2010年6月29日火曜日

「変化の家」を訪問


6月27日、インドネシアで著名なビジネス・コンサルタントである友人レナルド(Rhenald Kasali)氏が主宰している「変化の家」(Rumah Perubahan)を訪れるため、ブカシへ行ってきた。レナルド氏とのやりとりで、曜日を誤解していたために、彼自身はカリマンタンへ飛んでしまって不在だったが、彼のスタッフが丁寧に中を案内してくれた。


「変化の家」は起業家養成を目的としたビジネス・スクール、ゴミのリサイクルを通じた有機肥料作りとそれを生かした農産品生産、就学前の子供たちのための教育施設、子供から大人までを対象にしたミニ図書館などからなる。

このうち、ビジネス・スクールの建物は、一見何の変哲もない集落(カンプン)のなかにある。建物の中に入るには、すべて履き物を脱がなければならない、また、あちこちに池や川があり、魚が群れている。池の上に渡した木製の通路を通って建物に入るところもある。何となく、日本からヒントを得たような建物の造りにも見えた。


ビジネス・スクールの建物の後ろにも、池や川、田んぼや畑が点在し、水生オオトカゲを保護していたりする。そうした野外で授業が行われることもよくあるそうだ。


筆者が見て歩いたときには、ちょうど3日間のビジネス研修中で、参加者が泥の池に入って、目隠しをしたままナマズを何匹捕まえられるか、というアトラクションをしていた。泥だらけになって童心に返り、「自分の素をさらけ出す」という研修の一環と見えたが、内容的には自己啓発系のような印象を持った。ちなみに、インドネシアでは、数年前から様々な民間の自己啓発セミナー・研修が盛んに行われ、多くの中央・地方政府幹部が、高い金額にもかかわらず、積極的に受講している。

そして、ビジネス・スクールの校内には、スピーカーからインドネシア風の環境音楽が絶え間なく流れ続けている。ここまで来ると、個人的にはちょっと違和感を感じた。

研修参加者が寝泊まりできる宿泊施設もあり、男部屋は写真のように大部屋にマットレスを引いて雑魚寝、女部屋は原則2人1部屋、だそうである(女部屋は見なかったので不明)。男部屋は、何となく、日本の合宿風景によく似ていた。

校内で出る食べかすなどの生ゴミは、特殊な蜂の幼虫の入った容器のなかで発酵させる。「ミミズは使わないのか」と聞いたところ、直射日光と発酵熱で相当な高温になり、水分も盛んに蒸発するので、ミミズだと死んでしまう、ということだった。この特殊な蜂の幼虫がいると、たとえハエが生ゴミにたかってきても、高熱と幼虫によってハエは死んでしまうのだそうだ。


校内で出る生ゴミ堆肥に加えて、この近隣の3000世帯のゴミが毎日、有機堆肥生産場へ運ばれ、プラスチックなどに分別された後、堆肥化される。ビニールなどはきれいにして再利用したり、業者へ売ったりする。ここで造った有機堆肥を使って、様々な野菜や植林用のチークの苗などを育て、それを近隣の農家などに栽培してもらうのだそうだ。

突然、案内してくれたレナルド氏のスタッフのロビー氏がいきなり細長いささげ豆(kacang panjang)をもぎって、「一緒に食べよう」という。一口かじると、ちょっと青臭い、苦みを感じるが、その後にじんわりと野菜の本来持つ甘みが口の中に広がる。懐かしいささげ豆の味だった。

就学前の子供用の教育施設は、ちょうど改築中であった。近所の約300人ぐらいの子供たちが楽しく学んでいるのだという。


ビジネス・スクールよりも長い歴史を持つミニ図書館。ここはもともと、ポシアンドゥ(乳幼児と母親のための保健センター。乳児検診や予防接種などを行うほか、母親向けの保健知識の普及も行う場所)であった。ポシアンドゥが利用される午前中は、子供たちが学校へ行っているので、午前中はポシアンドゥ、午後は図書館、と有効活用されている。

レナルド氏は、こうした施設を自分と仲間たちで資金を工面しながら作ってきたようである。インドネシア大学の経営学の先生でありながら、ビジネス成功のポイントや起業家に関する本を何冊も出し、講演やセミナーに引っ張りだこで全国各地を回る彼は、この「変化の家」を維持発展させるために、自らの収入を費やしているように見えた。彼の自宅は「変化の家」のすぐ近くにあるが、質素なたたずまいであった。

「変化の家」は、インドネシア版のチェンジ・メーカーをこれから世に送り出し続けていくのだろうか。

案内してくれた友人のスタッフたちと歓談した。そして、機会があれば起業家になりたいと真剣に思う農民や零細企業者に対して、彼らが理解できる言葉を使って良質の起業家研修を施し、一人ずつでも農民・零細企業者が起業家になっていくことが、インドネシア社会を変えていくことにつながるのではないか、「変化の家」は究極的にそこを目指すべきではないか、なんてことを語り合ったのであった。

