2008年5月28日水曜日

穏やかなパル

25日から28日まで、中スラウェシ州パルに来ている。町はいたって平穏であるが、他の町と同様、学生が石油製品価格値上げへの抗議デモを行っている。今日も、州知事特別スタッフの方と州知事庁舎で懇談していたら、デモ隊がやってきたので、あわてて外に出ることをやめ、四方山話までして、時間をつぶした。

パルに来たのは2001年2月以来。久々に昔の友人たちに会ったが、政府職員は皆、階位があがって重要ポストについていた。でも、また昔みたいに、みんなで集まって食事でもしたいね、と語り合った。

友人のNGO活動家のオフィスを訪ねると、裏庭に小屋が建てられていて、そこでいろいろと彼の仲間たちと語り合った。地域のアイデンティティをどう維持・発展させていくか、村の人々と都市の人々とをどうやって結び付けていくか、などなど。抱えている課題は、マカッサルの若者たちと話し合う場合のそれと共通しているものばかりだった。

パルのホテルでは、Telkom Hotspotが設置されていた。確認しただけで、Rama Garden、Sentral、Citra Mulyaといった比較的リーズナブルな値段のホテルで、無線LANが使える(有料。1時間13,000Rp)。今日のブログもその恩恵にあずかっている。

久々のパルを楽しんだ後、明日の夕方、マカッサル経由で北スラウェシ州のマナドへ移動する。

2008年5月24日土曜日

失われ行くもの in マカッサル(1)

数々の過去の歴史的建造物や貴重な文化遺産を破壊しながら、日々様相を変えてゆく町、マカッサル。近年は、その勢いがますます加速しているかのようだ。

数年前から壊されるという話があったブント・コレクション。ドイツ人のブントさんという方が長年にわたって集めてきたランの花や大きな貝殻のコレクションが有名で、西欧人観光客が必ず訪れる場所だった。1996-2001年に住んでいた私の家のすぐそばにあり、時々中を見せてもらったものだった。


でも、もう跡形もない。コレクションはどこへ行ってしまったのだろうか。跡地は、ルコ(住居兼店舗)になるという。ルコだらけのマカッサルなのに。マカッサルにしかなかったものがまたひとつ、消えた。

高級住宅地パナクカンにあったカントリークラブ(通称PMCC)。以前、小さかった娘がプールで遊んだ後、トラジャ・カフェで海老ワンタンを食べるのがお決まりのパターンだった。会員制のスポーツクラブがあり、50mプールは泳ぎがいがあった。トラジャ・カフェは、手頃な接待場所として、何人ものお客さんをお連れした。海老ワンタン以外に、塩魚チャーハンや海南鶏飯もおいしかった。2001年に私が任期を終えて帰国するとき、感謝・お別れの会を開いたのもPMCCだった。

このPMCCももうない。取り壊されて、ホテルになるという。プールで泳ごうと思っていたのに、それも無理になってしまった。

ブント・コレクションの近くにあった、1996-2001年に住んでいた平屋建ての我が家も、私の帰国後に人手に渡り、高い塀をめぐらせた2階建ての大きな家が建った。毎年たわわに実ったシマナラギ種のマンゴーの木は、2本とも伐採された。

マカッサルとともに記憶される特別の場所が、どこにでもあるようなルコやありふれた建物に変わっていく。失われる前に記憶に残していく作業を進めなければなるまい。

2008年5月20日火曜日

華人墓地を訪ねて

バイクや車の走行マナーがインドネシア最悪といわれるマカッサルの街中で、危険だとか排ガスだらけになるとか無謀視されてはいるが、自転車で出歩くのが楽しい今日この頃。

タマランレアの我が家から、南へ下って、アンタンにある華人墓地を訪れてみた。ここは、今から20年ちょっと前に、現在の州知事オフィスがある場所から移された。それ以前、華人墓地は今の中央市場(Pasar Sentral)の辺りにあったそうである。


