2011年2月8日火曜日

バティック・バンテン

バンテン州セランで、前から行きたいと思っていたバティック・バンテンの工房を訪問した。工房主のUke氏は、10年ほど前から工房を開き、バンテン王国の故事から75種類のモチーフを現代によみがえらせ、そのうちの20種類のモチーフを使って、バティック・バンテンを作ってきている。

この工房の特徴は、手書き(tulis)と型押し(cap)でバティックを描いていることで、今、はやりの安価で大量生産可能なプリンティングは一切行っていない。


ロウを溶かす燃料には、灯油ではなく、薪を使っている。Uke氏曰く「自然に優しいし、コストも1日たった500ルピアで済む」とのこと。





筆者が今回、バンテン州の友人からいただいたバティックのモチーフはラゲンマイタ(Langenmaita)。帆船で愛を育んだ幸せが到達する港、という意味だそうである。大変おめでたい意味で、その友人の気持ちがモチーフの持つ意味を通じて感じられる。自分で購入した布のモチーフはマンダリカン(Mandalikan)。その意味は、イスラム教の布教の際に、バンテン王国のアリア・マンダリカ王子に授けられた称号、ということである。


Uke氏は長年、スマトラのブンクル州に滞在したことがあり、そのときに、彼が考案した地元バティックが、現在のバティック・ブスレック(Batik Besurek)なのだそうである。ブンクル州のバティック・ブスレックについては、以前、ブログでも紹介した。

 ブンクルのバティック

バティックがユネスコの無形文化遺産に登録されて以来、インドネシア各地で様々なご当地バティックが勃興している。新しく考案されたものが多いなかで、他とは違う何か、とくに歴史から掘り起こした深さと丁寧な制作作業が新たな価値を見出していくのではないか、と思える。


マレーシアの国際バティック・コンテストにおいて、モチーフ部門で第1位になったバティックの布を購入した(上写真)。モチーフが明るく前面に出てくるのではなく、落ち着いた色彩のなかに渋くモチーフが描かれていた。生地の絹がとてもなめらかである。普段着では着られないような布地だったが、値段は想像よりもずっと安かった。バティックにあるような物語が、絹の布地にはまだないからなのかもしれない。

2011年2月5日土曜日

カレー麺系


先日、ミー・アチェ(Mie Aceh)の汁そばを食べた。いつもは汁なしのカレー焼きそばなのだが、今回は汁そば。生のバワン・メラを入れて食べると、カレー味のスープと絡んで、何ともいえぬおいしさが口の中に広がる。

カレー麺といえば、私の最大の好物はマレーシアのラクサ・ペナン。そして、それに勝るとも劣らないのがタイ・チェンマイのカオサイ。麺は異なるが、これら3つには何かつながりを感じる。チェンマイ、ペナン、アチェ。

2011年2月4日金曜日

中国正月の金徳院

2月3日は中国正月で、インドネシアは祝日。ジャカルタ最古の中国寺院の金徳院へ出かけて、「初詣」で賑わう様子をみてきた。

金徳院へは、グロドック側から入った。


キティちゃんの刺繍の入った赤い子供服。


通りで物売りをしている青年も赤い服を着ていた。



赤い提灯も掲げられていたが、これは何と読むのだろうか。


おじさんが後ろでギコギコ漕いで、子どもが前の車に乗って遊ぶ、の図。

グロドックから10分も歩かないうちに金徳院へ到着。


もうもうと線香の煙が立ちこめるなか、人々が祈りを捧げる。





上の最後の写真は、千手観音に手を合わせている。ここには行列ができていた。


金徳院の境内で、華人系の青年とムスリムの女性のカップルに出会った。とっても仲の良さそうな二人。青年が女性に祀られている神様についていろいろ説明していた。ジルバブ姿の女性がいても、とくに違和感を感じることはなかった。


境内の外には、たくさんの物乞いの人たちが待ち受けていた。彼らの場所にはひもが張られ、警備員が監視していた。


中国正月の金徳院へは、1991年の中国新年が明ける深夜0時頃に訪れたことがあった。ときはまだ中国文化の表出を押さえ込んでいたスハルト時代、ジャカルタの街中に何も中国正月の気配がないのとは対照的に、金徳院はたくさんの華人系市民でいっぱいだった。

中国正月が大っぴらに祝える現在、金徳院をめぐる空気のすべてが和やかに感じられた。境内で擦れ違う人々が柔らかな微笑みを返してくれた。