2009年2月26日木曜日

賑やかさと静けさと

こどものチカラでいったんは元気になったような気がしたものの、やはり、気持ちの起伏がけっこう出てしまい、なかなか安らかになれない日々が続いている。ふと気がつくと、先週のあの話を思い出してしまう。どうしてなのか分からないが、「自分に全く関係のない話だ」と割り切れないでいる。それ以外にも、気になることがいくつかあって、気分が晴れないような気がしている。

このところ、我が家にまた以前のように若者たちが集ってくるようになった。今日は、2階でハサヌディン大学で日本語を学んでいる学生たちがたくさん集まって、歌やゲームをしながら、誰かの誕生会を賑やかに祝っている。1階の図書館では、夕方から批判的な視点でエッセイを書こうとしている若者たちの勉強会が行われている。

2階からは、インドネシアの若者の間で大ヒットしたKiroroの「未来へ」の歌声が聞こえてくるが、私は自室で、数日前に友人からもらったMiles Davisのアルバム「Kind of Blue」を聴いている。Milesのトランペットがしっくりと心に滲みわたってくる。同じくBill Evans好きの友人が、このアルバムのピアノがBill Evansだというので、おまけにもらったのだ。でも、今の気分にしっくりきたのはMilesのトランペットだった。

自室の静けさのなかで聴くMiles。何となくだが、救われるような気分に浸っている。


2009年2月22日日曜日

こどものチカラ

実は先週、とてもショックな知らせを聞き、久々に落ち込んでしまった。この2~3日間に実際にお会いした方々は、あまり気がつかなかったかもしれないが、誰とも口をきかず、しばらく一人になって、思い切り泣きたいような気持ちになっていた。でもその反面、友人や知人と会って、たわいもない話をひたすらしたいような衝動にも駆られていた。何となく安定しない重い気持ちで悶々と過ごしていた。

今日、日本から友人が家族3人で我が家にやってきた。夫婦とも、知り合ってからもう10年前後の月日が経ち、どうしてるかなあと気になって仕方のない友人なのだが、2年ぶりの再会となった。2年前に会ったときは生まれて間もなかった娘さんは、可愛い3歳児になっていた。最初はちょっともじもじしていた彼女も、だんだん慣れてきて、お絵かきをしたり、バリの猫のお人形で遊んだり、折りたたまれている地図を何枚も床に広げて並べて迷路遊びをしたり、かけっこをしたり、一緒に遊んでもらった。

そして、ふと気がついた。この子と遊んでいるうちに、なぜか気持ちがどんどん元気になってきたのである。そして思い出した。以前、マカッサルに住んでいたときに、ちょうどこの子と同じぐらいの歳だったわが娘とよく遊んだことを。一緒に遊びながら、私が、こどものチカラを吸収しているような、でもそんなことでなくなることはないような無尽蔵のチカラを子どもが持っているような、そんな気がしていた。

今まで、いったい何度、こうしたこどものチカラに助けられてきたことだろうか。そして、今回も助けてもらったのだ。友人夫妻の娘さんが我が家で思う存分遊んでくれて、本当にありがたかった。ありがとう、また遊ぼうね。重い気持ちが完全に吹っ切れるのは難しいだろうけど、少なくとも「明日も元気に」ってまた思えるぐらいには回復したような気がする。

2009年2月17日火曜日

駆け足でゴロンタロ、空港のナシゴレン

15日にゴロンタロに到着し、16日朝に仕事を済ませた後、午後の便でジャカルタに出る、という駆け足でゴロンタロへの今回の出張。16日はゴロンタロ州の設立8周年記念日で、祝賀行事がたくさんあるのだが、何せ、17日に急にジャカルタで用事が出来たので、昼食もとらずに、ゴロンタロ市街を後にして、空港へ向かった。ゴロンタロ市街から空港までは約1時間弱かかるのである。

とはいえ、案の定、ジャカルタ行きの飛行機は1時間遅れなので、空港で昼食をとることにした。チェックインを終えて、空港税(9,000ルピアから11,000ルピアへ値上がりしていた!)を払って、いつものように、レストラン『ラフマット』で食事しようと思ったら、閉店していた。しかたないので、ラウンジに乱入。通常、クレジットカードのプラチナやゴールドを持っているとタダで使えるラウンジだが、インドネシアでは、たいていどこでも、お金を払えば利用できる。

今回のこのラウンジは、35,000ルピア払った。しかし見たところ、コーヒーと紅茶とお菓子はあるが、食事は出ていない。何か食事を出せるかと聞くと、ナシゴレンができるという。そこで、まったく期待せずに、ナシゴレンを注文した。20分近く待って、ようやく、係員が大きめの紙箱を持って登場。はたして、そのなかにナシゴレンが入っていた。係員の兄ちゃんが知り合いの小食堂か何かで作ってもらったのを持ってきたのだろうか。

ところが、このナシゴレン、意外なことに、とても美味しかったのである。今までいろんな空港でナシゴレンを食べてきたが、それらのなかでも最もおいしい部類に入るナシゴレンだった。ゴロンタロ空港でお腹がすいたら、ラウンジに乱入して、ナシゴレンを頼んでみよう!

