2012年9月22日土曜日

9月23日、ジャカルタ・ジャパンまつりオープニング

明日9月23日、ジャカルタ・ジャパンまつりのオープニングで「気仙沼からインドネシアへ愛を込めて」と題して、インドネシア・パレード復活の様子を紹介します。気仙沼の皆さんの思いをうまく伝えられるかどうか、今からドキドキです。

ジャカルタ・ジャパンまつりのオープニングは、ジャカルタ時間の9月23日(日)午後1時半〜5時、Sari Pan Pacific HotelのBallroomで開催されます。詳細はこちらをご覧ください。
 

2012年8月25日土曜日

一時帰国終了

8月11〜25日に一時帰国しておりました。

11日朝成田に到着し、東京の自宅で昼食をとった後、そのまま気仙沼へ向かいました。気仙沼では、インドネシア大使館一行を迎えた歓迎交流会に出席し、大島の旅館に1泊しました。

12日は、午前中に陸前髙田へ行きました。気仙沼へ戻る途中で虎舞を見てから、みなとまつりを見物、とくに、インドネシアや日本の様々な方々から集められた道具や衣装を使ったインドネシア・パレードを見学しました。

13日は、朝、高速バスで気仙沼を出発し、南三陸経由で仙台へ。仙台からまたバスで相馬へ行き、相馬でタクシーに乗って松川浦、原釜方面へ。相馬からJRで原町へ行き、再びタクシーで避難制限地区の小高区を見て回り、原町から高速バスで福島の実家へ、と移動しました。

14日、15日は福島の実家で、母や弟らと過ごしました。

16日は、福島から高速バスでいわきへ向かい、アクアマリンふくしまを訪問。その後、泉からJRで東京へ向かい、ようやく東京の自宅に泊まれました。

東京では、友人や知人と会ったり、会議や打合せがありましたが、妻子と束の間の家族団らんのひとときを過ごしました。運良く、「ニッポンの嘘:報道写真家福島菊次郎90歳」を観ることができました。

24日は、JACジャパンにて「ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占う」と題した講演を行いました。

今回の一時帰国では、ずっと心の中でわだかまりとなっていた被災地訪問を、わずかの時間でしたが実現することができました。「行ってよかった」と実感すると同時に、「被災地を訪問した者の使命」といったものを考えずにはいられなくなりました。

また、短期間だからこそ、家族のありがたさをひしひしと感じ、支えられているという実感を改めて感じました。

さて、これから、エア・アジアの深夜便でジャカルタへ発ちます。次回の一時帰国は11月頃、何カ所かで講演会を予定しています。

2012年7月23日月曜日

講演会のお知らせ(2012年8月2日)

久々のブログ更新となりました。

いろいろありましたが、ようやくジャカルタでコンサルタントの仕事を始めました。引き続き、よろしくお願いいたします。

早速ですが、僭越ながら、下記の通り、講演会を開催することになりました。現段階で、まだ2年先の大統領選挙がどうなりそうか、インドネシア政治がどのように展開していくか、大胆にも見通してみよう、という趣旨です。聴講をご希望の方は、下記の申し込み方法に従って、メールにてお申し込みください。

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第1回JACインドネシアウォッチ

ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占う

厳しい国際経済情勢の中で、堅実な経済発展を進める東南アジアへの関心が高まっています。とくにインドネシアは、親日的な国民性とともに、急速に高齢化が進む中国や洪水リスクに見舞われたタイなどから、生産拠点の分散の観点で大きく注目されています。このインドネシアでも、憲法の規定により、ユドヨノ現大統領は2期目で引退し、2014年の大統領選挙で新しい大統領が選出されます。

次期大統領にはどのような人物が就くのか。次期大統領のもとでインドネシア政治はどのように動くのか。汚職体質は改善されるのか。まだまだ不確定な要素が多く、判断がつきにくい部分が多いことは承知のうえで、本講演では、1998年スハルト体制崩壊後の政治の展開や過去の大統領選挙を踏まえながら、敢えて現段階で、ポスト・ユドヨノのインドネシア政治を占います。

講師: 松井和久(JACシニア・アドバイザー)

