2010年7月24日土曜日

ジャカルタ・麺食べ歩き(その1)

ジャカルタに来てから、時間があれば、麺を食べ歩こうと思っている。これまでに、友人に教えてもらったものをいくつかご紹介する。


まずは、Pantai Indah Kapukで食べたこの麺。華人の間で最近評判の店らしい。シコシコの縮れ麺のゆで加減が実に絶妙で、しかもスープとの相性が抜群。思わず、アップ写真も撮ってみた。


この店を探すのはちょっと難しい。Pasar PIK (Pantai Indah Kapuk)の裏ということだが、こんな小さな小屋のようなところで食べられるのである。


次に紹介するのは、やはりPantai Indah KapukのRuko(店舗兼住居)街の一角で食べたカレーそば(Mie Kare Ayam)。北スマトラのプマンタン・シアンタール出身の華人の店で、鶏の血を固めたものが麺の上に乗っている。


この店は、カレーそば以外に、普通のそばもレベルの高い味だった。ここのそばも縮れ系。


2010年7月21日水曜日

プカンバルからカンパル街道を行く

7月10日、リアウ州を初めて訪れたということで、夕方の飛行機の時間まで、プカンバルから数時間、車を借りて歩き回ってみた。向かったのはカンパル県から西スマトラ州へ抜ける街道沿い。勝手に「カンパル街道」と名付けてみる。

プカンバル市を抜けてカンパル県に入ると、沿道にパイナップルを売る小屋が並ぶ。ここのパイナップルは地元でも甘いことで有名らしいので、早速一軒に立ち寄ってみる。


売り子のお兄さんが器用にパイナップルをむいていく。上手に切れ目が入り、それを生かしてガブッとかぶりついてみた。うーむ、たしかに甘い。西ジャワ州スバンの街道沿いで食べた甘いパイナップルに匹敵する甘さ。


このお兄さんはパイナップル農家で、かつてはジャムなど加工品も作っていたが、機械が壊れて、修理する費用がないため、今はパイナップルをそのまま売っているという。沿線の小屋のほとんどは、農家から買い付けた商人がやっているもので、農家が直に小屋を出しているのは少ないのだという。

パイナップルの小屋からしばらく行くと、大きな素焼きの壺を売っている一角に到着。スラウェシのものよりも、色合いが豊か。


沿道には、一般のパサールもあるが、このパサール・アイルティリス(Pasar Airtiris)はなかなかしゃれた作りをしている。


カンパル県の県都はバンキナン(Bangkinang)。町の中心部、県知事庁舎のすぐ近くにきれいなモスクが建っていた。


そのモスクのすぐ横に、ヘルメット着用を呼びかける看板があった。「二重のヘルメットOK、でもカチッと金具を閉めるのを忘れないでね」という表示。ジルバブの上からヘルメットを被るのを「二重のヘルメット」、としているのが面白い。スラウェシではこの種の看板を見たことがない。


もっとも、道を通るほとんどのバイク利用者はヘルメットを着用していなかったのだが・・・。ヘルメット着用率はスラウェシのほうが遥かに高いと思う。

プカンバルから2時間ほど走って、コトパンジャン水力発電所に到着。管理事務所に見学を申し込んだが、電力会社からの見学依頼状がなければダメ、ということで外から眺める。これまでの経緯があるためだろう、外部者への警戒は依然として強いままである。


しばらく先の丘の上まで行き、ダム湖を眺めながら、小屋でサトウキビ・ジュースを飲む。小屋を営む若夫婦と話をしたが、「ダムができる前は仕事が全くなかった。ダムができてからは、魚を捕れるようになったので、ずいぶん楽になった」とぽつりぽつり語った。その言葉に偽りはなさそうだった。もっとも、その言葉のみをもって、ダムの功罪を判断しようなどとは思わなかった。

