2008年12月31日水曜日

ベトナムのライスペーパー

ベトナム滞在中、ホーチミン市以外に、ベトナム戦争時の防空壕トンネルで有名なクチも訪問した。1994年に訪問したときは、(米兵は一般に太っているので通れないという)狭いトンネルの中を這って歩いたが、今回の目的地はトンネルではなく、ライスペーパー工場。ここは、ベトナムでも有数のライスペーパーの産地であった。


最初に訪問した工場は、組合所有で、パッケージを緑色に変え、外国への輸出も増やしていきたい、とのことであった。ここの工場長は自分でライスペーパーの生産機を試作し、使用している。

次に訪問したのは、クチでも最大のライスペーパー工場。通常のライスペーパー以外に、韓国への輸出向けに、天然素材で着色したライスペーパーも生産していた。


ライスペーパー工場の外では、できあがったライスペーパーを天日乾燥させていた。すると、あちこちから、パリパリパリッ、という音が聞こえてくる。ライスペーパーから水分が抜けると、台からライスペーパーが自然にはがれてくる、そのときの音である。

ベトナムの食事に欠かせないライスペーパー。肉や野菜、ハーブを入れて巻くのだが、自分でやるとなかなかうまくいかない。食事会の席で、見かねたおじさんが、下の写真のようにきれいに巻いてくれた。「奥さんにするならライスペーパーをうまく巻ける人を」という話らしい。


ベトナム滞在中、実はあまり米粒のご飯を食べていないことに気づいた。食べているのは米の麺のフォーであり、ライスペーパーであった(それ以外にはフランスパンが出された)。もちろん、普通はご飯も食べているだろうから、米加工品のバラエティが豊かということになるのだろう。日本でも米粉の活用が注目されているようだが、インドネシアでも米粉の活用をもっと考えてもいいように思える。


2008年12月27日土曜日

バンコク経由で休暇一時帰国

ベトナムでの用事を終えて、25日朝に休暇一時帰国した。

ベトナムでは、大勢で食事をする際に、酒(今回はバナナの蒸留酒。アルコール度はかなり高い)を小さなグラスに注ぎ、乾杯した後にそれを飲み干す、というのが必ずあった。次から次へと酒をついでまわる人が現れ、乾杯はエンドレスとなり、それに付き合わざるを得ない状況で、久々にベロンベロンになった。それにしてもベトナムの皆さんのお酒の強いこと。昼間からこんなに飲んだくれていていいのか、と思ったりもしたが・・・。日ごろ酒を飲まない生活をしている自分には拷問のようなひととき。正直言って、自分のなじみの国が、イスラム教徒の多いインドネシアでよかったと思わずに入られなかった。

ホーチミンから飛行機乗り換えのためにバンコクに立ち寄る。午後1時に着き、次の成田行きが夜中なので、空港の近くのホテル、それも安いところを探す。空港のホテル案内所で1泊1150バーツの宿を見つけ、案内所に1000バーツ払う(残りはホテルでの支払い)。ホテルから迎えが来て、ホテルまで10分ぐらい送ってもらう。着いたところは、明らかにアパートの一部。洗濯物が山ほど干されている部屋がいくつもある。そうか、こうしたアパートの一部を有効活用しているのだ。バンコク国際空港には立派なノボテルの空港ホテルもあるが、バジェット・トラベラーの需要も多いのだろう、こうしたアパート活用型安ホテルがいくつもある。

とりあえず、部屋はエアコンが効き、ベッドも大きく(ツインを2つつなげてダブルにしていたが)、数時間の滞在にはさほど問題なさそうであった。この短時間の滞在中に小さなレポートを2本片付けた。さあ、少し休もうとベッドに横になって間もなく・・・。大音響のテンポのいいポップ音楽がけたたましく聞こえてきた。何事かと思って部屋の外を見ると、ホテル(アパート?)の前の広場に屋台などが設営され、ナイトマーケットが始まりつつあった。それほどたくさんの人はいないが、けっこう人が集まっている。そして、ノリのいいポップ音楽はエンドレスに流れ続ける。もちろん、ベッドで眠れるわけがない。しかたなく、時間が過ぎるのをボーっと待つことにした。まあ、たしかに1150バーツ、という感じではあった。

バンコクの空港までホテルから送ってもらい、イミグレ通過後、食事をして、後は何事もなくSQ632便に搭乗。ちょうど3人席が空いていたので、ラッキーと思ってさっそく横になる。と、食事が運ばれてきた。あれ、朝食じゃないの? と思って聞くと、SQはこの便に限って朝食はなく、サパーとのこと。しかたなく、食べることにする。

バンコクから成田まで約5時間、しかも成田空港が開く6時半以降に着陸する必要があるため、わざわざバンコクの出発を15分遅らせたこの便。それでも若干早めに着いてしまったため、成田空港周辺を何度も旋回して開港時間を待つ。騒音対策からすると、何度も旋回するのは、さっと着陸するよりもよろしくないのではないか、などと寝ぼけながら思う。

ともあれ、無事に帰国。これからしばらく、東京でゆったりと年末年始を過ごす。頭がとろけてしまいそうな、のんびりした日々を久々にすごしたいと思っている・・・。 1月14日にはまたマカッサル、だ。

2008年12月22日月曜日

ホーチミンはクリスマス一色!