日時: 2012年8月2日(木)16:30 - 18:30(受付開始16:00)

場所: スカイビジネスセンター
     Menara Cakrawala 19th Floor(スカイラインビルディング)
     Jl. M. H. Thamrin No. 9, Jakarta

参加費: Rp. 500,000 + PPN 10%

定員: 60名


<申し込み方法>

下記をご記入のうえ、メールにてお申し込みください。
1) 会社名 2) 氏名および役職 3) メールアドレス 4) 電話番号(できれば携帯番号)

申込先: JACビジネスセンター 石川礼子(reiko@jac-bc.co.id) 上田ぬ美子(numiko@jac-bc.co.id

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今後、ほぼ毎月、ジャカルタで講演会を行う予定です。1本は日本語でインドネシアについての話を、1本はインドネシア語で日本についての話をする予定です。

また、8月からNNAインドネシア・デイリー版の毎週木曜日に短いコラムを書くことになりました。

引き続き、インドネシアの政治・経済・社会を現場からウォッチしていくと同時に、インドネシアと日本とを様々な形でつなげていきたいと思っています。


2012年6月22日金曜日

バティック・パプアについて

パプアを訪れてからだいぶ経ってしまいました。今は、シンガポールでこれを書いています。

最近、インドネシアでは、バティック(蝋纈染め)がユネスコ無形文化遺産に登録されてから、全国各地でご当地バティックが作られるようになりました。そして、公務員は毎週金曜日にバティックを着用することになりました。

もちろん、パプアでもバティック・パプアが店で売られ、公務員たちは金曜日にはバティック・パプアを着用します。バティック・パプアのモチーフは極楽鳥(チェンデラワシ)、太鼓などの楽器、が主なものです。

このバティックのすべてが、実はバンドンやジョグジャカルタなど、ジャワ島で作られ、パプアに送られてきます。しかも、そのほとんどは、布に印刷されたプリンティング・バティックです。モチーフはパプア風ですが、色違いで模様はほぼ同じ、というバティック・シャツです。手書きのものも若干ありますが、それらもまた、ジャワ島で作られたものです。

実は昔、別のバティック・パプアがありました。私は1995年に、ビアク空港の売店でバティック・シャツを買ったのですが、トカゲと人の絵の入ったステキなものでした。このときのバティック・パプアは、州都ジャヤプラの郊外のワイエナにある州営企業で作られていました。しかし、その企業は2000年頃に閉鎖され、バティック・パプアは消えてしまいました。

今のバティック・パプアは、そのパプア産のバティック・パプアの流れとは別な話として現れてきたものです。

本来、バティックは、ジャワ文化の産物でした。パプアの人々は、一部を除いて、そうした布を作って身につける文化を持たなかったと考えられます。その意味で、パプアにとってのバティックは他所からもたらされた外来文化です(余談ですが、他のご当地バティックの多くも同じような構造を持っています)。

しかし、そこにパプア風のモチーフが使われ、パプアの人々がバティックを着るようになると、バティック・パプアがあたかも自分たちの産物であるかのような空気が作り出されてきます。しばらくすると、バティック・パプアを誇らしげに語り、我々外国人に土産物として勧めるといったことが起こってくるかもしれません。

しかし、それはパプアの人々が作りだしたものではなく、モチーフを借りたジャワ島の人々が作ったものなのです。バティック・パプアが売れても、その売上のほとんどはジャワ島へ還流していきます。

バティック・パプアを誇らしげに語るパプアの人々にとって、自分たちの文化とは一体何なのでしょうか。

パプアの人々は、自分たちはジャワやスマトラとは違う、と独自性を強調します。しかし、自分たちが作ったものではないにもかかわらず、バティック・パプアを自分たちのものとして認識するのは、よそ者によって作られた文化的産物を自分のものとしてそのまま受容する、という形態に他なりません。

実は、バリ島で有名なケチャック・ダンスなども、土着のものをドイツ人がアレンジしたものが今に伝わっているという話です。よそ者によって作られた文化的産物がそこの人々のものとして受容される、というのはパプアに限った話ではありません。

パプアの人々にとってパプアたるものとは何であるのか、という問いは、独自性を強調するパプアの人々自身が自らをどれだけ深く理解しているのか、という問題と重なってきます。