参考までに、関連ウェブサイトは以下の通り。

変化の家(Rumah Perubahan)
 http://www.rumahperubahan.com
Rhenald Kasali School for Entrepreneurs
 http://www.rkse.co.id

2010年6月19日土曜日

若手写真家に訪日のチャンス+高額賞金

マカッサルの若手写真家の友人たちから、インドネシアの若手写真家を対象にしたコンテストの案内が送られてきた。

メダン、マカッサル、ジャカルタなど全国8都市で予選を行って16人に絞り、バンドンで撮影会をやって8人に絞り、バリで撮影会をやって4人に絞り、さらに西パプア州のラジャ・アンパット(世界有数の珊瑚礁の美しさでダイバーの人気急上昇!)で撮影会をやって1人に絞る。この1人には日本への往復航空チケット+賞金1億ルピア(約100万円)が渡される。

興味のある方は、こちらのサイト(インドネシア語)を参照してほしい。

スポンサーには有名丁字たばこ会社がついているようだが、こんなコンテストをインドネシアでもやるようになったんだなあ、と思う。

楽しそうなコンテストである。それにしても、賞金の額には驚いた。

2010年6月18日金曜日

ジャカルタのとある麺屋にて

インドネシアと関わり始めた頃からずっと通っているジャカルタのとある麺屋に行ってみた。縮れ麺の鳥そば(Mi Ayam)が食べたくなったからだ。

この店を知ってからもう25年になる。最初の頃、Nasi Capcaiにナマコが入っているので有名だった。1990年代後半の通貨危機の頃から、価格の高騰したナマコをcapcaiに入れることを断念し、普通のcapcaiになってしまった。

今回、店を訪れると、定番のワンタン麺(Mi Ayam Pangsit)を頼んだ。が、ワンタンがないということで、やむを得ず、肉団子麺(Mi Ayam Bakso)にした。フロアの半分は明かりが消されており、ますます寂れた感じがする。

寂しい気分で麺をすすっていると、次から次へと家族連れが店に入ってきた。でも、「それなりに繁盛しているんだ!」という雰囲気にはならない。何となく、一般の客のようではないからだ。よく見ていると、私も顔なじみの番台にいるおじいさんと次々に握手をしている。

どうやら、家族連れはおじいさんの娘や孫たちのようである。聞くと、その日はおじいさんの70歳の誕生日だったのだ。孫たちが口々に自分の食べたい料理の名前を叫んでいる。

店としての盛りを過ぎ、店を閉じる日を待っているような店の、つかの間の温かな賑わいのように見えた。でも、せめて、おじいさんの生きている間だけでも、したたかに店が残っていてほしいと思った。

ジャカルタのあちこちで、かつてあんなに賑わっていた店が、今では閑古鳥が鳴いている、という光景を見ている。寂しいと思うと同時に、私がまだ数十年前の風景を自分のジャカルタのイメージとして引きずっているだけなのだということも思い知った。

2010年6月17日木曜日

お誘い:マカッサルで日本戦を観戦(6月19日)

ワールドカップは、日本がカメルーンに勝利したことによって、日本でもにわかに盛り上がりを見せ始めたようだが、ジャカルタの在住邦人は、予想以上に盛り上がっていた。衛星放送やケーブルテレビでは放映されないため、わざわざ地上波用のアンテナを購入してまで、ワールドカップを観ようとする、というのは普通なのだそうだ。

さて、マカッサルの友人から、「6月19日の日本=オランダ戦を一緒に観戦しよう」との呼びかけがあった。マカッサルのNew Shogun Restaurantで午後6時頃から集まって、みんなで観戦する、ということである。

そうそう、午後6時と言えば、ちょうど有名なマカッサルの夕日が沈む頃で、New Shogun Restaurantの5階から観る夕日は格別である。まだあまり知られていない新しい夕日見物スポットなのだ。

ジャカルタにいる私はちょっと無理そうだが、マカッサルにいる在留邦人の皆さん、是非、一緒に観戦してみてください。

2010年6月15日火曜日

ジャカルタでの業務開始

6月13日からジャカルタでの滞在を始めた。今回は、8月10日までの2ヵ月間、ジェトロの専門家としてインドネシア商工会議所への助言・指導を行う業務である。さっそく、初日の昨日は、前任者からの引き継ぎと商工会議所内でのあいさつ、工業大臣への表敬、ジェトロでの打ち合わせなどがあり、夜までびっしりのスケジュールだった。

これまで、学界、行政、NGOなどと一緒に仕事した経験はあったが、実業界と一緒に仕事をするのは今回初めての経験であり、楽しみではある。

中国やインド、ベトナムなどの陰に隠れて目立たないが、インドネシアはここのところ着実に経済発展を遂げてきている。その安定感を世界市場から好感され、インドネシアへの投資意欲を示す外国企業がかなり増えてきているようである。