先ほど、無事、ホーチミンに到着した。14年ぶりのベトナムである。

空港から街中に入ると、あちこちでバイクと車と歩行者で大渋滞。街路樹には電球がかけられ、イルミネーションだらけである。



ノートルダム教会付近は、とにかく人、人、人だらけで、空港から乗ったタクシーが動けないほど。いったい、何のお祭りかと思っていたら、クリスマス前の日曜日で、市民が街に繰り出し、イルミネーションを楽しんでいるのであった。

サンタクロースの帽子をかぶった子供、雪ダルマ人形の前で写真を撮る親子連れや若者たち、風船人形を売り歩く売り子さん、仲良く食べ歩きをしているカップル、みんなとても楽しそうである。




もっとも、何か統一的なイベントが行われているわけではなく、あちこちのイルミネーションがきれいで、それを市民がただ見て歩いている、ということなのだろう。それにしても、人、人、人、である。

クリスマスの前に、こんなに人がどっと繰り出すのは、ベトナム、いやホーチミンならではなのだろうか。社会主義国ベトナム、という頭からは、想像できないようなクリスマス一色のホーチミンに出迎えられた。

そして、空港から街中に来るまでの間、窓から見た光景には、なんとも形容しがたいのだが、とにかく「勢い」が感じられた。家族3~4人で乗るバイクの走り、歩いて いる人々の表情、無邪気な笑顔の子供たちとそれをほほえましく見ている大人たち。インドネシアでもシンガポールでもタイでも感じられなかった、ある種の 「勢い」がホーチミンに入った途端にこちらへ押し寄せてくるかのようだった。

世界経済の後退で、派遣切りなど暗い話題がメディアを賑わせている日本とは明らかに違う「勢い」が、少なくとも今夜のホーチミンからはムンムンと感じられたのである。そう、元気の出てくるような「勢い」が・・・。

ホテルの外からは、バイクや車のクラクションが聞こえてくる、まだたくさんの人々がクリスマスのイルミネーション見物に集っている。

14年前のホーチミンも活気があった。しかし、今回の活気は、14年間の蓄積を感じさせるような活気のような気がした。


2008年12月21日日曜日

今はバンコク

12月20日から1月13日に休暇を取得し、25日から日本、である。年末年始は日本、というパターンで帰国するのは、実は今回が初めてである。だって、年末年始の日本は寒くて、耐えられない。でも、仕事の関係で、この時期以外には休暇が取れそうになかったのである。

それで今、バンコクに来ている。帰国前、12月22~23日にホーチミンでちょっと用事があり、その途中でバンコクに寄って友人と会った。久々の再会はやはり楽しいものであり、お互いにあまり変わっていなかったことを確認できた。

ついこの間まで閉鎖されていたバンコク国際空港も、クリスマス休暇と思しきたくさんの外国人でイミグレがごった返していた。到着したときの緊張感を和らげるような入国管理官や空港関係者の柔らかな対応、ここでタイのイメージが作られているのだと思った。

たまたま泊まったホテルは、アパートメントを改装したホテルで、スイートルームに1泊朝食付き61ドルで泊まっている。部屋が広すぎるのだが、あまりにも快適である。

バンコクを訪れるのは4年ぶりだが、来るたびに町が洗練されてきている感じがする。空港からのタクシーも、当たり前だが、ちゃんとメーターで走る。車も、多少渋滞はしているが、秩序立って走っている。隙あらば割り込んでくるマカッサルの道路が遠く感じられる。

やはり、マカッサルやスラウェシに関わるこそ、ときには外の世界を定期的に見ておくことが必要だと思った。世の中は絶えず変化しているが、1カ所にずっと関わると、その感覚が知らず知らずに萎えてくる。そして、外の世界の変化を見ながら、マカッサルやスラウェシの変わっていくもの、変わっていってはいけないものなどを、常に新鮮な感覚で見られるようにしていかなければ、と感じた。

今日の夕方便で、ホーチミンへ発つ予定。

2008年12月16日火曜日

師走・・・なのかもしれない

12月15日、マカッサルに戻った。

先週の大分・東京訪問中は、なぜか暖かい日々が続き、汗ばむほどだった。滞在中には様々な出来事があったが、個人的には、由布院で歩いた幻想的な霧に覆われた夜道や、落葉した木々の凛とした姿に、改めて感動した。

また、今回、我々を温かく迎えてくださった方々の、真摯で前向きの姿に、自分自身がとても勇気づけられた。新しい何かを始めたい、いや始めていかなければ、と思わせる力をいただいた気がする。

さて、マカッサルに戻って早々、16日夕方の会議に出た後に夜中の便でクンダリへ飛び、17日朝から会議に出て、翌18日早朝便でマカッサルへ戻り、そのまま夜まで会議、といったドタバタの日々が始まった。ほんと、師走・・・なのかもしれない。

そして、本格的な雨季がいよいよ始まっていた。


2008年12月8日月曜日

今週は大分、東京

怒涛のような1週間の仕事が終わり、ホッとする間もなく、今は東京に来ている。北スラウェシ州議会・政府訪問団が自前予算で一村一品運動に関する視察を行うのに同行するため、今晩、福岡に飛んで、明日彼らを出迎えてから、由布院を中心として12日まで大分県にいる。

今朝、成田に降り立ったら、やはりかなり寒い。でも、スカイライナーから眺めたイチョウの黄色や葉っぱの落ちた木々がとても印象的だった。マカッサルに住んでいる自分の、自然の移ろいに対する繊細な感覚がやや萎えてしまっていたのかもしれない。

14日に成田を発ち、バリに1泊した後、15日にマカッサルへ戻る予定である。インドネシアから持ち帰ってしまった残務は、果たしてこの滞在中にどこまでやり終えられることやら・・・。

2008年12月2日火曜日

マサンバのバゲア、お取り寄せ!