ジャヤプラを離れる前、州立パプア博物館に立ち寄りました。誰も来訪者のいない閑散とした館内には、アスマット族の素晴らしい彫刻品など、様々な展示物がありました。パプアの人々は、パプアという括りの前に、自分たちの種族の独自の文化的産物を持ち、それに魂を入れ込んできたことが感じられる展示物でした。しかし、それが、パプアに人々自身に見られることなく、展示されているのです。

自分たちの独自文化への無関心、それとは対照的な、外部者によって作られた文化的産物の受容、といったものに、パプア人の外部者に対する意識が絡んで、パプアを強調する動きを形作っており、その文化認識が意外に浅いことをまざまざと感じたのでした。

2012年6月7日木曜日

ジャヤプラは美しい街

パプアと聞いて、どんなイメージを持たれるでしょうか。6月2〜6日、パプア州の州都ジャヤプラへ行ってきました。

ジャヤプラに来たのは約1年ぶり。前回来たときには、ジャヤプラの手前のアベプラ付近の沿道の商店の数がずいぶん増えて、ここでも消費の波が押し寄せていることを実感しましたが、今回もそれは同じでした。地方でもお金は回っています。


センタニ空港からほど近い、国軍コンプレックスの中にある通称「マッカーサーの丘」にある記念碑(写真上)。1944年に米軍南西太平洋司令部がここに置かれていて、マッカーサー司令官がここで指揮を執りました。眼下にはセンタニ空港の滑走路とセンタニ湖が一望できる眺めのとてもよいところです。


ジャヤプラに初めて来たのは1995年12月、あのときに見たワニの養殖場はどうなったかが気になり、行ってみました。宅地化が進んでワニの異臭が敬遠され、養殖場は遥か遠く離れたマンベラモ地区へ移転したということでした。それでも、小さなワニが少し大きくなるまで養っている養殖場が一区画残っていました。


そこからちょっと離れた海岸に近いハマディ地区に、日本軍の上陸記念碑がありました。そしてその横には、函館市ニューギニア会の慰霊碑があり、ご遺族が読まれたとおぼしき鎮魂歌が彫られていました。残念ながらカギがかかっており、遠くから眺めるだけでしたが・・・。布が干されているのがご愛敬です。


ハマディ地区は、様々なパプアの民芸品が売られるマーケットがあることで有名ですが、その真ん前にきれいな中央市場ができていました。以前と同様、これらの商店を経営しているのはブギス人やジャワ人といった、パプア以外からやって来た人々やその子孫たちでした。


ここで、ワメナ名産の木の繊維で織られた網製のバッグ「ノケン」を買いました。伸縮自在で、自然素材(ちょっと素材自体の匂いはあるが・・・)。しかも丈夫。コンパクトに小さくなります。以前から、エコバッグの本命と睨んでいましたが、ジャカルタやマカッサルではなかなか手に入らず、ようやく手に入れたという次第。今年の夏、東京で使ってみようかな、と思っています。


それにしても、ジャヤプラという街は実に風光明媚な街です。ちょっと丘の上に上って下を見渡すだけで、素晴らしい景色を味わえます。




是非、一度、ジャヤプラの絶景を満喫しに来られることをお勧めします。

2012年5月20日日曜日

「簡単と高速!」

インドネシアは、昔から為替管理をしないできた国ですが、外国からの送金や外国への送金が比較的スムーズに行われています。ですから、外国から資金が入ってくるのも早ければ、外国へ資金が逃げてゆくのも早いわけで、1997〜1998年の通貨危機のときに、外貨を交換するのが急に難しくなったのを思い出します。

先日、ジョグジャカルタへ出張に行って帰ってきたとき、ジャカルタの空港で見かけたのが次の看板です。


にこやかな男性と女性が丁寧に手を合わせて「Welcome! Withdraw your money here. Easier & faster」と呼びかけています。これが「ようこそ!ここにあなたのお金を引き出します。簡単と高速!」と言い換えられていました。