たしかに、ダム湖では魚が盛んに養殖されているようだった。


帰り道、途中で面白い表示板を見た。左折でドリアン畑(Kebun Durian)・布折り(Lipat Kain)へ、とある。


ふらふらっとドリアン畑へ行ってしまいそうだが、これは集落の地名で、ジャワ族の移住者の集落に昔ドリアンがたくさんあったことからついた名前だ、と運転手はいう。カンパルは、スマトラでも有数のドリアンの産地なのだそうである。

プカンバル市内に戻って、近未来風の不思議な形の建物に出くわした。


これは、リアウ州立図書館。ちょうど本を広げたような形の建物である。大きさでは東南アジア最大、と運転手はいうが、真偽のほどは分からない。この日は祝日のため、中に入って、蔵書状況や利用者の様子をみることはできなかった。次回の訪問時には見てみたいものだ。


次にこれは、リアウ州知事庁舎別館である。州の行政サービスを統合的に行う庁舎のようであるが、どうしてこんな形をしているのだろうか。

石油ガスが産出し、広大なオイルパーム農園が広がるリアウ州は、インドネシアでも1・2を争う財政的に豊かな州であり、こうした奇妙な形の建物は、それを反映する象徴的な存在なのかもしれない。もちろん、私の趣味ではないのだが・・・。

2010年7月18日日曜日

ムラユ料理の魅力にはまる


7月9〜10日はリアウ州プカンバルへ。長年、インドネシアとお付き合いしてきたが、リアウ州を訪問するのは、恥ずかしながら今回が初めてである。今までの経験で、その土地を好きになるきっかけとなるのは、やはり「おいしいもの」である。

スマトラの料理と言えば、西スマトラ州のパダン料理が有名で、席に着くと、注文もしないのに、小皿にのった料理がどんどん出てくる。そして食べた分だけ支払い、残った料理は別のテーブルへ、という形式。なので、小皿から料理をとるときには、スプーンを使うのが原則で、手づかみでとるのは好ましくない。自分の前の大皿にご飯をよそい、それに好きな料理をスプーンでとってくる。料理のソースだけならば、料金はかからない仕組みでもある。

プカンバルはスマトラ東部の人口約90万人の町だが、地元のムラユ族が支配的な地位にあるわけではなく、西スマトラのミナンカバウ族が大量に出稼ぎに来ていて、商業などの分野ではむしろ優勢である。それにジャワ島からのジャワ族やメダンからのバタック族が絡み、様々な種族が入り交じる様相となっている。

地元のムラユ料理も、基本的にはパダン料理と同様の手法で出される。ただ、プカンバルで必ず食べるべきものと言われたのが、パティン(Ikan Patin)というナマズの一種。淡水魚で養殖もされており、プカンバルでは何軒かパティンを食べされる有名店がある。脂が乗っていて、柔らかく、とろっとした舌触りがする。

プカンバルは、川の近くだが、海からは遠く離れた内陸の町である。だから、淡水魚を使った料理が発達したのだと納得した。

今回、地元の友人が勧めてくれたのは、Rumah Makan Khas Melayuというレストランで、パティンとならび食されるバウン(Ikan Baung)と呼ばれるやはりナマズの一種の淡水魚。これを、ドリアン・ソースを入れた辛くて酸っぱいカレーソースで煮た料理(Ikan Baung Asam Pedas Durian)、である。何も言わないと、パティンのカレー煮込みが出てくるので、必ず「ドリアン・ソースの」といって注文すること、と念を押された。


ドリアン・ソース入りバウンの辛くて酸っぱい煮込み、と一緒に出てきた、ほかの料理の一部は以下の通り。




この「ドリアン・ソース入り」、味が濃厚で舌の上に辛さが残る。この辛さは、インド料理の辛さともマレーシアで食べた辛さとも微妙に異なる。なかなか深みを感じる味である。

正直言って、これまで、スマトラのカレー系の料理は、インド料理などの二番煎じで、どう転んでもインド料理にはかなわないと思い込んでいたが、それとは別の味わいのある、なかなかのおいしさだった。