地方分権化から10年以上が過ぎ、行政の世界では様々な変化が生じた。実業界でも様々な変化が生じているが、地方経済の構造的変化にそれがどの程度反映しているのか、外国企業が地方へ安心して投資できるような環境が現れつつあるのか、いろいろと興味がある。

今週はまだしばらく、引き継ぎ作業が続く。なお、インドネシアでの携帯電話番号、電子メールアドレスはこれまでと同じである。

2010年6月6日日曜日

記録映画「セレベス」について

戦時中、日本海軍は長編記録映画「セレベス」を作成し、日本国民にセレベス(現在のスラウェシ)に侵攻した日本軍を「熱烈歓迎する」住民の姿を知らせた。この記録映画は、今年1月に川崎市市民ミュージアムで3日間上映され、5月にも国立近代美術館フィルムセンターで2回にわたり上映された。

筆者も、1月に鑑賞し、1940年代初めのマナド、クンダリ、マカッサルの様子をみることができた。記録としても、たしかに貴重なものであり、おそらく、ほとんどのスラウェシの人々も知らない映像であったと思われる。映画自体はかなり劣化が進んでいると聞くが、何とか、スラウェシの人々にみてもらえるように、近い将来、スラウェシでの上映会ができないものかと思っている。

この長編記録映画「セレベス」にまつわる記事が『スラウェシ島情報マガジン』に掲載された。川崎市市民ミュージアムの江口浩氏による論考である。こちらからアクセスしてみてほしい。

 ・「セレベス」の映画監督・秋元憲氏のこと


2010年6月3日木曜日

充電期間もあと10日

4月末に帰国して以来、「充電期間」を楽しんできたのだが、それも残り10日となった。6月13日〜8月11日は、再び短期の仕事でインドネシアへ舞い戻る。ただし、今回は、マカッサルではなく、ジャカルタをベースとする業務。

今回の帰国を私は本帰国だと思っているのだが、東京の家族も知人たちも、誰もが一時帰国としか受け取ってくれない。「今回は少し長目の一時帰国だね」などと妻に言われたりする。

先週行った別府の立命館アジア太平洋大学や湯布院でも、東京でのいくつかの会合でも、インドネシアの現場がこの15年間で根本的な変化を遂げてきているということを話してきた。まだまだ稚拙ではあるが、インドネシア自身が自信をつけ、主体的に自分で考えて何かをやろうとする姿勢を見せるようになった。

会計監査が厳しくなり、予算執行の透明化が制度的に図られて、以前よりもみんなで汚職がしにくくなっていること。

大統領、州知事、県知事、市長の選挙がすべて住民の直接投票で行われ、しかも正首長候補と副首長候補がペアで候補にならなければならないので、宗教対立や種族対立の激しいところでは両者がペアリングしないと選挙に勝てない構造になり、それもあって地域紛争が大幅に減少したこと。

自前予算でセミナー出席や視察をするようになり、「金がない」といって援助機関にせびる傾向が減り始めていること。かつて筆者がセミナーを開催するときに、「自前予算があるから、交通費も宿泊費も出さないでくれ」とある地方政府高官に言われたことが記憶に残る。

地方政府が他の地方政府を気にするようになり、しかも、いい統治をすれば中央政府から様々な報奨制度で表彰されたりすることが首長の政治的ステータスを高めることになるため、逆に、自らがダメであることをアピールして中央資金を獲得しようとする地方政府が目立たなくなってきたこと。

10年前、地方分権化を目前にして「中央政府のガイダンスがなくなったら、どうしていいか分からない」と嘆いていた地方政府が、今や、やや強引で浮世離れしてはいるが、「我々の地域はこうやりたい」と堂々と主張するようになるとは、筆者は想像もつかなかった。

スハルト強権政治のもとで、「こうなってもらいたい」と思ったインドネシアのおぼろげな姿があったが、当時、その実現を絶望視していた。すべてが万事うまくいっているとは言わないが、あのおぼろげな姿に近づいていくような光景をインドネシアのあちこちで目にするようになった。

日本での「充電期間」中に、それをあちこちで語った。そして、変化するインドネシアを見ながら、我々がどう変化しなければいけないかを真剣に考える必要性を訴えてきた。そう、変わるべきは我々なのである。

変わるべきは我々・・・。昨日の鳩山首相の辞意表明をみながら、感じることがいろいろあった。おそらく変わろうとしたのだろうが、残念ながら変われなかった。変わる兆候を示せなかった。

少なくとも2年後、5年後にこう変わるために、今はここをこれをしなければならない。「変わらない」ように見えるけれども、遅くても5年後までにこう変わるのだ。そんな説明がもっと説得的に伝わればよかったのだが。

「インドネシアは2004年からユドヨノ政権の2期10年で、新たな黄金時代を迎える」と筆者は5年以上前に述べた。安定政権の支えを下に、様々な根本的な変化が現在進行中である。