以前、このブログでご紹介したマサンバのバゲア(詳細はこちらを参照)。ゴチゴチして固い、というのが一般的な印象のサゴやし・クッキーのバゲアだが、これは、サクッとしていて、お茶やコーヒーと一緒に食べると口の中でホワッと溶けるような、ちょっと違ったサゴやし・クッキーである。

このマサンバのバゲアを試しに取り寄せることにした。第1弾は12月6日にマカッサルに到着、とりあえず30袋である。この機会に購入し、味を試してみたい方は、ぜひ、私のメルアドまでご一報を。

好評ならば、今後、定期的に取り寄せ、どこかで販売できるようにすることも考えてみたい。すでに何人か、このバゲアのファンになってくださった方々がマカッサルにいる。

ほかにも、地方の銘品探しを続けていく予定。マカッサル以外にお住まいの方、どうかご容赦を。


2008年11月30日日曜日

我が家のお手伝いさんの結婚式


我が家には、お手伝いさんが二人いる。一人は料理、一人は掃除・洗濯と一応別れているが、二人で協力して家の諸事をこなしてくれている。料理のお手伝いさんとはかれこれ12年、掃除・洗濯のお手伝いさんともおよそ8年の付き合いだ。すなわち、前回、マカッサルに滞在していた時に使っていたお手伝いさんをまた使っているのである。ずいぶんと長い付き合いになったものだ。

今回は、掃除・洗濯を担当しているトラジャ人のお手伝いさん(キリスト教徒プロテスタント)の結婚式である。11月22日、小雨降るなか、場所はマカッサル市東部アンタン地区のとある小さなトラジャ(ママサ)教会。彼女からは「アンタンの教会で午後4時から」と伝えられていたが、アンタン地区にはトラジャ人がたくさん居住しており、トラジャ教会もたくさんある。そう、どの教会で行われるのか、わからないのである。

料理のお手伝いさんの旦那とその6歳の息子の先導で、掃除・洗濯のお手伝いさんがよく行くという親戚の家を訪ね、そこで結婚式が行われる教会の場所を聞く。聞くと、そこには教会が二つあるという。まあ、ともかく目指す教会には着いた。

もう午後4時というのに、人影はまばら。しばらくすると、着飾ったおばさんたちの集団が到着。どうやら、きちんと連絡を取り合っていないらしく、花嫁はまだ美容院にいる様子。「なにやってんのかしらねえ」「花嫁は花婿と一緒に教会に行けばいいって言ってるみたいよ。おかしいわよね」などなど、半分怒りながら、ベチャベチャしゃべくっている。ちょっと険悪な雰囲気になってきたので、おばちゃんたちに「写真を撮りましょう」といって写真を撮ったら、ムスッとしたおばさんたちのなかで、小さい女の子がマンゴーを手にポーズを取ってくれた。


それから30分ぐらいして、新郎・新婦が到着。トラジャ教会で式が始まる。讃美歌が毎回歌われる(歌えない私はただじっと聞くだけ)。讃美歌の合間に、牧師さんの長い話がある。その繰り返しで、席を立っては讃美歌、座っては牧師さんの話と讃美歌、また起立して讃美歌、という具合である。当然、子どもたちは飽きて教会の中を動き回ってギャーギャー騒いでいるが、牧師さんはお構いなしに話を続ける。

式の最後のほうで、新郎・新婦に向かった牧師さんが、下の写真のように、両手を上に大きく広げ、呪文のような言葉をかけていたのが面白かった。そうこうして、式は約2時間かかって終わった。一緒に行った料理のお手伝いさんたちは「ふーっ、長かった」と思わず言葉をはいた。


さて、この掃除・洗濯のお手伝いさんのお相手は、パサール・ダヤ(ダヤ市場)周辺で働いているオジェック(バイク・タクシー)の運転手である。「なぜ彼と?」とお手伝いさんに聞いたら、「それは運命です」と彼女はにやっとしながら答えた。そして新居は・・・我が家である。こうして、我が家には、お手伝いさん2世帯が同居することになった。一段とにぎやかになった我が家である。


2008年11月23日日曜日

Who's Foods 2008

インドネシアの仲間と一緒に、FacebookというSNSに入っている。そのなかに、私の好きな食べ物の写真を集めたアルバム”Who's Foods 2008"を開設した。興味のある方は、このページをのぞいてみてほしい。

そう、来年も"Who's Foods 2009"を開設したいと思っている。


2008年11月17日月曜日

ジェネポントの村で見つけた企業家の芽


11月15・16日は、南スラウェシ州ジェネポント県の村に出かけていた。この辺は、年間降水量が少なく、農業が十分に行えないため、男はマカッサルなどへベチャ曳きなどとして出稼ぎに出かけ、女は男の帰りをじっと家で待っている、というのが特徴、と言われてきたところである。南スラウェシ州で最も貧しい、といわれる地域であった。

それが、この村の海辺の集落では、5年ほど前から始まった海藻栽培で状況が一変した。それまで、漁師として海に出て年間200万ルピアぐらいしか稼げなかった家が、海藻を始めてからは年間で2000~4000万ルピアを稼げるようになった。実際、かつてこの辺では見られなかったコンクリート造りの家が何軒か建っている。海藻栽培は、女性に雇用機会をもたらし、夫を待っているだけだったのが、毎日、海藻とりで女も忙しくてかなわないのだ。海藻栽培が軌道に乗ったため、男は漁に出るのをやめ、魚は釣るだけになった。化学肥料も農薬も使わない海藻栽培は海にやさしいだろう。しかも、破壊的な漁をすることもない。今のところ、海藻栽培は環境にやさしく、しかも収入が昔の10倍にもなる魔法のような仕事になっているようだ。

この村の山のほうの集落へ行ってみる。幹線道路からわずか15分程度なのに、電気がまだ入っていない。ちょうど、カポック棉が実って、収穫期を迎えていた。カポック棉は枕や布団のなかに詰められる棉の一種で、道の周りにフワフワっと踊りながら落ちて舞っているのが、この時期の南スラウェシ南部の風景である。


この集落では、2年前から、カポック棉で出荷するだけでなく、枕や布団のキレをマカッサルから買ってきて、中にカポック棉をつめて、完成品にして出荷することを始めた。仕切っているのは、バンタエンの華人商人だが、ブルクンバやタカラールにも店があって、あちこちで売られているという。


この山のほうの集落で、農産物加工を一人でやり始めた女性に出会った。キャッサバを植えても、ネズミにかじられるのではもったいないと、キャッサバ・チップスを作り始めた。また、研修でトウモロコシを使ったポップコーンのようなお菓子ジャグン・マルニンの作り方を覚えて、試しにつくって、近所の中学校で売ったところ好評で、毎日作った分は必ず完売する、という。それ以外にも、夫が取ってくるカポック棉を集配して、枕や布団に詰める材料として売ったりもしている。

