2011年5月30日月曜日

新たなステップを目指して

新たなステップを目指して、実は4月に、知人と一緒に小さな会社を立ち上げた。

会社の名前は株式会社インドネシア総合研究所。略して、インドネシア総研。まだまだヨチヨチ歩きの生まれたてホヤホヤの会社である。ホームページは以下の通り。

 株式会社インドネシア総合研究所

インドネシアを対象としたビジネス・コンサルティング、市場調査、現地調査視察などを行う会社、である。もっとも、ビジネスだけに留まらず、大学などのスタディ・ツアー、市民団体やNGOどうしの交流など、社会・文化的な活動も視野に入れている。そういった関心項目の一つは、社会的投資やソーシャル・ビジネスである。

この会社を最初の一歩と位置づけて、まずは、日本とインドネシアとを、対等な立場で、深くしっかりとつないでいく活動を展開していきたいと考えている。

といっても、私は出資者の一人にすぎず、経営に直接関わるわけではない。チーフコンサルタントとして関わっていくことにした。

今後は、インドネシア側のクライアントを相手にした活動も考えていく予定で、ジャカルタに拠点を構えての展開も構想中である。

そして、インドネシアに関する専門家や日本語・インドネシア語のスペシャリストとの協働ネットワークづくりを進め、一緒に活動していく。各人それぞれの立場を尊重した、緩やかでしなやかなつながりを作って、それを広げていきたい。もし、仲間に加わりたい(あるいはちょっと興味があるという)方がいれば、是非、連絡して欲しい。インドネシア総研宛でも、私個人宛でもOK。

日本人、インドネシア人、その他どんな人でも、国境をらくらくと越えながら入り交じって、もっとワクワクする楽しい未来を作っていくことに何らかの貢献ができればうれしい。

これから、どんなステキなもの、新しい仕組みを作っていけるか。どんな面白いこと、楽しいことを起こしていけるか。頭の中にはいろいろな構想が湧いてくる。日本とインドネシアとを行き来しながら、皆さんと一緒に考え、動いてみたい。もちろん、1日24時間、1年365日、常に面白いアイディアを募集中。よろしくお願いします。

2011年5月27日金曜日

ミュージカル『虹の戦士』再演

友人の映画監督であるRiri Reza氏から、彼が監督を務めるミュージカル『虹の戦士』(Laskar Pelangi)再演のお知らせが来た。

期間:2011年7月1〜11日
場所:Teater Jakarta, Taman Ismail Marzuki (TIM), Jakarta

先行前売り券が2011年6月3〜5日に、Tiket Box, Teater Jakarta, TIMにて発売される(10〜17時)。対象席数は計1600席と限られている。なお、一人につき先行前売り券を6枚まで購入可。以下、カッコ内は通常料金。

Kelas 2: 10万ルピア(15万ルピア)
Kelas 1: 25万ルピア(35万ルピア)
VIP: 45万ルピア(55万ルピア)
VVIP: 65万ルピア(75万ルピア)

なお、通常チケットの発売は2011年6月10日からとなる。

前回、2010年12月17日〜2011年1月9日の公演を見逃した方、もう一度見たい方、チケットの手配はお早めに。

2011年5月25日水曜日

福島市の実家で

先週末、福島市の実家で過ごした。3月11日の東日本大震災の後、ようやくの帰郷だった。

白河を過ぎて須賀川付近から、瓦屋根にシートがかかり、石で抑えられた家が目につくようになった。3月11日の地震では、福島県内で被害が大変だったのは、県北の福島よりもむしろ郡山や須賀川だったと聞いた。液状化現象も起こっていたとか。でも、新幹線が福島に近づいても、瓦屋根を修復中の家が目につく。

実家は、何も変わっていなかった。母曰く、柱の多い平屋建ての家だったためか、壊れたり、倒れたりしたものはほんの一部だったようだ。ガラスのコップがいくつか割れた程度で済んだそうだ。母は、いつもの通り、淡々と一日を過ごしていた。

街中を歩いても、一見、何も変化は見られない。通りを歩く人は少ないが、もともと、市内はそんなものなので、とくに今回、人通りが少ないという印象はなかった。

運動部らしき高校生がかけ声をかけながらランニングし、テニスコートでは日が暮れるまで練習に明け暮れていた。

郊外では、農家のおじいさんが田植えの終わった田んぼで一息ついていたし、モモやリンゴの畑では、作業をする農家のご夫婦の明るい笑い声が聞こえていた。

新芽や若葉が萌え出でる、鮮やかな緑の勢いを感じる、いつもの福島の5月だった。

そんな、大好きな福島の5月を味わいながら、「今、自分は、内部被曝している最中なのだろうな」と思った。美しい空気と一緒に、目に見えない放射性物質が自分の体内に入っているのだろう、と悟った。