にこやかな男性と女性にお金を引き出してもらおうかしら、と思ってしまいました。

インドネシアのほとんどすべての銀行のATMは24時間動いていて、時間外手数料のようなものは存在しません。他行にATMから送金するときにも手数料が引かれることもありません。時間外、という概念がないのです。24時間、いつでも同じサービスをATMは提供しています。

日本から持ってきた国際キャッシュカードで引き出せるATMも多数あります。bank International Indonesia (BII) には、ドル口座からドル紙幣で引き出せるATMもあります。

日本の地方へ行ったときに手持ちのお金がなくなって、夜間から翌朝8時45分までATMが稼働せず、お金が下ろせなくて困ったことがありました。インドネシアでは、けっこうな田舎へ行っても、ATMがあれば、お金が下ろせなくて困るという経験はあまり記憶にありません。

簡単と高速! たしかに。

2012年5月13日日曜日

心はまだ揺れ続ける

遠く離れたインドネシアにいても、故郷・福島のことを思わない日は1日たりともありません。いや、遠く離れれば離れるほど、福島のことを思う気持ちが強くなってくる、といったほうが正しいのかもしれません。

実際、今年の正月、福島の実家に帰省した際、高校時代のサークルの先輩・同輩たちと久方ぶりに会っての新年会がありました。サークルの恩師も来られて、出てくる話は高校時代の恥ずかしい話ばかり。大いに飲み、大いに笑い、楽しいひとときを過ごしたのですが・・・。

先輩・同輩の中には、震災のときに直接被害にあったり、生死の境にあったり、壮絶な経験をされた方が数多くいました。復旧・復興の前面に立って激務の毎日の県庁管理職や子供のケアに奔走する教員がいました。一人ひとことの段になると、「去年がひどかったから今年は絶対にいい年になる、いやいい年にする」と口々に決意が述べられました。

私も福島に留まって一緒に汗を流すべきではないか。「ここで一緒にやっぺ」という言葉を待っていた自分にかけられたのは、「大丈夫。俺たちが必ず復興させるから」という言葉でした。お前にはお前を必要としている場所があるはず、とも言われました。高校を卒業してからすでに30年以上が過ぎ、福島にまだ生えていると思った根っこは、物理的には消えてしまっていたのか、と思いました。それは、「福島にお前なんか必要ない」というのではなく、「福島に必要かもしれないけど、もっと必要としている場所があるだろ」という、福島人によく見られる「遠慮」だったのかもしれません。

ジャカルタに来てからも、今もまだ、福島への自分の心がまだ揺れ続けています。

つい最近、知人の方が福島の現状を世界へ向けて発信する仕事に就かれた、という話を聞きました。私もその仕事の公募があったことは知っていて、応募しようかどうか迷った末に、ちょうど前の仕事の関係で時期が合わない、ということで、応募しなかった仕事でした。知人の話では、その方以前に採用された方がいたが結局は辞退、ということが何度か繰り返されたのだとか。最終的に誰もやる人がいなくなって、結局、公募を呼びかける側にいた知人が自分で行かざるを得なくなった、という顛末になったそうです。

もし、そんな状況を知っていれば、前の仕事が終わった後、私が手を挙げてもよかったのに・・・と。

さらに、別の私の知人が東京での大学教員を辞めて、福島の現場でコミュニティ再生のために働き始めました。福島生まれでない彼の勇気が私にはない・・・。福島は自分の故郷なのに・・・。 本当は、自分が行くべきだったのではないか。

でも、これらの仕事をすると決断したとしたら、果たして東京の家族は諸手を挙げて賛成しただろうか。とくに、生計を立てていくということで、その仕事で家族を養っていけるのかどうか、冷静に考える必要があるのは当然のことでしょう。インドネシア流にいえば、全能の神が最適な形に導いてくれた、と考えなければ、何とも仕方ないような気もします。