多くの女性がまだ何もせずに家で男の帰りを待っているなかで、どうしてそんなに朝から晩まで動き続けるのか、と周りの女性から聞かれるのだという。この彼女は、原材料費がいくら、燃料費がいくら、売り上げがいくら、とすべて計算したうえで農産品加工をしている。そして、ジャグン・マルニンなどで着実に利益を上げている。

6歳の息子が一人、小学1年生だが、勉強が好きで、放っておいても一人で絵を描いたり計算をしたりしているおとなしい子だ。彼女は14歳で結婚、現在21歳である。彼女が家に戻ると、小1の息子は、母親のいない間に、ジャグン・マルニンの材料になる地場の白いトウモロコシの実を小さな手で一生懸命に剥いていた。母親を助けるためなのか、その健気さに心を打たれた。

21歳の彼女がとても頼もしく見えたことは言うまでもない。いつも完売するというジャグン・マルニンを次回はぜひ食べてみたいと思った。

インドネシアの地域の片隅には、彼女のような企業家の芽が、まだまだたくさん、人知れず息吹いているのではないかと思った。そして、それを見つけられない行政やよそ者の目利きのなさと怠慢が、そうした芽を土に埋もれさせたままにしていっているのではないか、と思った。少なくとも、野辺に生えた小さな企業家の芽を見つけたら、それを励ましてあげたい、と心から思った。

近いうちに、このブログで彼女のジャグン・マルニンを紹介できることを祈っている。乞うご期待!


2008年11月15日土曜日

マカッサルに戻ったら・・・洪水

11月13日にマカッサルに戻ったら、空港から自宅に向かうJl. Perintis Kemerdekaanのあちこちで、水があふれ出ていて洪水、車は渋滞した。道路の拡張工事が続いていて、ところどころ、排水溝が埋められてしまったため、道路上に水があふれているのだ。

渋滞に悩まされながらも、大変だなあ、とのんびり構えて家に着いたら・・・。

我が家の前庭も水がたまって洪水になっていた。家の中まで冠水することはないので大丈夫だが、隣の店舗兼住宅(ルコ)を建てているところや道路よりも若干前庭が低いため、水が流れ込んでくるのである。幸い、仲間たちが我が家から排水溝への水路を確保し、排水溝も流れていたので、気長に待つことにした。

翌朝、前庭の水は引いていた。いよいよ、本格的な雨季の到来、である。


2008年11月14日金曜日

ドンガラの海を見ながらラヴェルを聴いた夜


11月11~13日、中スラウェシ州ドンガラ県へ出張した。パルから車で約45分の古い町ドンガラの先に、珊瑚礁で名高い海岸がある。今回の宿泊先は、そこのPrince John Cottage。ドイツ人が経営するコテッジで、部屋の前には、パル湾の海が広がっている。

私の部屋は、なぜか海に面したベランダの電気が点かなかった。でも、それがよかった。真っ暗な海、海の向こうの山々にかかる雲の合間からピカッと現れる雷光。満月に近い月が雲の合間からおぼろげに形をみせる。その下にはオリオン座とおおいぬ座。

波の音しか聞こえてこない静寂な夜、海から吹いてくる風に当たりながら、iPodで聴いていたのは、ラヴェルのマメールロワ。暗い深遠な海の風景がなぜか奇妙なくらいラヴェルの音楽にマッチしてくる。様々なことを思い出しながら、贅沢な時間を過ごす気分に浸っていた。




2008年11月11日火曜日

フランス料理の会(第2回)

10月28日、de Lunaでフランス料理の会(第2回)を楽しんだ。メニューは以下の通り。

Roasted Jumbo ShrimpFlavored with Lemongrass and Coconut


Roasted Red Snapper, Basil Gazpacho, Black Glutinous Rice, and Vegitable Skewers


Warm Strawbery Soup with Diced Mango, Apricot-Peach Sorbet

今回のテイストは、面白かった。すなわち、フランス料理をベースとしつつ、インドネシア料理のような味付けをミックスさせていた。前回の何となく無難な味付けからすると、新しい味を出してみようという意欲がより表れていた感じがする。


2008年11月2日日曜日

新刊:Syair Perang Mengkasar


仲間が運営しているイニンナワ出版から"Syair Perang Mengkasar"という本が出版された。これは、1963年にオランダのKITLVから出版された"Sja'ir Perang Mengkasar: the Rhymed Chronicle of the Macassar War"のインドネシア語版翻訳である。これは、17世紀に起こった、オランダとゴワ王国との間の戦争に関して、ゴワ王国のスルタン・ハサヌディン王の書記であったEnci' Aminが書き残した叙事詩とでもいうべきものである。この戦争に負けたゴワ王国の側から書き記したものとして、彼らがオランダやそれに追随したボネ王国やブトン王国をどのように見ていたかが垣間見られ、興味深い。

出版元のイニンナワ出版は、10月27~29日まで、本書の出版を記念した討論会をハサヌディン大学で開催した。

本書を注文される方は、私のメールアドレスまたはイニンナワ出版に直接知らせてほしい。

Syair Perang Mengkasar
oleh Enci' Amin
C. Skinner (editor)
translated by Abdul Rahman Abu
Penerbit Ininnawa bekerjasama dengan KITLV-Jakarta
viii+248 pages
ISBN 979-98499-8-5
2008

マナドのトゥデ、オチ

マナドのおいしいものについては、これまで何度か紹介してきたが、私が一番好きなのは、実はトゥデ(Tude)またはオチ(Oci)である。いずれも、小ぶりのアジであり、これをシンプルに焼いたものを、さっぱりしたダブダブ(dabu-dabu)で食べる。このシンプルさがなんともいいのである。


上の写真はトゥデ。オチよりも小ぶりだという。これに、空心菜(カンクン:Kangkung)をあっさりニンニクで炒めたものが添えられる。たったそれだけである。見栄っ張りのマナド人が他人に見せずに自分で食べる料理なのかもしれない。

