2010年12月28日火曜日

ハノイからニンビンへ

12月16日、ハノイからニンビンまで2時間程度走った。ハノイ市内からしばらくは片側2車線の道路だったが、途中で片側2車線の道路に。道路の感じは、インドネシア・スラウェシ島のマカッサルからパレパレへ向かう昔の道路のような状態だった。通行量の割には道路が今ひとつである。そんななか、沿道に韓国系の現代自動車の大きな工場が見えてきた。


ハノイの街中もそうなのだが、沿道を見ていて不思議だったのが、道路と垂直に、ウナギの寝床のように建つ細長い建物である。道路沿いの間口を狭く、奥に長くなるように土地を区切っているように見える。ベトナムでは、そのように土地の区分けというか配分をするように決められているのだろうか。


ニンビンの街中では、牛車も走っていた。馭者のおじさんの帽子、ベトナムではよくかぶられている。


ニンビンから中国の南寧まで直行の高速バスが毎日朝7時半に出発している、という表示板。ニンビンは寧平と書くのか・・・。


街中には、社会主義をイメージさせる赤い看板が目立つ。ベトナム共産党が支配している国なのだ、ということを改めて認識する。


ニンビンからちょっと西側の山のほうへ入り、バイディン寺(Chua Bai Dinh)へ向かう。東南アジア最大の仏教寺院ということで、下の門から上の本殿まで2.5キロ歩かなければならない。車の運転手が気を利かせて、寺の前で住民らしき男一人を車に乗せ、脇道から守衛の立つ門をくぐって、本殿まで車で上ってくれた。



寺院はあたかも大規模建設工事中で、クレーンやら重機やらが動いている。伝統的な寺院という感じはしない。ベトナムの著名な実業家が資金を出しているという話だった。


本殿の中には、巨大な黄金の仏像が3体並べて置かれていた。「写真を撮らないか」とおばさんたちが寄ってくるが、断るとさっと場を離れた。本殿の外は、冷たい風が強く吹き付けていた。


この寺院の周辺は、石灰岩質のごつごつした山があちこちに見られる。タムコックという観光地で、「陸のハロン湾」とも呼ばれ、舟で川をのんびりとわたることもできるそうだ。でも、この日は風がとても冷たく、舟に乗る気にはなれなかった。ただし、こうした光景は、インドネシア・マカッサルの周辺で飽きるほど見ているので、取り立てて驚きはなかった。


ニンビンからハノイへ戻る途中で見た墓地。家のような祠を建てるところは、マカッサルの華人墓地に似ている。


上の写真のような、「囍」という文字を貼った車を途中で何度も見かけた。どうやら、結婚式へ向かう、あるいは結婚式から帰る車のようであった。


ハノイの街中で、小さなサンタ服をたくさん売っている店が何軒かあった。「クリスマスには子どもたちにサンタ服を着せる」習慣がベトナムにはあるのだろうか。それぐらい、たくさんの小さなサンタ服が売られていた。


ハノイの中心地に建設中の大規模ショッピングセンター+ホテルのコンプレックス。韓国のロッテ・グループである。この場所のすぐ向かいには、ハノイの最高級ホテルがあるが、それは韓国のデウ・グループのホテルである。否が応でも、ハノイ中心部で韓国の勢いを目の当たりにした。

2010年12月18日土曜日

ハノイで国際一村一品セミナー

12月13〜17日はベトナムのハノイへ出かけた。毎年恒例の国際一村一品セミナーに出席するためである。14日の全体セミナーの開催場所は、ハノイ・コンベンションセンター。中へ入るなり、その大きさに見とれてしまった。


本家・大分のそれを思い出させるような一村一品マップも展示されていた。


予想に反して、セミナー会場は500人程度を収容する会議場で、昨年のインドネシア・バリ島での会場に比べると半分ぐらいの大きさだった。会議場の手前に各国の一村一品ブースが置かれていた。

翌15日はスタディ・ツアーで、筆者は、ラタン・竹細工を作っているフービン(Phu Vinh)村を見学した。ここは、全国に多数の「工芸村」を展開しているベトナム政府が、一村一品事業のモデルとして力を入れているところらしく、日本、EU、アメリカなどへ製品を輸出しているとのことであった。