でも、もし自分に家族がいなかったなら・・・。考えていくとキリがありません。いや、考えても仕方ないことなのかもしれません。

心はまだ揺れ続けています。でも、少なくとも次のことだけは心に留めなければなりません。

すなわち、故郷・福島のことを常に思い続けること。

福島の復活・再生・新生へ向けて活躍されている方々のことを思い続けること。

たとえ世の中が福島を忘れそうになっても常に福島のことを自分なりに発信し続けること。

インドネシアなどでの自分の活動がどこかでいつか福島の復活・再生・新生とつながっていくと信じて毎日を過ごしていくこと。

福島で生まれ、育ったことを誇りとし、正々堂々と生きていくこと。

あーあ、妻子に「力入れ過ぎだよ」なんて軽くいなされそうな。

活動拠点はインドネシアへ

読者の皆様に一つお知らせがあります。

今年4月、株式会社インドネシア総合研究所チーフコンサルタントを辞めました。活動の拠点を東京からジャカルタへ移し、今後は、インドネシアをベースにすることにしたためです。当面は、京都大学東南アジア研究所ジャカルタ連絡事務所の駐在を務めますが、7月以降は、当地の某インドネシア企業にスポンサーとなってもらい、コンサルタントとして活動していく予定です。

現在、日本企業のインドネシアへの進出熱が高まっています。企業進出を支援する日本のコンサルタントもたくさんジャカルタへやってくるようになりました。私も、そうしたお手伝いを具体的にさせていただきながら、その先にある日本とインドネシア、アジア、世界との関わりの未来を見据えたコンサルティングを行っていきたいと考えています。これからのインドネシア社会がどうなっていって欲しいか、アジアのなかで日本が、日本人がどのような存在になっていって欲しいか、様々な人々と一緒にどのような新しい何かをこの場で生み出していくことができるのか、そんなブロードなことを頭に描きながら、活動していければと願っています。


2012年5月7日月曜日

ジャカルタでトルコ料理

5月6日、いつも原稿執筆でお世話になっている某メディアの知人と一緒に、トルコ料理を食べました。場所は、京都大学東南アジア研究所ジャカルタ連絡事務所のすぐ近くにあるTurkuazというレストラン。9ヵ月前にオープンした比較的新しいレストランです。

このトルコ料理レストランですが、Jl. Gunawarmanに面しており、その前を通るたびに気になってしかたありませんでした。たまたま、今日は知人と会う約束があり、彼を誘って実験的に試してみようということになりました。

店に入ると、目につくのは美しい模様のステンドグラスが連なるランタンです。なかなかの装飾!


まず、出てきたのが前菜4種盛り合わせ。下の写真の左上から「キュウリ、トマト、クルミのザクロソース及びエクストラバージン・オリーブオイル和えサラダ」(Govurdgi Salatasi)、「バター炒め松の実とヒヨコ豆ペースト」(Tereyagli Cam Fistikli)、「ナス、トマト、チリペッパーのガーリック及びエクストラバージン・オリーブオイルあえ」(Babaganuc)、「焼きホウレンソウとトルコ白チーズのサモサ風」(Ispanakli Peyniril Borek)。ちょっと写真が暗くなってしまいました。


これらをふっくらと焼いたパンと一緒にいただきます。

メインで食べたのは次の2品です。まず、「味付きラム挽肉を練った小麦粉生地の中に入れ込んだミニ餃子のようなものに、ガーリック、バター、唐辛子で味付けしたヨーグルトソースをかけたもの」(Manti)。


続いて、「グリルしたラム挽肉に自家製チリペーストで味付けたケバブ」(Adana Kebab)。 生タマネギの和え物、干しぶどう入りご飯、パンなどが付け合わせになっています。ケバブの香辛料が絶妙な味付けになっていました。


最後に、デザートは、トルコで最も人気のあるデザート、とメニューに書かれていたBaklava。バター、ピスタチオに自家製シロップが染みこんだケーキの上にサクッとしたパイ生地がのっていました。飲み物は、あっさりとトルコ・ティー。


アルコール類はビンタンビールしかありませんが、1瓶8万ルピアで、ワインなどを持ち込み可能とのことです。

今回のトルコ料理は、繊細な味付けが香辛料との絶妙のバランスを醸しだし、素材の旨さが引き出されていました。ビールでも十分堪能できましたが、ワインが一緒だとさらにおいしさが引き立っただろうなと思いました。

気軽に入れる店ですが、ちょっと取り澄ました感じで食事をするのにもいい雰囲気のお店です。接客にも◎。インドネシア料理に飽きた人にもお勧めの味です。1階が禁煙席、2階が喫煙席です。