以前は、注文してから1時間近く、魚が焼けるまで待たされたものだが、今回は10分くらいで出てきた。海岸地域の開発で、多くのトゥデ屋・オチ屋が立ち退きを余儀なくされ、ジャカルタなどへ移ったという。

辛めでボリュームのあるマナド料理に飽きたら、ぜひ、トゥデやオチを味わってほしい。

2008年10月31日金曜日

どんどん変貌するマナド

10月29日深夜、マナド空港に到着。いつものように、出口へ向かうと、いつものように空港タクシーのチケットを持って立っている女性に出会う。

さっそく頼むと、タクシー乗り場まで連れて行ってくれる。ここまではいつもと同じ。タクシースタンドを見ると、メーターを使わずいつも運転手と口論になるディアン・タクシーの脇に、新しいタクシーが。

Trust Taxiというのに乗ったが、車はフォード製のレーシングにも使われる車。リムジン仕様で、支払はメーターに基づく。もちろん、乗り心地は快適で、車内も静か。ディアン・タクシーのときとほぼ同じ値段で、ホテルに着いた。このTrust Taxiは、空港リムジン・タクシー以外に、市内用のシティ・タクシーというのを別に走らせている。会社は州知事の子供が所有しているとのこと。

空港タクシーはもう1社あり、こちらは空軍の組合が持っている様子。車はシボレー製だった。マナド人は、とくに見栄っ張りといわれるが、タクシーの車種を日本製や韓国製にしなかったのはその表れなのか。

今回出席した会議が開催されたのは、まだ正式営業を宣言していないはずの5つ星ホテルSintesa Peninsula。でもほぼ本格営業である。マナドのホテルのネックはインターネット接続だが、ここの無線回線はとても速い。昨日は適当につなげて、タダで使わせてもらった。今日は同じ要領でやったがつながらず、カウンターでIDとパスワードをもらってつなぎ、しかもラウンジで飲み物を買ってください、とのこと。それでも、快適につながり、こうしてブログを書いている、というわけだ。

マナドはほかにもSwiss Bell Hotelが開業、AstonやNovotelなどの開業も控えている。Sintesa Peninsulaの食事はけっこうおいしい。

あまり関係ないかもしれないが、今回の会議は英語だったが、マナドのMCはマカッサルよりも断然英語が上手である。英語が普通に聞こえる空間が形成されていた。来年、5月11~15日に予定されている世界海洋会議(WOC2009)の後、国際会議誘致で名を売ろうとしているマナドだが、マカッサルよりはレベルが上とみた。


2008年10月29日水曜日

今日はマカッサル市長選挙投票日

10月29日はマカッサル市長選挙投票日。その関係で、私の勤務先を含むほとんどの役所・会社が臨時の休日となった。今回は、7組の候補者ペアが立候補している。開票予想は、今日中に出る予定。

私自身は、今晩の便でマナドへ発つ。11月1日にいったんマカッサルに戻って、来週またマナドへ出張の予定。マナドは、観光開発で盛り上がっている様子で、今回の2回のマナド出張もそれと関係している。

マサンバのバゲアは一味違う

10月20~22日、マカッサルから片道10時間かけて、南スラウェシ州北ルウ県の県都マサンバを訪問した。ここにあるマリンド適正技術開発センターを視察するためである。このセンターは、東部インドネシア各地から研修生を受け入れ、農林水産物の様々な加工技術を教えている。扱っているのは、バナナ・チップや魚せんべいのようなものから、カカオの挿し木栽培まで幅広い。

マリンド適正技術開発センターでいただいた昼食

ここには、サゴやしデンプンの団子(水飴のような感じ)を野菜や魚・肉の入った酸っぱくて辛いスープで食べるカプルンという料理がメジャーである。パプアやマルクではパペダ、クンダリではシノンギとも呼ばれるが、このセンターはそのインスタント・カプルンを開発したことでも知られる。ただし、その後の販売促進が地方政府の官僚制の弊害などでとん挫し、インスタント・カプルンは、今では市販されていない。

サゴやしを使ったクッキーのような菓子であるバゲア(Bagea)は、東部インドネシア各地にある。マナドでも、アンボンでも、様々な種類のバゲアがあちこちで売られている。ここマサンバにもバゲアはあるが、今回紹介するこのバゲア、ちょっと一味違うのである。



バゲアといえば、割と固い食感なのだが、このバゲアはサクッとくる。そして、お茶と一緒に食べると、口の中でホワッと溶けるように消えていく。このサクサク感と食べたときの軽さは、通常のバゲアでは味わえないものだ。試しに友人に食べてもらったが、一様に、「このバゲアは違う」という反応だった。

残念ながら、マカッサルではまだ店で市販されていない。先に紹介したビパンと同じように、口コミで知り合いに出している程度だ。

ほかにも、マカロニ・カチャンというのがある。見た目はカシューナッツを半分に割ったような形だが、原料はピーナッツである。とても軽いクッキーである。


このバゲアやマカロニ・カチャンは、マサンバのトランス・スラウェシ道路沿いにあるToko Ekonomi Rakyat Luwu Utaraで手に入れることができる。トラジャ観光から足を延ばすのはちょっと遠いが、スラウェシ縦断の折には、忘れずに寄ってほしい。

エンレカンのビパンといい、マサンバのバゲアといい、スラウェシの地方には、実は知られざる銘品がまだまだ埋もれているような印象がある。これを掘り起こしていくのも私の楽しみである。

2008年10月25日土曜日

牛角バナナとパパイヤはエンレカン名物


エンレカンの牛角バナナ(Pisang Tanduk)は一見の価値がある。とにかく、長くて大きい。本当に、牛や水牛の角のような形をしている。どうやって食べるのかと聞いたら、揚げバナナ(Pisang Goreng)にするのがよく、生食向きではないとのことだった。さっそく、マカッサルの我が家で揚げバナナにしてもらったが、たしかに香ばしくておいしかった。