マカッサルにいた頃には、こうした料理を食べるのは、コレステロールを気にして、なかなか及び腰だった。正直言って、マカッサルのパダン料理をおいしいと心底思ったことはなかった。ほかに、マカッサルにはおいしい料理がたくさんあったためかもしれない。でも、今回、プカンバルで食べたムラユ料理は、なかなか味わい深いおいしさであった。

次回、プカンバルを訪れた際には、さらに研鑽を深めたいと思っている。食べる分量には気をつけつつも・・・。

2010年7月17日土曜日

ジェパラの家具は今


先週、中ジャワ州のジェパラを訪問した。

ジェパラと言えば、細かく彫り込んだ彫刻家具で有名である。インドネシアの邸宅に行くと、ゴテゴテした彫刻を施したソファや細かく彫ったテーブルなどを見かけるが、多くがジェパラ産の家具である。

インドネシアに進出した仏壇メーカーは、ジェパラ家具に欠かせない彫刻の細かさに感嘆して、仏壇用の仏像を彫る職人として、ジェパラの職人を雇ったが、どうしても日本の仏様ではなくインドネシアの仏様になってしまう、と嘆いたというエピソードもある。

私がジェパラを訪れたのは、記憶が定かではないが、おそらく20数年ぶりだと思う。ジェパラの中心の通り沿いに彫刻家具屋が軒を並べていた記憶がある。

しかし、今回見たのは、それら彫刻家具屋だった建物が軒並み廃墟となっている光景であった。その光景を見た限りでは、ジェパラの家具は「終わった」という印象さえ受ける。インドネシアの家具産業は、1980年代後半〜1990年代半ばに輸出産業として成長し、ジェパラの家具も大いに注目された。しかし、おそらく、1997〜1998年の通貨危機を契機に、競争力を急速に落とし、残念ながら没落していったのだろう。

ラタン家具で脚光を浴びた西ジャワ州チレボンも同様の運命をたどり、家具産業従事者の失業問題が取りざたされている。


でも、ジェパラの家具産業は死んでいなかった。ゴテゴテした彫刻をいったん休止し、海外のバイヤーからの注文に沿った一般家具の生産で息をついていた。もともと優秀な職人がたくさんいたため、海外からの注文に柔軟に対応できる技術力があったのだろう。しかも、そうした生産を行っている企業の経営者は、ほとんどが30代と若々しかった。

近年、環境配慮への関心が高まるにつれて、海外バイヤーからの様々な要求は厳しくなっている。その一つが原材料元にまで至るトレーサビリティの確立、および森林再生型の原材料調達である。

この企業は、ある有名外資系コンサルタント会社がCSR(企業の社会的責任)活動の一環として経営指導を行い、トレーサビリティを明確にさせている。家具の材料となる木材がどこから来たのか、誰が木材を生産したのかまで分かるようにしているとのことである。


また、別の企業では、Trees 4 Treesという活動を取り入れていた。この家具を購入した消費者は、その購入代金の一部を、家具の原材料となる木の植林事業に充てることになる、というものである。家具にはそれぞれ認証番号がつけられ、この認証番号の木がどこに植林されたかをウェブ上で確認することができる、という。消費者は、家具を購入すると同時に、自動的に植林事業に参加することになる、しかも植林した木の所在を確認することができる、という仕組みである。

Trees 4 Trees (http://www.trees4trees.org)

もう一つ注目されたのは、インターネットの活用である。今回のジェパラ訪問では、インターネットのウェブを活用して、生産者とバイヤーを引き合わせるサイトを立ち上げた若手実業家と知り合いになった。彼らは、そうしたサービスをビジネスとして運営し、収益を上げている。しかも、そのダイレクトリーはインドネシアに限らず、世界中のダイレクトリー関連サイトへアクセスできる。シップメントの費用計算の情報もある。それだけでなく、ウェブを活用して、生産者側の経営能力を高めるための指南コースまで立ち上げている。実際に、こうしたウェブを活用して、ゼロから海外との取引を開始し、今では毎月オーダーを得てコンテナで輸出しているジェパラの企業家がいた。