今回一緒に来てくれた知人は独身で、「次回はインドネシアの令嬢と一緒に来たい」とほろ酔い顔でした。


Turkuaz - Authentic Turkish Kitchen
Jl. Gunawarman No. 32, Kebayoran Baru, Jakarta Selatan
Phone: 021-7279-5846, 021-7279-5853, 0817-860190
turkuazrst@gmail.com
www.turkuazrst.com

2012年5月2日水曜日

気仙沼の鈴木さんとの出会い

4月29日のチカラン桜まつりでは、じゃかるた新聞のS記者の計らいで、気仙沼から来られた鈴木さん夫妻にお会いしました。これも何かの縁かもしれません。

鈴木さんらは気仙沼で10年以上「バリ・パレード」というイベントを開催してきました。しかし、昨年の大震災で、それまでバリ島に来てはコツコツと買い集めてきた衣装や道具がすべて使えなくなってしまいました。

今 回は、バリに加えて、2004年に大津波の被害を受けたアチェも訪問し、昨年は中止せざるを得なかった「バリ・パレード」を、アチェからの支援も含めた 「インドネシア・パレード」として、今年の8月12日に復活させるための協力を求める旅、ということでした。身の回りが少しずつ落ち着いてきて、「インド ネシア・パレード」を復活させたいと思える気持ちの余裕も何とか表せるようになったということでしょうか。


気仙沼には、漁船乗組員のインドネシア人男性に加えて、水産加工工場で働くインドネシア人女性も多数おり、インドネシアとの関係は半端では ありません。大震災の後、インドネシアのユドヨノ大統領夫妻が気仙沼を訪れ、仮設住宅の鈴木さん宅に上がり、慰問して話を聞いてくれたそうです。

鈴木さんは、「インドネシア・パレード」復活のための協力を呼びかけています。資金面での支援でも、物品面での支援でも、精神的な支援でもいいと思います。関心のある方は、是非、鈴木さんまでご連絡いただければと思います。
 

 鈴木敦雄さん
 電子メール:gogoponpoko@mail.goo.ne.jp


桜まつりで七夕に出会う

4月29日(日)、ジャカルタから東へ車で約1時間、工業団地が林立するチカランへ行き、インドネシア人の留学経験者や研修生OB/OGなどが集うKAJIという組織が主催する「チカラン桜まつり」を見てきました。

会場は、リッポー・チカランに新しくできた商業施設シティ・ウォーク。

リッポー・チカランは、インドネシア有数の民間企業グループであるリッポー・グループが開発したニュータウンで、都市としての機能がほぼ完備された町です。最近は、近くの工業団地で働く外国人(韓国人、日本人など)もたくさん住むようになり、一部には韓国式あるいは日本式が入り交じった飲食店街も現れています。

前日の大雨で、外に設営したテントが壊れてしまうというハプニングはあったものの、シティ・ウォークの入口ホールを会場にした桜まつりのイベントは、なかなかの盛り上がりを見せていました。

そこで目にしたのが、この噴霧器つき扇風機。風に加えて、霧状になった水も噴き出すという代物。水を噴き出すことで、少しは涼しい気分になるのでしょうかね。


シティ・ウォークの入口ホールから少し歩くと、日本をテーマにしたいくつかの「お店」が並んでいるジャパン・コーナーに着きました。その入口には、笹の葉に願い札がたくさんぶら下げられた七夕飾りが何本も置かれていました。

どんな願い事を書いているのだろうか、と少し見てみると・・・。


「2013年の試験に合格して、成功者になれますように」
「ビジネス・キャリアで成功して、私にぴったりのいい人に巡り逢えて、友だちができて私を助けてくれますように」
「今年希望していることが実現しますように」
「もっと綺麗になりますように」

たわいもないと言えばそれまでかもしれませんが、どんな顔をして願い札に願いを書いているのかなあと想像するだけで、微笑ましく感じてしまいます。

予想通りというか、ジャカルタ中心部から1時間かかるチカランまで来る日本人の方はそれほど多くはないようでした。

それでも、前日の夜のJKT48のミニコンサートには、インドネシア人の若者のファンが多数やってきて、盛り上がったのだそうです。あっという間に、JKT48のファンクラブができて、それが活動しているということを今回初めて知りました。