弟の娘たちは、相変わらず元気だった。妹は学校で健気にマスクをしているが、姉はマスクはしないらしい。格好を気にする中学生、マスクをしなさいという親のいうことも聞かない様子。それでも、姉のクラスでは何人かが福島の外へ転校していったそうだ。入れ替わりに、福島へ避難・転校してきた友達がクラスに数人いる。

彼らの親は、放射線量をとても気にしている。安全性について学校側を問い詰めるような親もいる。誰だって、自分の子供のことを心配しない親がいるはずがない。

弟の妻と話をしながら、息の詰まるような毎日を送っていることが感じられた。安全のためには避難した方がいいのかもしれないが、自分たちの生活がここで成り立っている以上、そう簡単に動くことはできない。でも、せめて、1〜2週間でも、福島を離れて別の場所で気分転換をしたい、思いっきり屋外で遊ばせたい、プールで遊ばせたい、というのが切実な気持ちのようだった。

「今年の夏には、よかったら東京の我が家にしばらくいらっしゃいよ」と言ったら、いつもは遠慮がちな弟の妻が、素直にとてもうれしがっていた。もっとも、東京だって絶対に安全だとは言えないのだろうが。

つい最近、結婚したばかりの従姉妹にも会った。彼女は、屋内でもマスクをしていた。風邪でも花粉症でもなかった。彼女の心配が本当に手に取るように感じられる。彼女は、一刻も早く福島を離れたがっていた。冗談で「インドネシアへ来る?」と言ったら、真顔で「行きたい、行きたい」と懇願された。

福島のテレビでは、頻繁に放射線量の測定数値が画面に流れている。母は毎日それをチェックするのが日課だ。でも、放射線量が3月15日頃の約20分の1に減った現在、それは不思議な安定感を母に持たせているようにも見える。

NHKが5月15日に放映した「ネットワークでつくる放射線地図」というドキュメンタリー番組の話を母にした。母はその番組を見ていなかったし、そこで描かれた放射線量をめぐるホットスポットの話などは知らない様子だった。いや、知ったからといって、今さら自分がどうなるということではない、あと何十年も生きるわけでもないし、とある種の覚悟を決めているかのようでもあった。

福島の子どもを持つ親たちがネットワークを作り、年間被曝線量20ミリシーベルトという基準を子どもに当てはめないように訴える運動を始めていたのは知っていた。5月23日、彼らは福島から文部科学省に押しかけ、強く訴えたが、文部科学省三役は現れなかった。

子ども連れの親たちが、雨が降るなか、建物の中には入れてもらえず、コンクリートの地面に座る形で、文部科学省の中堅幹部を相手に懸命に主張していた。そうした文部科学省の対応が、この国の人間を大切にしようとしない、上から目線の態度を如実に物語っていた。民主主義かつ先進国を自負する日本という国のそんな役人の対応を悲しく思った。

学校では、校庭の表面土を削り、それにシートをかぶせて遮蔽して埋め、その上に別の土をさらにかぶせる、という処置をするようである。これで、土の表面の放射線量が大きく減少する。でも、実は、どのシートを使うかが問題なのである。

それは、市町村の判断に任されている。吸着力の強いベントナイトシートを使えば最も効果があるが、高価である。財務力の乏しい市町村では、より安価な塩化ビニールシートやブルーシートを使うケースもあるようだ。でも、放射性物質の吸着・遮蔽力はベントナイトシートより遥かに落ちる。

国立大学附属ではベントナイトシートを使うが、公立では塩化ビニールシートやブルーシート、という違いがこのままだと現れてくる可能性がある。小・中学校は義務教育である以上、国がベントナイトシートの使用を義務づけて、必要な資金を都合すべきであると考えるが、どうだろうか。

これまでの政府や東電の発言や対応を見る限り、常に自らが責任を少しでも免れられるような逃げ道が先にありきだったように感じる。でも、実際に避難を強いられたり、高い放射線量のもとで不安を抱えて暮らす子どもや若者たちは、逃げ道を用意できない。

パニックを起こさないためという理由で正しくない情報を流し、情報をコントロールし、後で「実はこうだった」と後出しする対応をされて、人々が信頼するはずはないだろう。せめて、誠意を持って、正しくない情報を流したことをまず詫びるべきではないか。

本当に人々のことを思ってついた「嘘」なら、人々は分かってくれることだろう。でも、今までの対応では、それは難しい。いや、それでもなお、政府は人々に信用を強制し続けるのかもしれない。

福島市の実家で過ごしながら、ある意味、肝の据わった日常のなかに生きる母や市民の強さとともに、底知れぬ不安からせめて一時でも逃避したい切実な親たちの感情を思った。そして東京へ戻り、文部科学省のデモへの対応や国会での「言った、言わない」政局を見ながら、本当に日本は悲しい国になってしまった、と思わずにはいられなかった。

それでも、この国を、福島を、そこに生きる人々を思う純粋な気持ちはなくならない。やはり、自分たちのことは自分たちで守る。自分たちが動くしかない。当たり前のことなのだ。

