2008年9月22日月曜日

辞職=責任をとる?

今日、自民党の総裁選が予想通りの結果で終わった。これについては何の感慨もない。日本の外から見ているせいもあるのだろうが、次から次に明るみになる深刻な問題の本質を解決しようという真剣さが見えず、小手先でかわそうとしているようにしか見えない。しかし、そんな現状を思い切って変えようという真剣な動きもなかなか見えてこない。

このまま日本はずるずるっと沈んでいってしまうのではないか。インフレ気味で、様々な問題は内包しているものの、経済全体がそれなりに活況を呈しているマカッサルにいる身からすると、失礼ながら、そんな印象を持ってしまうのである。この間、垣間見たマレーシアやカンボジアの躍動感につながる気分をここでも味わえるのだが、ゴタゴタの日本はずっと遠くなってしまうかのようである。

それでも、当地の多くの人々は、以前の日本をまだイメージしているのかもしれない。太田農水相が辞任した際、当地の地元マスコミは、「日本では責任を取って辞任するのに、インドネシアの政治家は辞任する者はいない。恥を知らないのか」と、またまた日本のハラキリ礼賛の論調を展開した。福田首相が突然辞任したときも同様であった。日本のマスメディアが伝える感覚とのギャップがとても大きいのである。もっとも、福田首相が辞任した際、日本のある有名な専門家が、「福田首相の辞任は責任をとる立派なものであった」と論じたのを、複数のインドネシアのメディアが報じていたのが興味深かった(インドネシア語記事の例)。なぜなら、この専門家の見解自体が日本の世論とかなりかけ離れているように見えたからである。

当地には、いわゆる恥の文化がある。恥をかかされた際、それが自分に非のあるものならば、潔くそれを認める。これは日本の武士道と同じなんだ、という人もいる。日本の政治家の辞任は、こうして、今も「武士道の表れ」と解釈する言説が根強いのである。

官僚や政治家が責任を取らない、という現象は、日本もインドネシアも同じではないだろうか。責任をとるということは、職を辞める辞めないではなく、誰かのせいにすることなく、自分の真剣さを誠実に相手に見せることから始まるのではないだろうか。

どういうふうに調べたかは忘れたが、「インドネシアは世界中で最も親日的だ」という調査結果を見たことがある。日本人としてもちろん歓迎すべき話ではあろうが、それが、ちょっと前までの日本の素晴らしさをイメージして、日本を美化してくれる人々のおかげである、という現実をおさえておかなければならないだろう。

負の部分も含めて、本当の日本の姿をもっとインドネシアの人々に伝えていかなければならないと思うのだが、それは、心優しきインドネシアの人々の日本への憧れにも似た気持ちを落胆させ、日本への関心を急速に冷めさせる効果をもたらすかもしれない。虚像でも何でも、とにかく日本に親近感を抱いてくれればラッキー、という時代はもう終わったのではないか。そして、プラスもマイナスも理解したうえで、ちゃんと付き合う関係を作る時代を迎えているのではないかと思うのだ。

本当の親友、かけがいのない友は、そうやって作るものだろう。国と国との関係も、個々人の親友づくりと同じではないだろうか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

何故、日本のマスコミ報道と海外メディアの報道には大きなギャップがあるんだろうか。日本の世論は日本のマスコミによって大きく影響を受ける。結構海外メディアの方がまともな場合が多いように思う。遠くから見た方が全体像が掴めるからなのでしょうか?彼らの日本への見方は大変参考になる。