2009年12月31日木曜日

久しぶりの国立にて

12月29日、久しぶりに中央線に乗って国立まで行ってきた。ドキュメンタリー映画『マス・エンダン』の監督である井上美由紀さんにお会いするためである。井上さんとの面会は、とても楽しく、興味深いものだった。そして、直接井上さんからDVDを新たにお借りするご好意を受けた。一時帰国を終えてマカッサルに戻ったら、早速、『マス・エンダン』の上映会をスラウェシで再開できることを読者の皆さんにお知らせしたい。


それにしても、国立駅前はすっかり変わってしまった。あの三角屋根の旧駅舎は姿を消し、近代的な駅舎へと取って代わられた。季節のせいかもしれないが、やはり冷たさを感じてしまう。建物や街並み自体の持つアイデンティティが失われていく象徴に見えた。こうした現象が、国立駅舎だけでなく、マカッサルでも、世界中のどこでも起こっていることを改めて実感する。

2009年12月28日月曜日

東京サイクリング

一時帰国して、家族3人でやりたいと思っていたことの一つがサイクリング。今日の午後も、東京生まれの妻の案内で、娘と3人で3時間程度、自転車に乗ってまわった。

本日のコースは、自宅から茗荷谷、春日、菊坂、本郷、向丘、本駒込、巣鴨をまわって自宅に戻るコース。妻のなじみの昔ながらのパン屋さん、あまり知られていないがとてもおいしい和菓子屋さん、そして、たくさんの寺院がある本駒込のなかの光源寺にある本駒込大観音(十一面観世音菩薩)を訪ねた(下写真)。この光源寺とそこに祀られている大観音像は、第二次大戦中の東京大空襲で焼失し、その後復興されて現在に至っている。


妻・娘曰く、この光源寺の雰囲気が、マカッサル郊外のゴワ県スングミナサにある「シャー・ユスフの墓」になんとなく似ている、ということだった。下は、2009年8月に、マカッサルへ来ていた妻が撮ったシャー・ユスフの墓の入口の写真である。


ちなみに、シャー・ユスフ(Syech Yisuf)は、17世紀に活躍したマカッサルの有名なイスラム高僧で、反オランダの闘士としても知られ、バンテンでオランダに捕らえられた後、セイロンや南アフリカへ移送された。1996年、インドネシアの国家英雄に、2005年、南アフリカの国家英雄に、それぞれ認定された。

こうやって、二つの写真を比べただけでは、「雰囲気が似ている」とはなかなか感じられないかもしれない。ただ、私自身は、ちょっとミスティックで不気味な感じと、入口から中までの通路に、同じような雰囲気を確かに感じた。

もちろん、雰囲気という、きわめて感覚的なものなので、これ以上、立ち入らないことにする。要するに、東京の街中を自転車で歩くと、いろいろな面白いものに出会える楽しみがある、ということをいいたかっただけである。マカッサルへ戻るまでに、まだ何回か、家族3人で東京サイクリングを楽しむつもりである。

2009年12月26日土曜日

光都・東京

環境にやさしいLED発光ダイオード・ランプが飛ぶように売れた(といわれる)今年の日本。12月25日に訪れた東京駅西側の丸の内から皇居、日比谷にかけての一帯は、様々なLED電球で彩られた光の街になっていた。


三菱の本社ビルを改増築した際、旧ビルの裏側に人々が集える公園を配置した。古い重厚な低層ビルと新しい高層ビルを見ながら、人々がほっと一息つけるような空間ができていた。たくさんの人々が集い、光のイルミネーションをバックにカメラを構えていた。


光都・東京。東京の新たなキャッチフレーズであった。

12月23日に上野公園に出かけたら、国立西洋美術館の前庭が開放され、「考える人」や「カレーの市民」や「地獄門」の周りが、緑色のLEDライトで飾られていた。

でも、国立博物館で「土偶展」を観た後、外に出て眺めた、冬のクールで真っ青な空の美しさも、なかなか(インドネシアでは)味わえない風景だった。

2009年12月24日木曜日

巡礼を終えた女性たちの華やぎ


12月21日、一時帰国のためにマカッサルからジャカルタへ向かう飛行機に乗ろうと、搭乗口へ向かっていたら、何とも華やいだ男女の一団に出会った。とくに、女性の衣装はキラキラ着飾られていて、華やいだ雰囲気であった。聞くと、メッカへの巡礼から東南スラウェシ州のクンダリへ戻る途中だという。たしかに、聖水の入ったたくさんのポリ袋が置かれていた。

彼女ら曰く、メッカへ出かけるときは、白装束で出かけるのである。たしか、数年前に巡礼から帰国した人々と出会ったときには、こんなキラキラした服装はしていなかったような気がする。ともかく、巡礼を終えて戻った晴れ晴れしい表情に、彼女らの幸せな気分を分けてもらったような気がした。