こうしたサイトの情報の正確さ、カバレッジの確かさ、セキュリティの問題などは、まだ完璧ではないと思うが、インターネットなどの情報技術を活用して、しかもそれをビジネス・ベースで運用するような動きが、どんどん現れているのがとても新鮮だった。「政府が支援してくれないから中小企業はダメだ」という話は、これら企業家たちからは聞こえてこなかった。

でも、ジェパラをジェパラたらしめているものは、どうなってしまうのか。かつてのジェパラ的なものは「彫刻」家具であったのが、今は家具になっている。そうだとするならば、「彫刻」を家具から切り離して活用する手があるのではないか。ジェパラの古い世代の人々は、まだ彫刻と家具を切り離して考えられないでいた。あの超絶な彫刻技術を、家具以外のモノに生かすことができるはずで、それがジェパラたるものを維持させていくはずだ、と思った。

では彫刻技術をどう活用するか。ジェパラの人々とこれから一緒に考えていくことにする。

2010年7月11日日曜日

メダンの砂糖漬けと伝統焼菓子

7月5〜6日はメダンへ出張した。地元の中小企業を訪問させていただいたが、そこは元気なおばさんが仕切っている小さなお菓子屋さんだった。

ここの売りは、ハルア(Halua)と呼ばれる砂糖漬けである。トウガラシ、ニガウリ、パパイヤの葉・茎・花・実、キュウリ、ニンジン、オレンジ、トマト、パイナップル、スイカの皮、などなど、何でも砂糖漬けにして売っているのである。そして、砂糖と水以外にいっさい添加物を使っていない。


おばさんによると、素材の味の違いが出ているというのだが、私には、どの素材を食べても、同じように強烈な甘さが向かってくるようにしか感じられなかった。地元のお祝いなどでは、トウガラシの砂糖漬けを必ず使うので、トウガラシは外せないのだそうだ。甘いトウガラシ、というのはなかなか面白い。

個人的には、この砂糖漬けよりも、ダンガイ(Kue Dangai)という焼き菓子が気に入った。餅米粉、ココナッツ、砂糖に塩を少々入れた素朴な焼き菓子で、実はメダンの伝統焼き菓子の一つなのだそうである。


しかし、最近ではピカ・アンボン(Pika Ambon)というちょっと洋風化された焼き菓子がメダン土産として有名になり、ダンガイはほとんど忘れ去られようとしている。それでも、伝統焼き菓子を復興させたいと願う政府高官などから、ときどき注文が入るそうだ。

モチモチッとした食感、ほんのりとした控えめの甘さが飽きをこさせない。でもインドネシアの人には物足りないだろうなと思ったら、これはオリジナルで、チョコレート味などいろいろな甘さ強調のバリエーションがあるのだそうである。やっぱり。

インドネシア全国各地に、隠れた伝統菓子の銘品が埋もれているのだろう。それを発掘し、再評価することは、それを生産するここの地域の価値を再評価することにもつながるはずである。カロリー・自己コントロール中の身ではあるが、やはり食べ歩きはやめられまい。

2010年7月7日水曜日

インドネシアフェスティバルin東京

親しい友人から「インドネシアフェスティバル」開催のお知らせが来た。

インドネシア好きを増やしたい、日本好きを増やしたい、そこから交流が広がって欲しい、と単純に願い、インドネシア大使館や日本インドネシア協会、民間有志で準備を進めました、とのことである。

場所は、東京の代々木公園イベント広場、7月10〜11日に開催される。

詳しくは以下のURLを参照して欲しい。
http://www.indonesianembassy.jp/indonesiafestival/

筆者は、残念ながらまだジャカルタなので、物理的に参加することができない。でも、このイベントの注目すべき点は、民間有志が主体となって実施の準備を進めてきたことである。

