2009年1月31日土曜日

とり天とKさん

あの日、私は大分駅の近くの小さな飲み屋でKさんと語り合っていた。Kさんは、「大分に来たならとり天ですよ」と、とり天のおいしいその店に連れてきてくれたのであった。Kさんと会って語り合ったのは、ほんの1、2回だった。だから、Kさんといえば、とり天を思い出してしまうのである。

由布院のこと、彼がこよなく愛する昭和という時代の風景、ちょっとせつないキュッとするような素敵な思い出。Kさんの話を聞いていると、なぜか心の中がホッと温かくなってくるのだった。人間を見るまなざしとでもいうのだろうか、それがとても温かいのである。

Kさんは定期的に短いエッセイを様々な人々に送ってくださった。それ以外にも、ご自分のブログにいろんなエッセイを書いておられた。その一つ一つがなぜか私の気持ちを温かく幸せにしてくれたのである。人間っていいな、と正直に思えるような、そんな彼の文章を味わうひとときがとても好きだった。

一昨日、由布院在住の友人から、そのKさんが逝去されたとの連絡を受けた。ここ1~2年、闘病生活をおくっておられたのは知っていた。あのホッと温かくなるようなエッセイを目にしなくなってからずいぶん長い年月が経っていた。

世渡りがうまいタイプでも、要領のいい感じでもなかった。本を1冊出版されたけれども、出世や名声ともほとんど縁がなかったことだろう。でも、ご自分に正直に誠実に生きられたのだと思う。

Kさんはその温厚な人柄だけでなく、書いたエッセイを通じて、少なくとも私には、温かく幸せな気分をいつも届けてくださった。そのことを改めて思い、彼の残したブログのエッセイを読み返しながら、心よりご冥福をお祈りしたい。

2009年1月30日金曜日

誕生日を祝う

1月26日、インドネシアは中国正月で祝日。25日の夜から、マカッサルの町中からは賑やかな花火の音があちこちで聞こえた。中国正月をみんなで祝う穏やかな雰囲気を味わいながら、わずか10年ぐらい前まで、華人を特別視し、差別していたのが、ずっとはるか遠い昔のことのように思われた。

そしてこの日は、私の誕生日。祝日でもあったので、友人たちを招いて、ささやかな会食会+ケーキを食べる会をした。たまたま、マカッサルに出張で来られていた方が同じく誕生日だったので、一緒にお祝いさせていただいた。




私のリクエストでカプルン(サゴやしデンプン団子の入った酸っぱいスープ)を作ってくれたお手伝いが、「ろうそくがないようですね」といって、ケーキに1本立ててくれた。

様々な人々に支えられて迎えた今年の誕生日。「28歳」の誕生日である。


2009年1月25日日曜日

友人R君からの電話

1月24日夜、マカッサルの日本人会新年会の宴も酣(たけなわ)の最中に、インドネシア人の友人R君から電話が入った。彼はマカッサル出身で、日本に研修に行った後、今はジャワ島の日系自動車部品工場で働いている。結婚もし、賑やかな子どもの声が電話口から聞こえていたのだが・・・。

何となく予感はあった。そして、電話の内容ははたしてその予感通りであった。上司から早期退職をするよう促されているという。彼によると、けっこうな退職金をもらえるので迷っているという。工場で何人ぐらい解雇されるのか聞くと、1000人中約200人が切られるそうだ。「マカッサルに帰って何か仕事を探そうかな」という彼に、(本人も知っているように)マカッサルで新たに仕事を探すのはやはり難しいので、できる限りねばって今の仕事を続けたほうがいいのではないか、と話した。

日本の自動車メーカーは、全世界規模での生産調整を余儀なくされている。かつては2億人という巨大な国内市場を標的に自動車を生産してきたインドネシア立地の日系自動車メーカーも、10年以上前からアジア市場や世界市場を念頭に、国際生産戦略の中にインドネシアの工場をも位置づけた。たとえば、キジャンといえばトヨタが生産したインドネシア仕様の多目的商用車で、インドネシア以外では生産・販売されていなかったが、最新のキジャン・イノーバは、タイでもベトナムでもたくさん走っている。12月にバンコクとホーチミンに出かけたとき、街中を走るキジャン・イノーバをみながら、ふと「自分は本当に他国へ来たのだろうか」という気持ちが湧いてきた。自動車メーカーの国際戦略は、あたかも個性豊かに見えた東南アジア各国の街の風景を一様な単色に染め始めているような感じさえした。