桜まつりをめぐっては、表面上の盛り上がりとは別に、いろいろなことがあった様子ですが、詳細はわかりません。でも、インドネシアと日本との関係をもっとステキなものにしていく、という目的では、参加したすべての方々が同じだったということを信じたいと思います。

2012年4月29日日曜日

審査員は体力勝負

インドネシアでも最も入場者の多い展覧会の一つが、インドネシア国際ハンディクラフト展覧会(イナクラフト)。今年は2012年4月25〜29日にジャカルタ・コンベンション・センター(JCC)で開催されています。

以前から、高品質の工芸品が集まる評判の展覧会、イナクラフトの出展するのが中小ハンディクラフト生産者の誇り、などと聞いていたので、いつかは見てみたいと思っていました。しかし、昨年までは、うまくジャカルタ滞在と日程が合わなくて、見たことがありませんでした。

今年こそは見たいな、と思っていたら、知り合いのインドネシア・ハンディクラフト輸出業者協会(ASEPHI)の友人から「イナクラフトの審査員をしてくれないか」というお誘いが・・・。うむ、これを受ければ、噂のイナクラフトを存分にみることができる、と単純に考え、OKしました。

たしかに、存分にみることはできました。しかも、存分の2〜3乗ぐらいも・・・。

審査員は、約1日半かけて、広大な会場内を歩き回り、1000軒以上のスタンドの商品から、7つのカテゴリー(セラミック、自然繊維、繊維・布、木材・紙、石材、金属、その他)ごとに各3品、計21品を審査会用にノミネートしなければなりません。

学生アシスタントを従えて、4月25日は5時間、26日は3時間、休みなし、ぶっ通しで会場内を歩き回りました。でも、意外に「これは」というものに出会わず、とくにセラミックと金属については25日には1品も選べない有様でした。

実際、会場を回ると分かるのですが、見た目でスタンドの約4割はバティック(蝋纈染め) が占めており、審査をしながら、7つのカテゴリーで一様に3品ずつ選ぶというのが
あまり適当ではないような気がしてきました。

もっとも、このカテゴリーはUNESCOの基準に依拠しており、優秀商品をUNESCOが主宰するASEAN全体でのハンディクラフト展覧会(8月下旬にマレーシアのクパンで開催予定)へ出展するのが目的となっています。とにかく、無理矢理にでも選ばなければならない、という感じでした。

2日間、会場を歩き回って、結局、求められた21品のうち、15品しか選べませんでした。

さて、審査会。私以外の審査員は、もう何年もイナクラフトの審査員をしている強者ぞろいで、初参加は私のみ。聞くところによると、昨年まで常連だったオランダ人のコンサルタントが今年は出席できないので、急遽、代役を探した結果、私にお鉢が回ってきたようでした。

他の審査員は、品物だけでなく、それを作っている職人や会社のこともよく分かっている様子。純粋にいいものを選ぼうとした私とは違い、「これは去年の奴と同じだな」「この会社は受賞の常連だから落とそう」といった観点で審査を行っていました。

そして、私が選んだ商品は、ほぼすべてが落とされました。うーむ、商品に関する好みや品質ではなく、審査の観点が違うのだ、といい勉強になりました。

今回、最優秀賞を取ったのは、中ジャワ州プカロンガンのPirsa Artの絹布(下写真)。落ち着いた色彩の布で、とても細かで丁寧な織りに仕上がっており、高級感があり、日本でも受け入れられるのではないかと思いました。クールビズのフォーマルに近いシャツ用、着物用にも適しているかもしれません。


そして、私が選んだ商品で唯一選ばれた「セメント袋を再利用して細かく裁断し、それをつなげて布のようにし、表面にバティックをあしらったプレースマット」が新興作品賞を受賞しました。偶然ですが、これも中ジャワ州プカロンガンのHape Artという中小企業の作品で、普通の紙では難しいが、セメント袋の紙だとバティックがうまく描ける、ということでした。