2011年5月16日月曜日

バンジャルマシンのサシランガン

バンジャルマシンのサシランガン(Sasirangan)。ここの特産の絞り染めである。最近は、ジャカルタのバティック屋さんでもみかけるが、バンジャルマシンでこのサシランガンの工房をのぞく機会があった。


特徴は、波のような丸まった線。型を取って、デザインを描いていた。



絞り染めなので、制作プロセスはすべて手作りである。どのような模様を出すか、どの色を充てるか、細かく緻密に計算しながら、絞りを施していく。



下の写真のシャツの模様が伝統的な絞り模様の一つ、とのことだ。


ジャワでは、プリンティングのバティックが幅を利かせ、ろうけつ染め特有のシミのない、きれいなバティックを目にすることが多くなったが、このバンジャルマシンのサシランガンは、すべて手作りで、2枚と同じ模様のものには出会わない。素朴な味わいが何ともいえずほのぼのした気分にさせてくれる。

さっそく、私も明るい緑色のものなど3枚の半袖シャツを購入した。今年の日本の夏にも着てみたいと思っている。

2011年5月15日日曜日

南カリマンタンの水上マーケット

5月1〜5日は、南カリマンタン州バンジャルマシンに滞在した。実は、南カリマンタン州を訪れるのは初めてだった。そして、バンジャルマシンへ行ったら、まずは名物の水上マーケットを見に行かなければ、と思っていた。

5月2日、朝5時に起床して、マルタプトラ川を1時間半ほど上流へ上り、バンジャル県ロック・バインタンにある水上マーケットを見に行った。あいにくの大雨、しかもガイドの用意した舟には屋根がなく、おなじみブルーのビニールシートを被っての川上りとなった。当然、体中ほぼずぶ濡れ状態。自分の行いの悪さを反省しつつ、大雨の洗礼を受け入れるしかない。なかなかの苦行、である。

水上マーケット、とされた場所には、まだ数隻しか舟が集まっていなかった。それでも、10分、20分と過ぎると、舟はどんどん集まってきて、最盛時には約70〜80隻程度になった。雨なので通常よりは少ないのかもしれないが、日々の生活に必要な野菜や果物を毎日買う場所なので、雨天中止ということはないらしい。ここは、まだ、地元の人々が生活のなかで使っている水上マーケットであった。



舟で売買するのはほとんどが女性である。雨が降っていたので、みんな笠をかぶっていた。野菜などを乗せてくる舟に混じって、何も乗せていない舟が近寄ってくる。商人の舟である。




せっかくなので、より近い、バンジャルマシン市内のクイン川の水上マーケットへも行ってみた。5月5日、またしても朝5時起床、川沿いの家々がすぐ手が届きそうなぐらいの狭い水路を進んでいく。時折かかる橋が低く、船がその橋の下をギリギリに通過する。水上マーケットから戻る頃には満ち潮で水位が上がるため、その狭い水路を通ることはできなかった。

今度は天候に恵まれた。真っ暗だった空が少しずつ明るくなり、朝の光が徐々に空へ映り始めていく。

クイン川の水上マーケットは、2日に行ったロック・バインタンのそれとはかなり趣が異なる。舟の数が少ないのと、私らのような観光客を乗せた舟が何隻かあり、そこへ盛んにモノを売りに来る舟がある。「毎日娘が作るんだよ」とたくさんの種類のスナックを売る娘さん思いの気のいいおじさん。1個1000ルピアのお菓子が船上ではとてもおいしく感じられた。

観光客の多くはインドネシア人で、外国人は見かけない。それでも、観光客をあてにして、ミ・バソ(肉団子入りそば)などの軽食を食べさせる船まで出ていた。


このクイン川の水上マーケット、以前はたくさんの舟で賑わったそうだが、陸上交通が発達するにつれて、利用者が少なくなり、今では風前の灯火のような状況になっているようだ。たしかに、2日に行ったロック・バインタンの水上マーケットのような、地元の人々が日常生活のなかで活用しているようには見受けられなかった。


インドネシアの民間テレビ会社RCTIのテレビ広告では、たくさんの舟で埋まったバンジャルマシンの水上マーケットが写され、ジルバブを被った女性商人の一人が親指を立てて「イエーイッ」とやる部分に"RCTI OK"の声が被さる。そのイメージでバンジャルマシンにやってきたのだが、実際はとてもつつましいものであった。もっとも、年に何回かのイベントの際には、たくさんの舟が動員され、「賑わい」を演出するのだそうである。

バンジャルマシンの周辺で水上マーケットが残っているのは、これらロック・バインタンとクイン川の2ヵ所だということだ。でもきっと他にも、毎日の生活を支える船上での交易が、外部者に知られることなく、行われていることだろう。しかし、陸上交通の改善とともに、水上マーケットもその役割を変えていくことになるのだろう。