バイクや車の走行マナーがインドネシア最悪といわれるマカッサルの街中で、危険だとか排ガスだらけになるとか無謀視されてはいるが、自転車で出歩くのが楽しい今日この頃。
タマランレアの我が家から、南へ下って、アンタンにある華人墓地を訪れてみた。ここは、今から20年ちょっと前に、現在の州知事オフィスがある場所から移された。それ以前、華人墓地は今の中央市場(Pasar Sentral)の辺りにあったそうである。
入口を自転車で入る。中は予想以上に広い。自転車で来たのは大正解。一番奥まで入ると、目の前には、国家行政院(LAN)の立派な研修所がそびえ立っていた。
屋根つきの立派な墓が並んでいる。これだけで、ちょっとしたクレンテン(中国寺院)の大きさはあるかもしれない。
一番奥からぐるっと走っていくと、1950年代前後に作られたと思われる小さな墓がずらっと並んでいた。出身地は広東、一族の墓なのだろう。
一族の本家と思しき大きな墓が小さな多数の墓を従えて立っている。その墓の右脇に「福神」と書かれた小さな石があり、そこにも線香が手向けられている。
小さな墓群を後にして、石を彫る作業をしているおじさんに出会う。彼、パルジョさんは中ジャワ州サラティガの出身で、マカッサルに来て20年。父親の後をついで、華人の墓石にレリーフを彫る仕事をしている。「注文を受けて作っているのですか」と聞くと、「そうではないんだが、前もって作っておくんだよ」とノミを使いながら答える。彼の作業小屋の後ろもいずれ墓になるそうだが、まだ10年ぐらいかかると目論んで、芋や野菜を植えて畑を作っている。「すみません、仕事の邪魔をしてしまって」と一応言うと、彫りのインスピレーションが沸かなくなれば、作業をやめて家で休む、まあ、のんびりとやってるよ、という感じのパルジョさん。広い木陰を通り抜けていく風の心地よさを感じながら、気持ちのいい時間が過ぎていくのを味わった。
華人墓地の中は、福建出身者と広東出身者で場所が明確に分かれている。多くの墓碑には、故人の出身地が明記されている。パルジョさんによると、かつては、屋根つきの墓が多かったが、最近は屋根をつけないようになっているとのことだ。
出口に近い小屋には、墓作りや墓守をしている兄ちゃんたちがたむろしていた。「のど渇いただろ、ソーダ飲めよ」といきなり栓を抜いたソーダを渡され、ゴクゴク飲む。「俺も1本飲むからな」と兄ちゃんの一人がソーダを飲む。おお、これも払うのだな、と思っていると、案の定、「よろしく」と2本分3000ルピアを支払う。「そういえばここに日本人の墓があるんだぜ」というので、確かめに連れて行ってもらう。「ここだ」と指差された墓は、華人の名前の墓。ただし、「孫」と書かれた部分に日本人の女性の名前が2人刻まれている。日本人の方がお参りに来るそうだ。
ちょうど、昭和6年頃(注:先に書いた「戦時中」は誤りでした。お詫びして訂正します)に立てられた日本人共同墓地の場所を探しているところで、気にはなったが、いつものごとくのお兄ちゃんの勘違い。それにしても、インドネシア語ブログにも掲載したマカッサルの日本人共同墓地はいったいどこにあったのだろうか・・・。
4 件のコメント:
めちゃめちゃ近くにいらっしゃってたんですね。
次回はぜひうちに寄ってってください。
ちなみにあの墓地は何年後かに土地の契約期限が切れて、バスターミナルになると聞いたことがあります。
でも墓地って簡単に引越しできるもんじゃないですよね・・・
uborさん。こんばんは。
そしたら、今度、自転車で遊びに行きますね。でも、これまでに華人墓地は2回も引っ越してますからね。引っ越しちゃうのかもしれませんよー。
マカッサルは急速な発展に伴って、墓地もどんどん郊外に移転させているんですね。これからは墓地を公園化して都心に残すことも考えたほうがよいかもしれないですね。
横浜では外人墓地は観光名所の一つです。Panyingkul の何かの記事にありましたが、墓地は現世とあの世との中間的空間です。こんなすばらしい観光資源はないですよ。トラジャでは葬式が観光資源です。東京の青山墓地だって街中です。マカッサルの市の幹部に横浜の外人墓地を是非ご案内したいです。
コメントを投稿