2008年5月15日木曜日

ジャカルタ暴動から10年

すなわち、スハルト政権が倒れてからもう10年も経つのだ。あの時起こったジャカルタでの暴動。ジャカルタ在留邦人だけでなく、ジャカルタから遠く離れた場所に住む邦人もすべて避難勧告が出たあの暴動から10年が経とうとしている。

本日付のKompasに、これに関連したいくつかの記事が掲載されていた。その言わんとするところは、この10年であの暴動が何も総括されていないのではないか、あの暴動から何を学んだのだろうか、という問いであった。なぜ暴動が広まったのか、誰が扇動したのか、なぜ罪のない市民(とくに華人系市民)が襲われ、とりわけ華人女性がレイプされたのか。この10年で、何一つ真相が明らかになったとはいえない。被害にあった人々のトラウマは完全に癒えたとはいえないのに、現実には放置され、真相は闇の中に葬られようとしている。

9・30事件も、マラリ事件も、ムニール毒殺事件も、マルクの暴動も、その他多くの事件も、その真相が明らかにされないままで放置されている。誰かにとって都合の悪い事実が現れるとしても、真相を明らかにすることで、新しいものが生み出されるのではないだろうか。インドネシアはまだ、そのような都合の悪い真実が露出することで社会が動揺し、不安定化することを恐れているように感じる。そうではないだろう。真実が明らかになっても、容易には不安定化しない成熟した社会を作っていくことが、これからのインドネシアの課題の一つなのではないか。

まだまだ「自分は悪くない」と言い張ったり、石油製品価格上昇に反対して資本主義や外国勢力を敵視したり、自分や現実と向き合おうとしない態度があちこちで見られるが、それらが世論全体の大きなうねりとなることはなくなった。うねりを作るために暴力的行為を煽っても、一般の人々は簡単には同調しなくなった。あれほど混乱するといわれた大統領・地方首長直接選挙をそれなりに穏当にやり遂げられる能力を身につけたインドネシアは、徐々にではあるが、成熟した社会へと向かい始めたと思える。

そして、暴動や暴力の被害を受けた人々の現在に思いをいたせる感性や共感を抱ける人間としての感情を、普通の人々が普通に持てるような社会になっていってほしいものだ。

10年前のジャカルタ暴動からまだ多くを学べていないインドネシアだが、普通の人々の暮らす社会は着実に成熟化(以前私が使った用語を用いれば「普通」化)への道を歩み始めたと信じてみたい。

でも、過去に学んでこなかったのはインドネシアだからなのだろうか。

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