パパイヤはエンレカンの誇る高品質の果物である。とにかく、ほかのところのパパイヤよりも形が大きく、しかも甘い。よく、休憩所でErotic Mountainを眺めながら、パパイヤを剥いてもらって食べるのだが、いつも大満足である。今回、メンダッテ村の村長宅にお邪魔したら、下の写真のようなデザート菓子が出された。色合いといい、味といい、新鮮な印象を持った。これって、この辺の名物デザートになるのではないか、と村長に勧めてきた。

エンレカンの手作りビパン

10月14日、エンレカンのメンダッテ村で訪問したある村人の家で、ビパン(Bipang)と呼ばれるもち米の菓子を手作りで作っていた。ビパンはあちこちにあり、それぞれ若干違う名前で呼ばれているが、東京の雷おこしを大きくしたような菓子である。ここでは4つの味がある。もち米とヤシ砂糖などを混ぜ、平らな台に伸ばして、定規を当てて切っていく、という素朴な作り方だった。

もち米とヤシ砂糖などを混ぜる。もち米は市場で買ってきたもの。

ヤシ砂糖などを混ぜ合わせたもち米を平らな台に広げる。

材料を平らにする。

定規を当てて切る。平らな台自体に目盛りが付いている。

切ったビパンを袋詰めする。

名前や連絡先の書かれた紙を入れて、ビニール袋をとじて、できあがり。

作りたてのビパン。おいしーい!

こんな一見ごく普通の家の中で作られていた。本当にホームインダストリー。

なお、このビパン、ここでは祖父母の代から作り続けられているもので、実は地元ではけっこう有名なお菓子であった。前のブログで紹介した休憩所Bukit Indahなどで売られているが、マカッサルへは口コミ以外では出していない。もし注文される場合は、以下に連絡をしてみてほしい。

"Sri NurさんのBipang"
Bamba Puang Lura, Enrekang
携帯:081-354-110-633

2008年10月24日金曜日

計画停電と計画断水

とうとうマカッサルでも、今月半ばから計画停電と計画断水が本格化してきた。これまで、スラウェシの他の地方都市で、停電が断続的に起こっているのに、マカッサルではあまりないな、と思っていたのだが、もはや例外扱いではなくなった。

今日(23日)は、昼間に2時間、夜間に2時間、停電になった。場所と時間を変えて、計画停電が行われている。夜の用事で、自宅から旧市内へ向かったが、ウリップ・スモハルジョ通りの両側が延々と真っ暗だった。明かりのついているのは、発電機を備えていると思しき民間企業のみ。街灯はもちろん、信号機もすべて消えている。マカッサル「大停電の夜に」という趣きの真っ暗さだった。

マカッサルに電力を供給しているバカル水力発電所のダム湖の貯水量が減少していることが最大の原因とされ、とくにダム湖の湖底に土砂が堆積していることが問題となっている。土砂が堆積するということは、上流からの土壌流失が弱まらないということ、すなわち森林伐採などで上流地域の保水力が弱っていることが関係しているように思われる。11月にはセンカンのガス発電所からの電力供給をリンクさせるので、状況は緩和するというが、期待の域を出ないだろう。

水道も、2週間前ぐらいから水圧が下がり、とうとう断水が始まった。一昨年はかなり断水がひどかったが、昨年は幸いにも断水は起こらなかった。水源からの水量が落ちていることに加え、浄水場のポンプが2基壊れたのが原因、と市水道局は説明する。しかし、市水道局から管理運営を委託された民間会社が、市からの支払いが滞っていることを理由に管理運営をやめると宣言し、10月5日から水が止まる、という話が世間を賑わせていたのを思い出す。滞納している市水道局が開き直り、民間がやらないのなら結構、自分たちでやる、と啖呵を切っていたのだが、その顛末が、今回の断水につながったと見られてもしかたがないだろう。市水道局と民間企業の騒動については、その後、新聞であまり報道されておらず、当初は断水の理由も明らかにされていなかったのだ。

今回の計画停電と計画断水は、一昨年よりもひどくなるかもしれない。一昨年のような乾季が長引いた、というような理由ではないからだ。明らかに人災という面を強く感じる。しばらくは、懐中電灯を常時携帯し、水が出る時に水をためる、という形で対処していくより仕方がなさそうだ。

2008年10月19日日曜日

トラジャの手前の隠れ家的スポット

それは、エンレカン県のバンバプアン(Bambapuang)。エンレカン県の県都エンレカンからトラジャ方面へ車で30~40分程度で、右手に木のあまり生えていない草原で覆われた山々を見渡せるところに出る。この山々は、Erotic MountainとかGunung Nonaとか呼ばれる。この景色については、「禁断の恋をした男女が神の怒りにふれて、山の形に変えられた」「その山と山の間には川が流れていて、男女はそばにいても永遠に一緒になれない」といった話が伝えられている。

地元ではBambapuangと呼ばれるこの草山の周辺には、その眺望を売り物にするたくさんの休憩所がある。それらのなかで、地元エンレカン料理を出すのはブキット・インダ(Bukit Indah: 「美しい丘」の意)という名の休憩所1軒である。ここで、下の写真のような料理を食べた。


どんな料理が出るのかというと、ナス・チェンバ(Nasu Cemba)とダンケ(Danke)である。前者は、地元でとれるチェンバという酸っぱい味の葉っぱを入れて、肉と煮たスープ料理である(ナスは「料理」の意味)。今回食べたのは牛肉だが、水牛の肉や馬肉のナス・チェンバもあるということである。牛肉を縛る紐をナイフで切り、ゴロッと外れた牛肉をスープ一緒にいただく。


ダンケは、地元産の素朴なチーズである。チーズといっても、一般的な洗練されたものではない。もともとは水牛の乳で作っていたが、今は、牛乳から作る。日持ちがしないので、通常は、写真のように油で揚げた物をいただく。触感は豆腐のような感じだ。ダンケは、県都エンレカンの手前の街道沿いに並ぶ小屋掛けの店で買ったり食べたりすることができる。


