるという。一方、右の布はパ・ランバ(Pa'ramba)という名の布で、一色以上の様々な色で織った布である。パ・ランバは、最近では、輸入綿を使い、化学染料で色鮮やかに織る傾向が強いそうである。


上の写真では、左の色の薄いのが、地場の綿で糸を紡いで作り、自然染料で染めたパ・ランバ。右が、綿糸をよそから買ってきて、化学染料で染めて織ったパ・ランバである。左のほうがごわごわっとした手触りで、厚手である。トラジャで売られているパ・ランバはほぼすべてが右のものになっている。


もう一つの織布は、パ・タラディシ(Pa'tradisi)と呼ばれる伝統織である(上写真)。これは両面織になっており、通常のパ・ランバなどが5つの道具を使って織るのに対して、このパ・タラディシは12個の道具を使って織るそうである。もちろん、手間ひまがかかる分、値段もぐっと上がる。



上写真は、織物ではなく、手書きで書いたものである。書かれているのは「人生の木」(Pohon Kehidupan)、トラジャの人々の生命観を表したものである。木は富める者を表し、木にくっついている鳥は貧しき者で、富める者に寄生する。水牛はこの世と天国とを媒介する。

最近はこの「人生の木」の描かれた布をトラジャで多く目にするようになったが、このサダンで見たものは、一味違う。なぜなら、この布は、今や途絶えてしまったパイナップル繊維で織られているからだ。ここでのパイナップルは、食用のものとは違う繊維用のポンダン・ダトゥ(pondan datu)と呼ばれる種類のものである(下写真)。


この「人生の木」の描かれた布は、昔、この店の女性の祖母が織ったといわれているもので、100年近く前のものという。サダンの集落ではただ一つ残されたもので、同様のものがジャカルタの国立博物館に展示されているという話だ。

「人生の木」を紹介した女性は、買いたい人がいたらそれを売って、子供の学費を捻出したい、という。背に腹は代えられない、厳しい状況なのだろう。しかし、どうか売らないでほしい、ここにミニ博物館のようなものを作ってそれを展示し、観に来た人からお金を取るようにしたほうがいい、と懇願してみた。もちろん、次回、サダンを訪れたときに、その「人生の木」がまだ残っている保証はない。でも、もしかしたら、という気持ちを持ち続けてみたいのである。

2008年8月5日火曜日

2つの結婚式

8月3日と4日の2日連続で、異なる結婚式に出席した。

3日は、我が家に集うイニンナワ・コミュニティのメンバー同士の結婚式。形式的なことが嫌いな2人ではあったが、親や親族との折り合いをつけるため、第45大学のモスクで結婚式を挙げた。実際、新郎は民族衣装ではなく、礼服にネクタイ。新婦も民族衣装ではなく、モダンな白いドレスであった。

新婦とその家族がモスクで花婿が来るのを待つ。花婿は、たくさんの貢物をもって、花嫁を迎えにくる、という形である。


モスクでは、結婚式が執り行われるが、ちょっとしたハプニングが・・・。コーランの詠唱をしてくれる人を用意していなかったのである。「誰かいないか」と探して、ようやく、ジーンズをはいた彼らの仲間の一人が即席でコーランの詠唱をし、式は始まった。証人が見守るなか、宗教省事務所の官吏との間で新郎が誓いの言葉を述べていく。


一通り儀式が終わると、新郎ははじめて新婦のもとへ行き、新婦とともに新婦の両親にも誓いの言葉を述べながら挨拶をする。


この後は、第45大学の講堂を借りて、披露宴。イニンナワ・コミュニティの仲間たちがポップスなどの音楽を奏でるなか、ゆったりとした雰囲気で宴はすすんだ。二人の愛の証がじっくりと交わされる、そんなすがすがしい結婚式であった。

続いて、4日は、私の運転手の妻のいとこの結婚式。新郎も新婦もお互いに親せき同士の間柄であった。運転手の家に連れていかれて、新郎が新婦のもとへ向かう準備を待つ。なかなか出発する気配がなかったが、しばらくして、TVRIのカメラマンとともに、衣装が届き、新郎を含む男子が着替え始める。カメラマンの指揮で隊列が組まれ、写真が撮られた後、車で新婦のもとへ向かう。時間が遅れたのは、結局、カメラマンが来るのを待っていたため、とわかった。

結局、私の車に新郎が乗ることになり、たまたま新婦の父親が警察官ということもあって、2台の白バイに先導されながら、楽隊を乗せたトラック(下写真)を従えて、新婦の家へ向かう。


着いた新婦の家は、細い路地を入った奥にあった。カメラマンの指揮の下、路地の前から、貢物をもった新郎の一行が歩き始める。


路地の奥は、人であふれて、熱気がムンムンとしていた。


新婦の家は人、人、人でいっぱいで、狭い階段を2階へ上がって、結婚式を見物することにした。基本的には、3日と同じく、証人の立会いのもと、新郎が誓いの言葉を述べ、誓約書にサインした後、新婦の待つ寝室へ向かう。



こちらは、新郎も新婦も民族衣装。結婚式の行われた2階は、人でいっぱいで、床が落ちるのではないかと心配になるぐらいだった。そして、とにかく暑い。運転手が気を利かせて、扇風機をずっと当ててくれていた。

3日も4日も、新郎や新婦が親にあいさつをするときに、双方が目に涙を浮かべていた。最も感動する瞬間なのだろう。趣の異なる2つの結婚式だったが、いずれも、感動を忘れず、幸せな家庭を築いていってほしいと思った。

2008年8月4日月曜日

マカッサル新空港仮オープン

8月4日、ようやくマカッサル新国際空港が仮オープンした。名前も、これまでのハサヌディン国際空港からスルタン・ハサヌディン国際空港へ変わった。ただし、空港コードはウジュンパンダン時代のUPGのまま。現在、MKSへの変更を申請中とのこと。

私自身は、8月15日にこの新空港を使う予定。正式オープンはその15日とのこと。

2008年8月1日金曜日

NHKワールド『トビウオ街道を往く』

海外在住の皆様へお知らせ。知り合いの海工房の皆さんが作成した世界のトビウオ漁に関するドキュメンタリー『トビウオ海道を往く―赤道直下から日本5000キロ』が8月3日(日)日本時間16時10分からNHKワールド・プレミアムで放映される。

このドキュメンタリーには、南スラウェシや中スラウェシのトビウオ漁の様子も描かれている。スラウェシのトビウオ漁は、もともと地元漁民が魚をとっていたのを、日本人が「カズノコの代用になる」と目をつけて、捨てていたトビウオの卵を有効利用しようとしたのが始まりといわれる。日本人がトビウオの卵を買うようになって、トビウオ漁を行っていた漁村はこの数十年の間に大きく変貌した。しかし、今では、トビウオの卵の輸入先は日本だけでなく、むしろ韓国やロシア向けが活況を呈しているといわれる。

これは、日本では海の日(7月21日)にNHK-HiVisionで放映されたものと内容は同じである。興味のある方はぜひご覧いただきたい。