2009年12月23日水曜日

ハサヌディン大学での『マス・エンダン』上映会

12月20日(日)午前10~13時に、マカッサルの国立ハサヌディン大学で『マス・エンダン』上映会が行われた。

社会政治学部国際関係学科と文化学部日本文学科の学生が合同で開催したもので、催し物としては「インドネシア・日本友好」という題目がついた。

催しは、まず、国際関係学科の学生有志ボーカルグループが「インドネシア・プサカ」をアカペラで歌って幕開け。


その後、在マカッサル出張駐在官事務所の野村昇所長が挨拶して開会した後、ほどなく上映開始。入場者は約90人、スクリーン近くの照明が故障で消せないといったハプニングはあったが、途中退出者もほとんどなく、みんな最後まで観賞していた。


上映終了後は、日本文学科のRudi Yusuf講師、国際関係学科のMuijin講師、そして私の3人が15分ずつ映画についてコメントした。

Rudi講師は、映画の内容の中に普遍的かつ人間的なものが濃くみられる、日本人は恩を受けたことをずっと覚えていて返そうとするがそれがこの映画製作者の気持ちなのではないか、インドネシアに対する日本人のイメージを深く変える効果がある、などと述べた。

Muijin講師は、映画の中に倫理的な教訓がいくつもあり、たとえば、エンダンさんが自分の運命を変えようと動いたこと、夢をかなえようとすること、勤勉さ、誰かを助けようとする気持ち、深い隣人愛をどう作っていくか、といった点を挙げた。

私は、エンダンさんの勇気を忘れてはならないと同時に、この映画に描かれた普通のインドネシア人と普通の日本人との交流が当たり前に普通に行われていくことの積み重ねと広がりが新しいインドネシア・日本関係をしっかりと築いていくことになる、と述べた。

この後質疑応答があり、アンケート記入の時間がとられた後、日本文学科学生有志による「よさこいソーラン」の踊りが披露された。そして、エンダンさんへの敬意とインドネシア・日本関係のさらなる発展を祈念して黙祷が行われ、閉会となった。


私自身は、在留邦人ももちろんだが、スラウェシのインドネシア人の若者たちに観てもらいたいという気持ちを強くもっていた。そして、ほとんどの場所で、インドネシア人の若者たち自身が主体になって上映会を実施・運営したことをとても嬉しく思っている。

『マス・エンダン』を観た我々は、これからどのようなインドネシア=日本関係を構築していったらよいのだろうか。上映会のなかで、学生たちが発したこの言葉を、まずは、皆でしっかりと受け止めたい。

年末年始は一時帰国

12月22日朝、成田着。来年1月19日まで、しばらくの間、一時帰国である。久々に、家族とゆっくりした時間が過ごせそうだ。

早速食べた日本の米はとてもおいしい。もうそれだけで無条件に感激。後は、やっぱりお風呂だよね。

そして、自分の生き方を少しじっくりと考える時間をも。


2009年12月19日土曜日

スラバヤの陸橋はただ者ではない


12月6日、スラバヤ中心部、グラメディア書店前の陸橋を渡っていたら、上の写真のような看板が掲げられていた。

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通行人の安全のために、この陸橋には以下のものが設置されている。
 1.赤外線監視カメラ
 2.1ヶ月間の利用者数を計測する装置
 3.不審者があれば、近くのテガルサリ署へ連絡されたし。電話番号:031-5341052
 4.重要な電話番号
  4.1.ドクトル・ストモ病院:031-5020079
  4.2.中央消防署:031-3534738, 3533844
 5.犯罪行為があれば、この陸橋の監視者へ連絡されたし。電話番号:083 857 311 290

スラバヤ市政府
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たしかに、監視カメラは設置されていた。これも、今、インドネシア政府が進める公共サービス改善の一環なのだろうか。

でも、こんな陸橋を見たのは初めてだった。マカッサルで、運転手と陸橋の話になり、「なんで皆は陸橋を渡らないのか」と聞いたところ、「いやー、ヤギが通るし、皆、トイレ代わりにしているからさ」と運転手が言っていたのは、10年前のこと。

2009年12月13日日曜日

『マス・エンダン』次回上映(予告)

次回の『マス・エンダン』上映会は、12月20日(日)午前10時から、マカッサルの国立ハサヌディン大学で開催の予定である。同大学の国際関係学科の学生有志が開催準備を進めている。

今年のスラウェシでのマスエンダンの上映会は、これが最後になる。





2009年12月12日土曜日

スラバヤ・プラバン通り


スラバヤ市北部のプラバン通り(Jl. Praban)に行くと、上のように、右側通行の光景がみられる。一瞬、ここはどこ?、の世界に入り込む、面白い空間である。スラバヤに行ったときに出くわす、楽しいひととき。