その自動車メーカーが生産調整を本格化させれば、その下請の役割を果たす多くの自動車部品メーカーも追随せざるを得ない。大きく報道されている日本の派遣労働者だけでなく、世界中でR君のような状況に置かれた人々がどっと増えてしまうのだろう。

思い起こせば、かつて日本は、1970年代以降の日系企業のアジア進出を受けて、アジア各国での下請産業の育成を目指した。結局、円高そして企業の国際化の後、日本で下請の役割を果たしてきた多くの日系企業が、親企業の後を追うようにインドネシアを含むアジア各国に進出した。アジア各国から日本への研修も盛んに行われ、日系自動車メーカーはその生産拠点を日本から海外へ展開させ、効率性を追求する国際生産・販売戦略に沿って、生き残りを図ってきた。その下請日系企業で働くアジア各国の労働者もまた、解雇の危機に直面している、という(考えてみれば当たり前の)ことを、彼の電話から実感した。

かつて、我が家から国際電話でラジオ・ジャパン(インドネシア語放送)の新年特番に参加し、電話口で「東京ラブストーリー」を熱唱したR君は、日本が好きで好きで、大学を中退して日本への研修に旅立った過去がある。今は嵐に入りつつあるが、いずれまたいい日が来る。そう信じたいし、彼にもそう信じてもらいたいが、待ったなしの厳しい状況に直面していることもまた事実なのである。

前にブログで、アジアはまだ明るさがある、と印象で書いた。しかし、日本経済や国際経済の暗い影が明るさを感じるインドネシアにも入り込んでいる。農業生産が好調な現在、まだ10年前の通貨危機の時ほど暗くはならないだろうという楽観論を持ち続けたいが、対外的な面で暗さを払しょくするのは難しくなってくるのかもしれない。やはり、インドネシア国内由来の経済活動が明るさを持ち続け、自分たちの身の回りを自分たちで耕すことで、この難しい時期を切り抜けていくしかないのであろう。

R君がどうなるかはわからない。「あなたのところで雇ってもらえるとありがたいのだが」とも言われたが、やんわりと断った。彼のことはとても気がかりだが、もう少し、自力で頑張ってほしいと思っている。

2009年1月16日金曜日

再びマカッサルへ戻る

1月13日、休暇でトロトロにとろけた頭のまま、成田を出発。せっかくSQの最新鋭機A380に乗ったのだが、エコノミーの席は普通のエコノミーと変わり映えしなかった。それでも、さすがに機内エンターテイメントの充実ぶりはさすがである。音楽も映画も堪能できた。

それはそうと、SQはやはりきちんとしている。いや、しすぎているかもしれない。まず、成田のSQのチェックインカウンターで「航空券の姓名がパスポート表記と逆になっている」と指摘され、「でも今回は乗せてあげる」という感じの対応をされた。「一応、パスポートをコピーします」とも。36kgのスーツケースはしっかり11kg分の超過料金を支払わされた。

これで終わりではなかった。搭乗しようとすると、搭乗券を挿入した機械からピンポンピンポンと鳴る音。係員に「スーツケースの中にパソコン用のリチウム電池が見つかったので確認してほしい」と言われ待機。すでに搭載寸前だったスーツケースが私のところに戻されてきた。スーツケースからリチウム電池を取り出し、機内持ち込みにするように言われる。係員がリチウム電池もセキュリティ・チェックの必要があるとして、チェックした後持ち帰ってきて「異常ありませんでした」との報告。スーツケースを係員に引き渡して、ようやく搭乗することができた。

A380は快適だったが、向かい風の影響で、シンガポールには定刻より20分遅れの18:15に到着。乗り継ぎのジャカルタ行きの出発時刻は18:45で、ターミナル3からターミナル2へ移動しなければならない。私と同様にジャカルタ便に乗り継ぐ人が結構いた。そして、走る、走る。SQでは出発10分前にゲートが閉じるのだが、さすがに今回はまだ開けられていた。ギリギリ18:45に搭乗。定刻より10分程度遅れてジャカルタ行きは出発した。

このジャカルタ行きも結局遅れて19:30過ぎに到着。イミグレを通過して、マカッサル行きのガルーダ便のカウンターに着いたのは20:15頃。ここでもスーツケースの超過料金を支払わされたが、6Kg分で済んだ。