イナクラフトは本日(4月29日)夕方5時頃まで開催されています。ただし、かなりの人出が予想されますので、来場時には十分お気をつけて。会場には、外国人バイヤー向けのマネーチェンジャーやクレジットカードセンターも設営されています。

それにしても、イナクラフトの審査員をするのは体力勝負でした。2日間で2キロほど体重が落ちました。でも、昨晩は、友人と中華を食べて、元に戻ってしまいましたが・・・。


2012年4月24日火曜日

犬も歩けば・・・彼と会う

昼間、いつものように、ジャカルタの街中を歩いていました。銀行へ行ったり、文房具や本・雑誌を買ったり、とごくごく普通に。

中心部のショッピングモールから外に出ようとしたら、見覚えのある顔の男性が女性と一緒に座っていました。彼との出会いはスハルト政権崩壊直後の1998年。大臣にまで上り詰め、たしか、今は某国で大使を務めていたはず。アチェ和平プロセスの陰で動いた一人でもありました。

聞くと、1年半前に任期終了で帰国し、今はジャカルタに住んでおり、時々、母校のハサヌディン大学で教えているとのこと。そう、彼とはマカッサルでも何度かお会いしていました。

「今も政府顧問とかなさっているんですか?」と軽い調子で聞いたら、「もう政府とは一切関わりを持っていないんだ」と強い口調で答えました。それも、なぜかとても嬉しそうな顔で。

1998年に初めてお会いしたとき、彼がスハルト後の新しい政治について力強く語っていた姿を思い出しました。政治家になる前のユドヨノ(大統領)のブレーンの一人だったのでした。

大使の任を終え、晴れ晴れとした表情の彼に、なぜか、これまで以上に親近感を抱いたのはなぜなのでしょうか。

マカッサルでもそうでしたが、ジャカルタでも、犬も歩けば・・・の世界。自分が動くと、また眠っていたいろいろな人脈がつながり出すのかもしれない。それも新しい形で。

私がマカッサルの仲間とやっているRumata'(「あなたの家」の意)というアートスペースを作る運動にも興味を示していた彼。文学者を集めたイベントのある6月に、会場のマカッサルで会えるとうれしいな。

そうそう、彼、なんていうと失礼に感じるべき方なのだろうが、同年代ということもあり、 そう呼んでしまうのであります。

2012年4月20日金曜日

つなげて、深めて、広げたい ー 今後の活動

久々のブログは、今後の私の活動のお知らせです。

いろいろ考えて、当面、活動の拠点を、日本からインドネシア(主にジャカルタ)へ移すことにしました。

まずは、4月22日から8月10日頃まで、京都大学東南アジア研究所客員研究員として、ジャカルタに駐在します。

そして、その間に準備を進め、その後、ジャカルタにある某インドネシア企業にスポンサーとなっていただき、民間(独立)コンサルタントとして活動していく予定です。

拙く抽象的な言い方ですが、10年後、20年後の未来を思い浮かべながら、「つなげて、深めて、広げる」ような活動ができたら、と思っています。

いったい、何が起こるのか。いや、起こしていけるのか。それも無理矢理ではなく、気がついてみたら自分たちが「こうなって欲しい」と思っていた方向へ世の中が自ずと動き始めていた、という感じになるのがいいな。力ずくで強引にではなく、しなやかに促すような形で。

もっと能動的に、もっと主体的に、何かいいこと、面白いこと、将来に希望が見えてくるようなワクワクすることを、みんなで一緒に構想し、実際に試み、作っていけたら、とてもうれしいです。

国や境遇を超えて、そんな仲間をどんどん増やしていきたいです。小さいこと、ローカルなことを起点として大事にしつつ、それが大きいことやグローバルなことと実はつながっていることを意識しながら、

このブログやFacebookやTwitterなどを通じて、そんな思いを共有できるような発信をこれからも続けていきたいと思っています。

当面(8月まで)の連絡先は以下の通りです。 インドネシアへ来られる場合には、是非、ご一報ください。

【住所】Jl. Kartanegara No. 38, Kebayoran Baru, Jakarta 12180, INDONESIA
【携帯】+62-811-4106670
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