マングローブからの贈り物

スラバヤでの滞在は短かったが、刺激に満ちたものだった。偶然にのぞいてみたバティック展覧会+海産物展覧会で、ある意外な展示を見て、感心した。

それは、マングローブ林産物の活用である。スラバヤ市のウォノレジョ・ルンクット・マングローブ農民グループは、何らかのきっかけで、マングローブ林に落ちている様々な実や葉などを使って何かできないか考えたのだという。そして、それらの、普通なら放置されたままの実や葉をこすったところ、色素が出てきて、しかもそれが簡単に落ちないことを発見、バティックの染色に応用できないかと試してみたら、マングローブ林に落ちているもので様々な色が出せることを知った。そして、生み出したのが、下の写真にある「マングローブ・バティック」である。


この自然の恵みを生かしたマングローブ・バティックは、環境にやさしいバティックとして売りたい様子。ただし、バティックの模様や線描自体はまだ素朴で稚拙だが、今後、環境問題に関心を持つ有名デザイナーなどとコラボできる可能性はありそうだ。

このグループは、マングローブ林のあちこちに落ちている素材をバティックの染色に生かすだけでなく、食品や飲料にも加工している。下の写真のように、マングローブの実のシロップ、ジャムなどが展示即売されていた。しっかりと健康にもいいことをアピールしているが、もう少し具体的に、どのような成分が含まれていて、それがどのように健康にいいかを説明できるとなおよいと感じた。これらのほか、マングローブの実を原料とする液体せっけんも生産している。


このグループの代表者はLulut Sri Yulianiさんで、Batik SeRu(Seni Batik Warna Alami Mangrove Rungkut)という名前で活動している。

マングローブ林に放置されている実や葉が環境にやさしい製品になる、とするなら、マングローブ植林を行う動機がさらに増す。しかも、マングローブの木を切って何かを生産するのではなく、落ちているものを利用するので、農民グループの所得向上と環境保護が両立することになるだろう。

こんなふうに、マングローブ林の活用を考えて動いているところがほかにもきっとあるのだろう。スラウェシのマングローブ林からも、これに似た動きが出てくると面白い。

ついでに、もうひとつ、おまけ。


同じ展覧会の別のブースで、小ぶりのヤシがらを加工して、いろんな色でデザインし、小物入れや亀の形の灰皿を作っている人に出会った。材料はすべてヤシである。

この小物入れや亀の形の灰皿は、この後、ハワイに送られ、ハワイ土産となる。「ハワイと言えばヤシのイメージ」だそうで、「ハワイを旅行したインドネシア人がよく買ってくるよ」と彼は苦笑いしていた。

2009年12月8日火曜日

泥の下に眠る村の記憶


12月5~6日はスラバヤを訪問。友人と一緒に、シドアルジョ県のラピンド熱泥水噴出地域に行った。2006年5月29日の発生から約3年半がたった今、ようやく訪れることができた。掘削会社のラピンド社が保有するガス試掘井の地中から熱泥が大量に噴出し、9村、600ヘクタール以上の農地や工場が泥の中に沈んでいった。事件が起こったのが夜中の11時過ぎ、逃げ遅れたたくさんのお年寄りたちが泥の中に埋められていった。2万人近くの生き残った者たちも、すべての記憶を泥の中に埋もれさせてしまった。

「ラピンド泥観光」という看板が立てられた現場で、生き残った者たちがバイクタクシー運転手の組合を作り、訪れた客を相手に、現場を案内したり、泥噴出に関するDVDを売ったりして、生計を立てようとしている。そんなバイクタクシーの運転手のアディさんとユディさんに案内してもらった。


熱泥噴出はまだ終わっていない。やや遠くに噴煙のわき上がっているのが見える。また、ガスのにおいがまだこのあたりにも残っている。


バイクタクシーの運転手の2人がよく通ったというモスクの上部。建物の3階部分まで泥で埋まった。「この泥の下が自分の生まれ育った村。逃げ遅れたおじいさんやおばあさんが生き埋めになって、今もこの下にいる・・・」という彼らの言葉は重い。


固まった泥の上の現場にイスラム説教師のアナス師の墓があった。アナス師は、熱泥噴出の2年前の2004年に、「シドアルジョが海になる。気をつけよ」と言っていたそうで、その予言が当たってしまったと受け止められている。アナス師の本当の墓は泥の下だが、彼を敬って、墓を造ったということである。


しばらくいくと、避難民が暮らす地域に到着。熱泥噴出で寸断されて崩壊した高速道路の上にバラックのような建物が並ぶ。約7キロ離れた地域へ移転することになってはいるが、彼ら自身の資金不足でとん挫している。ほとんどの人々が失業中であった。


熱泥噴出地の周りには堤防が作られているが、雨期になると、雨で崩れてくるのではないかと、周辺の住民は心配している。風向きの関係で、ガスのにおいもきつくなるそうだ。

ある夜、突然襲ってきた熱泥に、なすすべもなく思い出の地を失わされた人々。人災か天災かの議論の決着はまだついていない。時が経つとともに、世の中の人々の記憶もまた、この泥の中に吸い込まれていってしまうかのようである。