2008年8月30日土曜日

コミュニティ新生

先週のカンボジアへの出張で出席したワークショップでは、一村一品運動と地域コミュニティ開発をどのようにリンクさせていくのか、ということが大きなテーマの一つであった。そして、それがカンボジアでも、言うは易く行うは難しである、という当たり前のことを改めて感じた。

言うまでもなく、カンボジアでは、1975-1979年の悲劇の影響が今の社会にも低奏通音のように響いている。あの記憶を曲がりなりにも覆い隠しながら、懸命に前へ向かって進んで行こうとしている様子が、あちこちからうかがえた。

プノンペンを発つ前に、Tuol Sleng博物館を訪れた。ここはもともと高校だったのだが、ポルポト時代に刑務所に変えられ、かつては生徒たちの笑い声が聞こえたであろう旧教室で、おぞましい数の人々が処刑された。旧教室の一つ一つには、古ぼけたベッドと手足を縛った鎖、そして壁には、そこで遺体が発見された時の様子を描いた絵が掲げられている。その絵が部屋毎に違うということは、まさにその部屋で起こった様子が描かれている、と想像できる。別の棟には、処刑された人々の顔写真がひたすら貼られていた。乳児から老人に至る無数のそれらの顔すべてに、私は直視されていた。


きっと、自分が生き残るために、誰かを「敵」として密告した、あるいはせざるを得なかった者も少なくなかったことだろう。生き残った者も深い深い傷を心に持ちながら、厳しいが平穏になった世の中を懸命に生きているのだろう。

そのような人々に、コミュニティ開発を進める前提として、よそ者が過去の振り返りを安易に促すことは、とても辛いことだ。ここ南スラウェシもそうである。1950年代後半の地方反乱で、隣近所で殺しあったこと、何もかも失って見知らぬ土地へ必死で逃げた人々、村や伝統文化・慣習の消失、といった記憶はいまだに生々しい。また、よそ者である私が言うのは当事者の方々に対して大変におこがましいのだが、地元学の端緒が水俣で始まったとき、そしてその後のプロセスでの苦しさやつらさは、想像を超えてあまりある。

時間がかかるし、その記憶が完全に消えることはおそらくない。いや、本当は、忘れてはいけない記憶というべきなのかもしれない。そうした過去を少しでも見られるようになる日をじっくり待たざるを得まい。

今回のカンボジアの経験で、一つ学んだ大きなことは、伝統や地域アイデンティティは、過去を踏まえつつも、新たに作り出していけるものだ、ということである。前にパプアで、「歴史や文化がよそ者に略奪されて自分たちは何も持っていない」という友人たちに、「今から歴史を作っていこう」と呼びかけたのを思い出した。

自分たちが気の付いていない地域資源やいつもは捨てているものの中から、あらたなモノやコトが生まれてくる可能性。いつか過去を直視できるようになるまで、そうした視点も重要になってくるだろう。コミュニティ再生は、コミュニティ新生であってもよいのだ。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今まで、そしてこのごろ特に感じていたことを見事に言葉にしてくださっていて、心を動かされました。
「新たに作り出していけるもの」「コミュニティ新生」ということ、これには「ヨソモノ」や「新しく加わった人」がうまくかかわっている場合が多いと実感しています。

観光客の勝手な思いかもしれませんが、タナ・トラジャのお葬式を初めさまざまな観光対象となっているものが、観光によって汚されるのではなく、それによって新たな力強さをもって新しく息づいていってくれるのであれば、うれしく思います。

汚されるとか力強さとかが何か、ということを突き詰めていくとまた難しいのですが。