入口を自転車で入る。中は予想以上に広い。自転車で来たのは大正解。一番奥まで入ると、目の前には、国家行政院(LAN)の立派な研修所がそびえ立っていた。


屋根つきの立派な墓が並んでいる。これだけで、ちょっとしたクレンテン(中国寺院)の大きさはあるかもしれない。


一番奥からぐるっと走っていくと、1950年代前後に作られたと思われる小さな墓がずらっと並んでいた。出身地は広東、一族の墓なのだろう。


一族の本家と思しき大きな墓が小さな多数の墓を従えて立っている。その墓の右脇に「福神」と書かれた小さな石があり、そこにも線香が手向けられている。


小さな墓群を後にして、石を彫る作業をしているおじさんに出会う。彼、パルジョさんは中ジャワ州サラティガの出身で、マカッサルに来て20年。父親の後をついで、華人の墓石にレリーフを彫る仕事をしている。「注文を受けて作っているのですか」と聞くと、「そうではないんだが、前もって作っておくんだよ」とノミを使いながら答える。彼の作業小屋の後ろもいずれ墓になるそうだが、まだ10年ぐらいかかると目論んで、芋や野菜を植えて畑を作っている。「すみません、仕事の邪魔をしてしまって」と一応言うと、彫りのインスピレーションが沸かなくなれば、作業をやめて家で休む、まあ、のんびりとやってるよ、という感じのパルジョさん。広い木陰を通り抜けていく風の心地よさを感じながら、気持ちのいい時間が過ぎていくのを味わった。

華人墓地の中は、福建出身者と広東出身者で場所が明確に分かれている。多くの墓碑には、故人の出身地が明記されている。パルジョさんによると、かつては、屋根つきの墓が多かったが、最近は屋根をつけないようになっているとのことだ。


出口に近い小屋には、墓作りや墓守をしている兄ちゃんたちがたむろしていた。「のど渇いただろ、ソーダ飲めよ」といきなり栓を抜いたソーダを渡され、ゴクゴク飲む。「俺も1本飲むからな」と兄ちゃんの一人がソーダを飲む。おお、これも払うのだな、と思っていると、案の定、「よろしく」と2本分3000ルピアを支払う。「そういえばここに日本人の墓があるんだぜ」というので、確かめに連れて行ってもらう。「ここだ」と指差された墓は、華人の名前の墓。ただし、「孫」と書かれた部分に日本人の女性の名前が2人刻まれている。日本人の方がお参りに来るそうだ。

ちょうど、昭和6年頃(注:先に書いた「戦時中」は誤りでした。お詫びして訂正します)に立てられた日本人共同墓地の場所を探しているところで、気にはなったが、いつものごとくのお兄ちゃんの勘違い。それにしても、インドネシア語ブログにも掲載したマカッサルの日本人共同墓地はいったいどこにあったのだろうか・・・。

2008年5月15日木曜日

ジャカルタ暴動から10年

すなわち、スハルト政権が倒れてからもう10年も経つのだ。あの時起こったジャカルタでの暴動。ジャカルタ在留邦人だけでなく、ジャカルタから遠く離れた場所に住む邦人もすべて避難勧告が出たあの暴動から10年が経とうとしている。

本日付のKompasに、これに関連したいくつかの記事が掲載されていた。その言わんとするところは、この10年であの暴動が何も総括されていないのではないか、あの暴動から何を学んだのだろうか、という問いであった。なぜ暴動が広まったのか、誰が扇動したのか、なぜ罪のない市民(とくに華人系市民)が襲われ、とりわけ華人女性がレイプされたのか。この10年で、何一つ真相が明らかになったとはいえない。被害にあった人々のトラウマは完全に癒えたとはいえないのに、現実には放置され、真相は闇の中に葬られようとしている。

9・30事件も、マラリ事件も、ムニール毒殺事件も、マルクの暴動も、その他多くの事件も、その真相が明らかにされないままで放置されている。誰かにとって都合の悪い事実が現れるとしても、真相を明らかにすることで、新しいものが生み出されるのではないだろうか。インドネシアはまだ、そのような都合の悪い真実が露出することで社会が動揺し、不安定化することを恐れているように感じる。そうではないだろう。真実が明らかになっても、容易には不安定化しない成熟した社会を作っていくことが、これからのインドネシアの課題の一つなのではないか。

まだまだ「自分は悪くない」と言い張ったり、石油製品価格上昇に反対して資本主義や外国勢力を敵視したり、自分や現実と向き合おうとしない態度があちこちで見られるが、それらが世論全体の大きなうねりとなることはなくなった。うねりを作るために暴力的行為を煽っても、一般の人々は簡単には同調しなくなった。あれほど混乱するといわれた大統領・地方首長直接選挙をそれなりに穏当にやり遂げられる能力を身につけたインドネシアは、徐々にではあるが、成熟した社会へと向かい始めたと思える。

そして、暴動や暴力の被害を受けた人々の現在に思いをいたせる感性や共感を抱ける人間としての感情を、普通の人々が普通に持てるような社会になっていってほしいものだ。

10年前のジャカルタ暴動からまだ多くを学べていないインドネシアだが、普通の人々の暮らす社会は着実に成熟化(以前私が使った用語を用いれば「普通」化)への道を歩み始めたと信じてみたい。

でも、過去に学んでこなかったのはインドネシアだからなのだろうか。

2008年5月10日土曜日

航空路線ニュース(2008.5.10)