今回はこれら2つに加え、この店で飼っている鯉(Ikan Mas)も食べたが、臭みがなく、柔らかくて美味であった。

そして、今回の最大のイベントは、このErotic Mountainを見下ろすところに立地する隠れ家的宿に泊まったことである。この宿、Bambapuang Villa, Restaurant & Spaには、10室のヴィラ風の部屋があり、バリ人の建築家によって、バリのコテージ風に建てられている。部屋はとても広く、テレビ、エアコン、冷蔵庫も完備。部屋の奥のバスルームには、バスタブ、バスタブと独立したシャワー・コーナー(お湯がふんだんに出る!)があり、しかも外気が入る構造でと気持ちの良い作りになっていた。部屋の外は広いベランダで、真ん前にErotic Mountainがそびえる。


このVillaのもう一つの特徴は、夜の静けさである。建物の周りには光源となるような明かりがなく、真っ暗なのである。晴れていれば、満天の星が仰げるかもしれない。音楽やカラオケもない。なお、エンレカン県は条例でアルコール飲料の販売を禁止している。

部屋は全て東向きなので、Erotic Mountainの向こうから差し込む朝日を全身に浴びる朝となる。建物の後ろは森で、様々な鳥が飛び交い、さえずりが途切れることがない。

ただし、朝食はパン、お粥、ナシゴレンの3つから選ぶ、という普通のもの。レストラン自体も、メニューはとくにエンレカン料理を意識したものでなく、普通のものである。

この隠れ家的ヴィラの連絡先は以下の通り。経営はエンレカン県政府で、週末にはよく県知事が泊まりに来るという。満室ということはなさそうだが、準備をしてもらうために、前もって電話で予約したほうがよさそうである。

Bambapuang Villa, Restaurant & Spa
Jl. Poros Enrekang - Tana Toraja KM. 15, Kotu
Enrekang, Sulawesi Selatan
Phone/Fax: +62-420-21777

Room Rate (2007)
Deluxe: Rp. 380,000.-
Executive: Rp. 550,000.-
Extra Bed: Rp. 75,000.-
上記に税・サービス21%加算。朝食付。

2008年10月12日日曜日

スラウェシの生物多様性

この1週間、けっこういろいろあった。何といっても、急に思い立って、10月8~9日にジャカルタへ出張してしまったのが大きかった。マカッサルに戻った後、京都大学とハサヌディン大学の合同開催によるスラウェシ地域研究のシンポジウムで発表したが、1日中、冷房の利いた部屋にいたため、途端に体調を崩してしまった。日頃、エアコンを使わない生活をしていることもあるのだが・・・。

ジャカルタに出張に行った一つの理由は、生物多様性の観点から、インドネシアにおけるスラウェシ島はどれぐらい重要な場所なのか、という問いに答える情報を少しでも取りたかったためである。

たとえば、スラウェシ島の哺乳類127種のうち79種が固有種で、哺乳類からコウモリを除くと固有種の比率が実に98%になる。言ってみれば、スラウェシ島に生息する哺乳類の大半は、スラウェシ島にしかいない固有種、である。

また、インドネシアに生息する鳥類のうち、固有種は全体の23.3%にあたる372種であるが、その固有種のうち、117種はスラウェシ島に生息する。島別に見た固有種の数では、このスラウェシ島が最も多く、マルク諸島の94種、ヌサトゥンガラ諸島の68種が続く。鳥類でも、スラウェシ島はインドネシアで最も多くの固有種のいる島なのである。

わずかなデータしか集められなかったが、スラウェシ島はスラウェシ島にしかいない固有種の多い島であり、生物多様性の観点からみても、相当に重要な場所であると思われる。

スラウェシ島は、大昔、大陸地動説に乗って、北、西、南などから陸地が動いてきてくっついたため、アルファベットのKのような奇妙な形をした島になった、と言われている。その結果、中央部が急峻な山地となり、それが遮る形で、スラウェシ島の各部にある生物群の固有性が保たれたとともに、長い間に緩やかにそれらが融合して、特有の生物の種を生み出してきた、と推論できる。

しかし、こうしたスラウェシ島の固有種の生息・分布状況について、継続的な調査が行われている気配はない。バビルサ(牙の長いイノシシ)、アノア(牛と馬の中間のような動物)、マレオ(飛べない鳥)、タルシウス(小さなメガネザル)などが過去10年に生息数がどれだけ増減し、生息区域がどう変わったのか、よくわかっていない。ただよくいわれるのは、こうした固有種の生息数が徐々に減り、ほとんど人前から姿を消しつつある、ということである。

残念ながら、スラウェシの地元の人々は、こうした世界中でスラウェシにしかいない生物たちにほとんど関心がなく、また知識もあまり持っていない様子である。生活がかかっている人々にとっては、単なる害獣にすぎないのかもしれない。こうした生物多様性の観点も、人々の暮らしをどのように向上させていくのかという課題のなかにうまく関連付けて考えていく必要があるのではないか。

それはそうと、生物多様性の宝庫とでもいうべきインドネシアで、こうした生物の標本を地道に管理する施設が日本のODAで建設・運営されている。ジャカルタから車で1時間弱のチビノンにある国立生物研究センター(Research Center for Biology, LIPI)がそこである。ここでは標本を管理するだけでなく、それをもとにした生物多様性保全のための研究機能の向上が図られている。先にインドネシアを訪れた秋篠宮殿下がご覧になったというシーラカンスのはく製を見せてもらった(下写真。もう1体のはく製は発見された北スラウェシ州マナドにあり、それが日本の福島県のアクアマリンふくしまで解剖された)。


ここに収蔵されている標本の多くは、植民地時代にオランダが集めたもので、残念ながら、独立後にインドネシア政府が集めた標本はあまり多くないそうである。予算不足なのだろうか。