なかには、キューバのカストロ首相を描いたラタンの編み細工が飾られていた。この工房ではこれをとても誇りにしているようだった。


カストロ首相以外に、もちろん、ベトナム建国の父・故ホーチミン主席を描いたラタンの編み細工もあった。その手前にあるのは、この工房の製品の一部。


若い女性労働者がラタン編み細工を作っているが、その手先の動きの素早いこと。丸みを作るために、型を当てて作業していた。

ここまでは、ベトナム政府から一村一品事業としての支援を受けている工房の話。その隣には、もっと多くの人が働く別の工房があり、そこは、政府の支援を受けていないということだった。模範工房ではないということなのか、雰囲気はよりリラックスした感じだった。


これらの工房から少し離れたところにある、竹細工工場も見学した。ショールームには様々な製品が置かれ、その品質は高いようにみえた。



これは竹製の壺。竹とは思えない出来上がりである。


これは、日本向けに輸出されるラタン製のトレイ。何を運ぶと楽しいだろうか。


屋外では、竹製の小さい椅子を作っていた。誰が腰かけるんだろうか、小さい子どもかな? と思っていたら、これに花を差すのだそうだ。いろんなことを考え出す人がいるものである。

もの作りという点からも、集積やクラスターという観点からも、ベトナム各地に展開する工芸村の成り立ちとその歴史には興味を引かれる。とはいうものの、伝統工芸品を発展させていくというよりは、バイヤー側の注文を受け止めながら作るという面のほうが強いように思われた。

それでも、バイヤーとのやり取りのなかから、デザインや手法を磨いて自分のものにしていく能力を持っているか否か、それを自分で常に高めていこうと努めるか否か、という点が重要になってくるのだろう。そのプロセスを生産側が持続的かつ主体的に進めていけるかどうかについては、政府やバイヤーを含めた外部者がどのような働きかけをしていくか、これが重要なカギを握ることになるだろう。

その点で、ハノイ空港の土産物屋に並んでいた工芸品からは、オリジナリティの面でも品質の面でも、ベトナムらしいキラリと光る何かが、自分にはあまり見出せなかった。ベトナム工芸品のいい評判を聞いていただけに、これはちょっと予想外だった。

2010年12月6日月曜日

「マカッサルくん」とその仲間たち?

日本では、地域おこしや地域活性化に「ゆるキャラ」が大活躍だが、インドネシアの地方ではまだあまり見かけない。

でも、マカッサルには、どう猛果敢な雄鳥をイメージしたキャラクターがある。名前は知らないので、我が家では「マカッサルくん」と呼んでいる。「マカッサルくん」は、いろんなところで使われている。「マカッサルくん」のゴム製キーホルダーは何種類かあり、私のお気に入りである。


今回、南スラウェシ設立341周年で使われたキャラクターは、下の写真の二人である。来年もこのキャラクターが使われるのだろうか。


2010年12月5日日曜日

バンダアチェからラムノまで

この間、何かとバタバタしていたせいで、ブログの更新がおろそかになってしまった。11月17日に帰国したものの、その後も予定がいろいろ入ったのと、書かなければならない何本かの原稿があり、ツイッターではつぶやいていたものの、ブログに手がつけられなかった。11月はわずか1本とお寒い状況だったが、これから少しずつまた書いていこうと思う。

というわけで、しばらく古いネタを持ち出すことにする。今回は、10月16日、バンダアチェから西海岸をラムノまで走ったときの様子を紹介してみる。

バンダアチェからラムノまでは約2時間。ラムノの中心地を抜けて、しばらく走ると川の前で道がなくなった。

車もバイクも人も、この川を原動機付きの筏に乗って渡ることになる。ラムノには、ここ以外に、街中の市場近くにも、同様に川を渡る場所があった。

渡し場の脇には「茶屋」があり、川を渡る人々が一休みする。その間に筏屋が川を渡る準備をする。

茶屋で食べたスナック。左は餅米を発酵させたもの。右はよくあるチマキのようなもの。


茶屋を仕切っているご夫婦。津波のときの話をいろいろとしてくれた。地震の後、最初は水が引いたが、その後ほどなく轟音とともに水が押し寄せてきて、川沿いの家はすべてあっという間になくなった。無我夢中で逃げたそうだ。「津波のトラウマがない、なんて嘘だ」と強調していた。

