2012年6月22日金曜日

バティック・パプアについて

パプアを訪れてからだいぶ経ってしまいました。今は、シンガポールでこれを書いています。

最近、インドネシアでは、バティック(蝋纈染め)がユネスコ無形文化遺産に登録されてから、全国各地でご当地バティックが作られるようになりました。そして、公務員は毎週金曜日にバティックを着用することになりました。

もちろん、パプアでもバティック・パプアが店で売られ、公務員たちは金曜日にはバティック・パプアを着用します。バティック・パプアのモチーフは極楽鳥(チェンデラワシ)、太鼓などの楽器、が主なものです。

このバティックのすべてが、実はバンドンやジョグジャカルタなど、ジャワ島で作られ、パプアに送られてきます。しかも、そのほとんどは、布に印刷されたプリンティング・バティックです。モチーフはパプア風ですが、色違いで模様はほぼ同じ、というバティック・シャツです。手書きのものも若干ありますが、それらもまた、ジャワ島で作られたものです。

実は昔、別のバティック・パプアがありました。私は1995年に、ビアク空港の売店でバティック・シャツを買ったのですが、トカゲと人の絵の入ったステキなものでした。このときのバティック・パプアは、州都ジャヤプラの郊外のワイエナにある州営企業で作られていました。しかし、その企業は2000年頃に閉鎖され、バティック・パプアは消えてしまいました。

今のバティック・パプアは、そのパプア産のバティック・パプアの流れとは別な話として現れてきたものです。

本来、バティックは、ジャワ文化の産物でした。パプアの人々は、一部を除いて、そうした布を作って身につける文化を持たなかったと考えられます。その意味で、パプアにとってのバティックは他所からもたらされた外来文化です(余談ですが、他のご当地バティックの多くも同じような構造を持っています)。

しかし、そこにパプア風のモチーフが使われ、パプアの人々がバティックを着るようになると、バティック・パプアがあたかも自分たちの産物であるかのような空気が作り出されてきます。しばらくすると、バティック・パプアを誇らしげに語り、我々外国人に土産物として勧めるといったことが起こってくるかもしれません。

しかし、それはパプアの人々が作りだしたものではなく、モチーフを借りたジャワ島の人々が作ったものなのです。バティック・パプアが売れても、その売上のほとんどはジャワ島へ還流していきます。

バティック・パプアを誇らしげに語るパプアの人々にとって、自分たちの文化とは一体何なのでしょうか。

パプアの人々は、自分たちはジャワやスマトラとは違う、と独自性を強調します。しかし、自分たちが作ったものではないにもかかわらず、バティック・パプアを自分たちのものとして認識するのは、よそ者によって作られた文化的産物を自分のものとしてそのまま受容する、という形態に他なりません。

実は、バリ島で有名なケチャック・ダンスなども、土着のものをドイツ人がアレンジしたものが今に伝わっているという話です。よそ者によって作られた文化的産物がそこの人々のものとして受容される、というのはパプアに限った話ではありません。

パプアの人々にとってパプアたるものとは何であるのか、という問いは、独自性を強調するパプアの人々自身が自らをどれだけ深く理解しているのか、という問題と重なってきます。

ジャヤプラを離れる前、州立パプア博物館に立ち寄りました。誰も来訪者のいない閑散とした館内には、アスマット族の素晴らしい彫刻品など、様々な展示物がありました。パプアの人々は、パプアという括りの前に、自分たちの種族の独自の文化的産物を持ち、それに魂を入れ込んできたことが感じられる展示物でした。しかし、それが、パプアに人々自身に見られることなく、展示されているのです。

自分たちの独自文化への無関心、それとは対照的な、外部者によって作られた文化的産物の受容、といったものに、パプア人の外部者に対する意識が絡んで、パプアを強調する動きを形作っており、その文化認識が意外に浅いことをまざまざと感じたのでした。

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