現在、これらの標本は空調をコントロールされた膨大なスペースにきちんと保管されている。これからずっと、いい状態で保存されていくことを願う。

貧困住民の所得向上を図るための支援も必要だろうが、こうした、世界中の人類のための共有財産とでもいうべき生物標本を地道に収集・管理し、それを生物多様性保全のための研究に生かしていくことへ支援していくことも、とても重要なことではないかと考える。すぐには結果は出ないし、インドネシア政府や住民に目に見える形でアピールできる性格のものでもない。でも、こうした標本の中から、今後の世界的な問題を解決する何かが見つかるかもしれない。

折しも、今回、日本の研究者が受賞したノーベル賞は、その目立たないが極めて重要な基礎研究に対する評価であった。生物多様性保全の基礎研究を促し、それを地球全体の共有財産として生かしていけるような長期的な活動へ支援を行うことにも、大いなる意義があると言えないだろうか。

そして、こうした生物研究センターへの生物多様性保全の観点に立った支援を行うということは、日本がインドネシアとともに世界へ貢献する、ということになるはずである。今や、そういう支援を進めていく時代になったのではないだろうか。

2008年10月5日日曜日

さあ、しごと、しごと

世の中、1週間強のレバラン休みが終わった。マカッサルに居残った私はちょっと運動不足気味。でも、それもあって、仕事先からの宿題を何とか終わらせた。

さあ、6日からは気分を変えて、しごと、しごと。


フランス料理の会(第1回)報告

レバラン中もマカッサルに残っている友人たちと、スラウェシやインドネシア東部を専門にツアーを企画しているオーストラリア在住の友人たちを誘って、de Luna Resto & Cafeでフランス料理の会の第1回を10月3日夜、試しにやってみた。今回のメニューは以下の通り。1人30万ルピアでやってくれた。

前菜のサラダ
Jumbo Premium Salad with Melon & Orange Vinaigrette

メインの「エビのチキン巻き、マドラス・カレー・ソース和え」
Chicken Breasts with Prawn in Maddras Curry Sauce

デザートの「ガトーショコラ&ピスタチオ・アイスクリーム」
Moelleux au Chocolat, Glace Pistache

これらにワイン、パンとコーヒー(エスプレッソやカプチーノが可)か紅茶がついた。レバラン中なので、ワインは、レストラン手持ちのカリフォルニア・ワインの白が出された。

スープのない、シンプルなメニューだったが、意外にボリューム感があって、食後は満腹感があった。とくに、デザートのガトーショコラが温かく、中のチョコレートがとろーりとあふれてきて、ピスタチオ・アイスクリームとの相性がバッチリであった。

料理自体は、素材の味を出そうとしたのか、穏やかな味付けだった。まあ、最初ということで、料理人のエコさん自身が反応を見ようとしたのかもしれない。

部屋は個室で、食後にカラオケができるように用意していた様子。まあ、カラオケはしなかったが・・・。

これから何回か試行して、地元素材の活用と味付けのさらなる工夫がなされていくことを願っている。ちなみに、10月中にまた同様の会を企画したいと考えている。前回のブログに書いた連絡先に直接予約してもらっても、もちろんかまわない。

それにしても、自分で言うのもなんだが、このブログ、どんどん食べ物の話ばかりになってきてしまった・・・。



2008年10月3日金曜日

レバランでおいしいもの

出遅れでマカッサル脱出とならなかった今回のレバラン。仕事先からの「宿題」もあり、まあそれなりにいろいろと、しかし、ゆっくりと過ごしている。

運転手には1週間のレバラン休暇を与えたので、今週は、人通りが少ない(はずの)マカッサル市内で自転車三昧、と思っていたのだが・・・。なぜか、ハンドルから本体につながる金属部分がパカッと切れてしまって、操作不能になってしまったのが10月1日。不幸中の幸いか、自宅から街中までの大通りではなく、街中だったので、厚かましくも、近くの友人宅に預かってもらうことにした。まだ買って1年ちょっとしか経っていないのに(まあ、そんなもんなのかな)。もちろん、自転車屋はまだ開いていない。

世の中、お店はモール以外はほとんど閉まっているので、外食するのは大変だ。ムスリムのお手伝いの多くは規制するのだが、その点、我が家のお手伝いは帰省しないので、家にいる限り、食事は問題なし。例年どおり、今回のレバランでも、クトパッ(米を葉っぱに包んで蒸したもの)とカリ・アヤム(鶏肉カレー)を作ってくれた。クトパッは、言ってみれば、日本の正月の餅のようなものだ。


たまたま帰省しなかった我が家に出入りする若者たちと一緒に、「お正月特別料理」を楽しんだ。

祝日2日目の昼食は、サゴやしデンプンの団子入りスープである「カプルン」を作ってくれた。お手伝いは、南スラウェシ州北東部、今の北ルウ県で育ったため、彼女の作るカプルンはいつ食べてもおいしい。今回は、鶏肉のカプルン。いつもはミルクフィッシュ(イカン・ボル)を使うのだが、鶏肉のも変わらず美味だった。



2008年9月30日火曜日

もしかして違う道だったのかも・・・

2日前に書いたブログ。あまりにも1年前に訪れた時と変っていたので、もしかしたら、間違って違う道を通ったのかもしれない、と後で思い起こしていた。より、もう一度、行ってみよう。ということで、もう一度、自転車に乗って行ってみた。そして、やはり2日前に書いたブログの道は、違う道だったと分かった。読者の皆様にお詫び申し上げたい。

今回、通った道の様子は以下のようである。

(2008年9月30日)

(2007年7月28日)


(2008年9月30日)

(2007年7月28日)

明らかに、2日前に通った道とは違う。でも、やはり変化は起きていたのだ。道幅は広くなり、バナナの木も本数がだいぶ減っていた。水路は、1年前にはなかったホテイアオイで埋め尽くされていた。道の脇には、やはり、ひょろひょろっとした苗木らしきものが植えられ、放置されていた。

似たような光景が似たような場所にあって、地図で正確に確かめないと、どこを通っているのかわからなくなることもよくある。

でも、今回通った道も違う道だったりして・・・。