渡し場からさらに5分ほど南下すると、橋げたの残骸があった。幹線道路の立派な橋だったそうだ。津波の後、新しい道路はかつての海沿いではなく、内陸のラムノの街中、筏の渡るところに造る予定だそうだ。きっと、津波が起こるまでは、この海沿いの橋を渡るドライブは、沿道でも有数の景色のよいコースだったのだろう。

橋に通じていたこの道は、かつての幹線道路。今では、牛やヤギの天国になっていた。

崩壊した橋のすぐそばには、緑色の屋根の新しい小さな住宅がたくさん建設されていた。マークからすると、サウジアラビアによる援助だろうか。

ラムノからバンダアチェへ向かう道路沿いは、水田地帯。

海沿いの丘を越えるところで海側を見ると、なかなかの景観だった。2つの島の向こうにインド洋を見渡す。

ラムノ方面を振り返ってみると、上の写真のような光景。ここも津波に間違いなく襲われたのだろう、と思わせるような地形だった。

丘越えの海に面した茶屋で一服。ここで出されたアチェ・コーヒーは、上の写真のようにコーヒー粒が満載。表面のコーヒー粒を皿に移してから飲む。濃い。甘い。口の中に残るコーヒーの粒々が何ともいえない感触。コーヒーを飲むというより食べる、という味わい方かもしれない。

インスタントラーメンのインドミーも。ここではアチェ風の味付けにして出してくれた。これが辛くてとてもおいしい。意外なところで意外においしいものに出会えたうれしさ。

この茶屋を切り盛りしている若夫婦。

茶屋を出てしばらく行くと、サルの一群がお出ましに。そーっと走っていると、ボスらしい雄ザルが逃げずにこちらを見て威嚇してくる。この辺りにはけっこうな数のサルが生息しているようだ。


沿道で小魚や干物などを売る小屋が並んでいた。ハマグリのような大きな貝も売られていた。売り子は女性たちで、試しに買ったちりめんじゃこは塩がかなり効いていた。最近、インドネシア産のちりめんじゃこが日本でも売られるようになったが、見た目は日本で見るものとほとんど変わりなかった。

「津波に注意」の標識。交通標識なのだろうか。

沿道の警察署の前。「この付近でこの間テロリストが射殺された」と運転手が説明してくれた。周辺は人影のない、何の変哲もない場所だった。

2010年11月8日月曜日

摩訶不思議なドラゴンフルーツの木


先月、バタム島に行ったとき、ドラゴンフルーツの木を初めて見た。だいたい、ドラゴンフルーツ自体、あまり見たことのない果物だったし、それがどんな木になるのかなんて、想像してもいなかった。でも、実に摩訶不思議な木だった。


この木は、枝の中心に芯が通っていて、その周りに三角形の肉がつく。周りの肉がとれても、芯の部分だけは棒のように残っている。


上の写真の真ん中の丸いのが芯である。そして、その周りの肉の部分から芽がどんどん出て新しい枝が造られていく。


サボテンを思わせるような、枝がニョキニョキとあたかも無秩序のように生えていく。生命力を感じるような・・・。


下の写真が、実ができる前の花(と思われる)。


最後は、ドラゴンフルーツのジュースを飲んだ。赤紫色の濃厚なジュースだった。ジューススタンドは土日・祝日のみ開店し、店の裏側に、ドラゴンフルーツの畑が広がっている。


2010年10月19日火曜日

ミー・アチェの名店

最近、ジャカルタでよく見かけるのがミー・アチェの店である。ミー・アチェとは、カレー風味のやや辛めの味付けの汁なしそば。この味付けは中華麺とは異なる系統の麺と思わざるをえない。しかし、これはこれで、なじむと忘れがたい味わいがある。

バンダアチェで最も人気のあるミー・アチェの名店がMie Razali。市内に何軒か支店もある。ここで、カニ、エビ、イカ、牛肉の入った全部入りのミー・アチェを食べた。知人によると、ここの麺は手打ちだというが、とくにコシが強いということはない。


うーん、さすがにうまい。来週は、友人とジャカルタでミー・アチェを食べる約束がある。

いったい、ミー・アチェはいつ頃に誰が発明したものなのだろうか。いずれ調べてみたい。