民主化が定着し始め、経済も上向きになったインドネシアは、中国やインドのように目立たないが、政治的安定と手堅いマクロ経済運営の下、着実な経済成長を一歩一歩遂げつつあるように見える。そんなインドネシアとの付き合いは、政府と政府の付き合いから民間どうし、普通の人レベルどうしの付き合いへと進んでいくことになるだろう。そんな兆しを感じさせる、楽しそうなイベントだ。

2010年7月4日日曜日

マカッサルへ帰る

週末を利用して、7月2日からマカッサルに帰省している。4月27日にマカッサルを離れて以来、2ヵ月余ぶりのマカッサルである。幸い、今回はガルーダ航空のマイレージを使って、無料航空券で往復できた。

予感はあったが、私が借りているBalla Idjo Guesthouseに入った途端、「我が家」という実感がどっと溢れてきた。置いていった本棚とそこに並んだ本、見慣れた雑貨、そしてお手伝いのティニさんの料理・・・。やっぱり、そこは、気分が落ち着く「我が家」だった。

さっそく、かつて我が家を使って活動していた若者たちに会いに出かけた。彼らもそれなりに活動を続けており、ほっとした。3日、彼らは、体の不自由な方々を対象にしたエッセイの書き方ワークショップを開催したという。地に足のついた着実な活動を続けていってほしいと思った。

それ以外は、「我が家」でゆっくり過ごした。4日の昼には、友人が家族連れで訪ねてきて、楽しい昼食のひとときを過ごした。

マカッサルは仕事の場ではなくなったが、私にとってはやはり大事な場所である。このブログのタイトルも変えるつもりはない。いつでも帰りたくなったら帰れる場所。マカッサルと東京の間で、自分の大切な時間が流れていく。

2010年7月3日土曜日

寿司の唐揚げに見る「日本」の受容

先日、インドネシア人の友人と「日本」食レストランへ行った。ジャカルタのレストラン業界では、けっこうな日本食ブームであるが、日本人の知人・友人と行くのはたいてい本物に近い日本食であり、食の面でインドネシア側がどのように日本食を受容しているかを知る機会はなかなかなかった。筆者自身、一人でインドネシア化された日本食レストランへ行くこともほとんどなかった。その意味で、今回はなかなかいい機会と思われた。

メニューを見ながら、奇抜そうなものをいくつか注文する。インドネシア化した日本食レストランでは、たとえば寿司は明らかに欧米で受容されたカリフォルニア・ロール系の面白巻き寿司が主流である。そして、それ系のどの寿司にも、トマトケチャップとマヨネーズを混ぜた甘めのオーロラソースがかけられている。



今回のヒットは、寿司の唐揚げである。巻き寿司にころもをつけて、天ぷらのように揚げたものである。これにも、先のオーロラソースがかけられている。


おそらく、このころものサクサク感がいいのだろう。インドネシア人がナシ・ゴレンとエビせんべい(クルプック・ウダン)を一緒に食べるのも、口の中でのアクセントを得たいためである。寿司としてのフレッシュさには欠けるが、食べられないものではなかった。

最後に、醤油ラーメンを注文した。浅めの丼に、ビーフ味かチキン味の醤油ラーメン。なるとの代わりに、周りを赤く縁取った大根の酢漬けが配置されている。もちろん、これを日本の醤油ラーメンと思って食べたらがっかりだが、けっしてまずくはない。


このレストランのコックたちは、何年か前に閉店したわりと有名で日本人もよく行く日本食レストランで働いていた人たちで、どうも自分たちだけで店を立ち上げた様子である。しかし、日本人のマネージャーが管理しているわけではないので、味やメニューは相当変わっている。

それでも、これが「日本」がインドネシア人自身によってインドネシア社会に受容されていく一種のプロセスだと考えれば、なかなか感慨深いものがある。外国援助の世界の技術移転なども、おそらくこうしたプロセスを経て、原産のものとは似ても似つかないかもしれないが、受容される場所でそれなりに主体的に受容されていくのだろう。

寿司の唐揚げは、そんなプロセスを体現した味を醸し出していた。問題は、我々がそうした「日本」の受容を温かく許容できるかどうか、なのだと感じた。