この成田からマカッサルまでの移動だが、なぜかマカッサル行きのガルーダ便に乗ったらほっとした。空気が違うのである。「戻ってきた」という気持ちがわき出てくるような気分。到着したマカッサルは、幸運にも雨の中休み状態で、我が家の前庭も水がひいた後だった。

休暇ですっかりとろけきった頭を徐々に切り替えつつ、再びマカッサルの日々が始まった。


2009年1月12日月曜日

休暇終了前に棚田を見学


京都から東京への帰りに、本ブログを読んでくださっている知人と会うため、岐阜県を訪問した。山里の人々の社会と生活に造詣の深い知人に、日本の棚田100選にも選ばれている坂折棚田などへ案内していただいた。

この日はとても寒く、棚田を歩いているだけで寒風が堪えた。スラウェシのトラジャや西シンジャイの棚田に比べると、とても小規模の棚田だが、その一つ一つが石積みで作られている。石積みしたところがところどころ膨らんでいるのを「孕んでいる」といい、いったん石垣をはずして石を積みなおすのだそうである。知人は、この棚田の石積みの技術を受け継いでいく活動をしているが、それが地元の方々に誇りとやる気を与えている様子である。坂折棚田米は大人気で、棚田保存会が組織されている。

実際には様々な試行錯誤があるだろうが、知人のような外部者(といってもすでに15年も在住)の働きかけがそこに住む人々に励ましと勇気を与える、そんな活動にも見えた。ほかにも、山里に生きるお年寄りたちから山里を活かす生活の知恵を学ぶ聞き書きの活動も進めている。

この知人、スラウェシやトラジャの大ファンでもある。トラジャの地域振興に思いをはせながら、これから何か面白いことができそうな、そんな予感を勝手に抱きながら、東京へ戻った。


2009年1月9日金曜日

2日間、東京を離れる

1月9日と10日は、東京を離れている。今は京都に泊まっている。大切な友人たちとさっきまで夕食を共にしていた。小さい店だったが、おいしい「おばんざい」を味わうことができた。でも、きっと、一人だけではもう一度あの店にはたどり着けないことだろう。

インターネットや携帯電話が普及した分、直接人と会って話をするのがおっくうになりがちかもしれない。でも、こうした機会を大切にしながら、人との信頼関係が醸成されていくのだろう。

とは言いつつ、他のたくさんの京都方面の友人の方々とは今回お会いすることができなかった。また別の機会に彼ら一人一人とゆっくりお会いできればと願っている。

今回、帰国直前に、このブログを読んでくださった方から「あのサゴやしクッキーがどうしても食べたくなった」というメールをもらったので、年末に東京でお会いして、スラウェシやマカッサルの話題で盛り上がり、サゴやしクッキーをお渡しできた。

私が知らないだけなのだろうか。スラウェシが好きな方々は実はけっこういるような気がしている。明日も、もう一人、私のブログを愛読してくださっているスラウェシ好きの方と初めてお会いする予定で、楽しみにしている。

頭がとろけそうな休暇を過してはいるが、イスラエルによるガザへの攻撃のニュースは、そんな頭を冷やしてしまう。被害者意識は加害者としての感覚を失わせ、自己の破壊行為を正当化させる。

中立を是とする国際赤十字が「国際人道法違反」と異例の批判をし、国際世論が一刻も早い停戦を呼び掛けているにもかかわらず、国連安保理の停戦決議を無視してイスラエルは攻撃を続けている。これがイスラエルでなければ、きっと「テロ国家」としてブッシュのアメリカ軍による攻撃対象になるはず・・・。

インドネシアでは、イスラエルに対する抗議行動が広がりを見せ始めている。それを政治的に利用する勢力もある。2009年が世界を真っ暗にするような年とならないことを祈るしかない。


2009年1月1日木曜日

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします

家族とともに東京で2009年を迎えました。今回の一時帰国前に訪れた活気あふれるベトナムと意気消沈したかのような日本の違いを実感しています。

今年も、インドネシアから地域の未来をいろいろと考えていきたいと思っています。

新年の景気づけに、まずは、トラジャの米搗きの儀(葬儀を待つ女性たちのパフォーマンス。2008年8月撮影)。

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もうひとつ、おまけは、北スラウェシ・ミナハサのチャカレレ(戦いの踊り)。2008年11月にトモホン市を訪れたときの歓迎の舞。意気消沈した空気を多少は消してくれることを祈りつつ。

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