マカッサルを基点とする近距離航空路線が5月1日から運航を再開している。以前運航していたDAS社が安全上の理由から政府により運航禁止措置を取られていたが、別の新会社Avia Starがその路線を引き取る形で運航を再開させたようである。

行先はトラジャ、スラヤール、マムジュ、マサンバなど。スケジュールなどの詳細は、私の英語ブログをご覧いただきたい。なお、使用機材は、スペインの技術支援を受けた国産ターボプロップ機のCassa 212-200(20人乗り)である。

また、地元新聞報道によると、7月からAir Asiaがマカッサル=クアラルンプール、マカッサル=コタキナバルを就航させる予定とのことである。Air Asiaは就航にあたってマカッサル空港離着陸料の大幅軽減を求めているが、空港側が難色を示しており、予定通りの就航となるかどうか、不安が残る。

マカッサル空港の新ターミナルは、本来ならば昨年初めに完成の予定だったが、工事が遅れに遅れ、まだ完成時期が明示されていない。新聞報道によると、地元出身のカラ副大統領が現場を視察した際、工事側から8月終了と説明されたのに対して「無理ではないか」とコメントしたようである。

2008年5月6日火曜日

こちらでもガソリン値上げ

日本の春は、ガソリン税を下げて、また復活させての大騒ぎだったが、こちらインドネシアでも、ガソリンが値上げになる。2日前の新聞で、ユドヨノ大統領は「燃料値上げは最後の手段」と演説したのに、今朝の新聞では「燃料値上げへ」との見出し。一般によく使われるプレミアム・ガソリンのリッター4500ルピアが6000ルピアに値上がりになるという。

もちろん、日本に比べればはるかに安いガソリン代。6000ルピアといっても約70円程度。それでも、屋台で食べる麺なら1回分ぐらいの値段になる。日本で150円ではラーメンを食べるには不足だろう。つまり、インドネシアの人々にとって、感覚的にはけっこうな値上げになる、ということである。

あれ、インドネシアは産油国だったはず・・・というのは正しい。でも、近年は、石油・石油製品輸入が輸出を上回り、石油・石油製品の純輸入国になっているのだ。そして、インドネシアがOPEC(石油輸出国機構)からの脱退を検討している、というニュースが報じられている。

2008年5月4日日曜日

郵便局で荷物を受け取る

日本の妻からEMSで送ってもらった書籍類8箱をマカッサル中央郵便局で受け取った。

これらは、税関申告用に記載した内容金額に基づき、 輸入関税と所得税・付加価値税がかかる。郵便局の裏にある税関事務所で手続をする。自宅用の場合は、1箱につき50米ドル差し引かれる。自宅用だと輸入関税は課されない。申告した金額がちょっと高かったので、結構な額の所得税・付加価値税を支払うことになった。次回からは、申告金額に工夫が必要かもしれな い。

マカッサル中央郵便局は、このEMSで送った箱を、ハサヌディン大学近くの我が家までは配達してくれない。そちら方面へ行く車がないのと、重くて大変だから、という理由のようだ。

税金を払った後、荷物を受け取ろうとすると、「1箱につき7000ルピアかかる」と係員が言う。その支払い根拠を尋ねると、まともな答えが返ってこない。係員は上司に電話し、電話口で説明を受ける。曰く、Bea Laluという名の郵便局への荷物搬入料で、「総領事館も払ってるんだからあんたも払いなさい」と言われた。まあしょうがないので払うことにしたが、領収書の発行を求めると、「そんなのは普通は書かない」と係員。領収書を再度しつこく求めると、再び上司に連絡。しばらくして、上司が紙ペラ1枚の領収書を 持ってきて、手書きで作ってくれた。郵便局用の写しはとっていない。

まあともかく、荷物を無事に引き取ることができ、紛失しなかったのはよかった。

2008年5月2日金曜日

マカッサルへ戻る、スーツケースをようやく開けた

2日間、ジャカルタで「オリエンテーション」を受けた後、5月1日、マカッサルに無事到着した。家は相変わらず。やはり、「帰ってきた」という感じがして落ち着く。

今回は、十分に時間をとって、忘れ物がないように万全を期してから、日本を出発するはずだったのだが、最後の最後にやはり事件は起こった。日暮里からスカイライナーに乗った後、スーツケースのカギを置いてきてしまったことに気がついたのだ。自宅に取りに戻ったのでは、飛行機の時間に間に合わない。結局、妻に頼んでDHLでマカッサルへ送ってもらうことになった。

ジャカルタに到着して、何はともあれ、まず下着洋服を買い、これで何とか2日間もたせた。マカッサルに着いた5月1日は、キリスト昇天祭で祝日。DHLはお休み。ようやく2日にDHLへ出向いてスーツケースの鍵を受け取り、スーツケースを開けた。