ちなみに、ナシゴレンを頼んだにもかかわらず、最初に払った35,000ルピア以外の追加料金は一切払わなかった。

2009年2月14日土曜日

今週ちょっと嬉しかったこと

今週初め、仕事でJICAのあるプロジェクトの成果発表セミナーに出席した。

このプロジェクトは、南スラウェシ州内の3県を対象に、各県政府が選んだ村に対して少額のブロックグラントを提供し、それと村人たちの自前資金も動員して、村人たち自身が作業して、トイレを整備したり、乳幼児向けの保健施設を整備したり、歯磨きキャンペーンをしたり、と、ちょっとした活動を行っている。村人たち自身が作業するので、活動に対するオーナーシップがこちらも驚くほど高まっている。

このセミナーで、ちょっと嬉しいことがあった。ある県の発表で、「JICAプロジェクトが終わった後、自分たちでこの事業をどう実施していくか、すでに計画を練っている」というのである。このプロジェクトの対象であるその県のある若い村長は、JICAなしでもこの活動を引き続き実施するために、すでにいくつかの行動に着手している、と大演説した。これで雰囲気が変わったのか、「JICAの後は引き続きほかの団体に入ってもらいたい」と先日発言していた別の県の発表でも、「JICAプロジェクト終了後には、県政府が責任を持って事業を引き続き実施していく」と明言した。

翌日、3県政府の代表が州の保健局に参集して、JICAプロジェクト終了後に、具体的にどのような予算措置をとって事業を継続していくか、各県のアイディアをもとにした議論が行われた。

このJICAプロジェクト自体は、もちろん、終了後にインドネシア側が自前で実施していけるようになることを念頭に置きながら活動を進めている。このプロジェクトが、村人のオーナーシップを引き出してしまった以上、インドネシア政府側も、JICAがいなくなても、もはや中断はできないという認識のようだ。

今、少なくともスラウェシでのJICAの協力は、こうした「終了時にインドネシア側が自立して同様の活動を自前で行なっていけるか」という点を強く意識しながら実施されている。インドネシア側はもちろん、日本側も経済協力に対する認識を改めるべき時代を迎えていると思うのだ。

ちょうど同じ時期、マカッサルで複数の国際機関が教育関連の支援に関する2日間のセミナーを開催した。その席上、今後も南スラウェシ州にどんどん援助を提供する旨の発言があったとのことである。かたや相手のオーナーシップを高めて自立をめざし、かたや退出戦略を持たずに援助を供与し続ける…。このような状況下で、インドネシア側の自立を促す支援を遂行していくための様々な戦略と行動が求められてくることになるだろう。

2009年2月10日火曜日

マカッサルのタクシー、また進化

マカッサルのタクシーは、運転手の顔つきが怖く、運転もちょっと荒い。しかし、これまでに、回り道をされたり、ごまかされたり、メーターを倒さなかったりしたことは一度もない。Bosowa、Putra、Gowata、Gowamas、Lima Mudaといろいろな会社のタクシーが走っているが、どのタクシーに乗っても、問題を感じたことがない。

ジャカルタでも、マナドでも、マカッサル以外の町でタクシーに乗って、いやな思いをしたことがいろいろあるだけに、なぜマカッサルではそういうことに出会わないのか、あるいは単に運がいいだけなのか、不思議である。

そのマカッサルのタクシーの中で、BosowaとGowamasの新車に、メーター金額のレシート印刷機能が付加された。レシートには、料金以外に、タクシー番号、乗車日付、乗車時間が記載される。実は、この機能、1990年代初めのジャカルタのタクシーには普通に付けられていたものである。その後、この機能はなくなって久しかった。

もう一つ。Bosowaは、タクシーの車内に忘れた落し物の預かり品リストを地元紙Tribun Timurに掲載している。落し物を発見した日付、タクシー番号、落し物の概要、落とし主が引き取ったかどうかの有無、が記載されている。これは初めて見た。

PutraやGowamasのタクシーには、DVDプレーヤーが設置され、お好みのDVDを車内で鑑賞できるようになってからもう2年ぐらい経った。ジャカルタでは、黄色のTrans Taxiがこの方式を取り入れているのが知られる。

マカッサルは、どのタクシーでも安心して乗れる町、と太鼓判を押したい。そして、これからもずっとそうあり続けてほしいものだ。

ファシリテーター講習:基礎編

たまたま短期専門家でマカッサルにいらしていた中田豊一さんに講師をお願いし、青年海外協力隊員らを対象とした「ファシリテーター講習:基礎編」を1月31日に開催した。その様子については、私の所属するNGOのブログで紹介した。興味のある方は、以下のリンクからアクセスしてご笑覧いただきたい。

ファシリテーター講習:基礎編

また、私の所属するNGO「あいあいネット」について興味や関心のある方は、ご遠慮なく連絡いただければと思う。


2009年2月7日土曜日

トランス・スタジオ・リゾート計画

「マカッサルで、東南アジア最大の、ディズニーランドのようなレジャーランドを建設中」と書いたら、いったい何人が信用してくれるだろうか。

トランス・スタジオ・リゾート・マカッサル(Trans Studio Resport Makassar)と名付けられたプロジェクトは、マカッサル南西のタンジュンブンガ地区に向かう「海の中道」の途中に、総敷地面積11万平方メートル、23種類の遊具を備えた2.2万平方メートルの屋内施設を建設中である。Theme ParkとMagic Cornerはすでに70%が完成、2009年6月中旬の営業を予定している。また、Hollywood Scenes、Thrilling Adventure in the Lost City、Trans Studio Walk、Tropical Atrium、Fashion Hubなどの施設は、2010年の完成を目指すとしている。

このプロジェクトは、ハイルル・タンジュンを総帥とするパラ・グループとユスフ・カラを総帥とするカラ・グループの合弁で進められており、総投資額は1兆ルピアに上る、と2009年2月7日付FAJARが報じている。リゾートの入り口には5つ星ホテルと12階建てのオフィスビルも建設されるそうである。

しかし、この夢のような計画は、予定どおりに実現するのだろうか。世界的な景気後退の影響を受けて、マカッサルでも大規模なビル建設などの資金繰りが危うくなり始めている。カラ・グループが中心部に建設しているカラ・タワーも建設を一時中断するという話が出ているほどである。

空港も新しくなり、東南アジア最大の敷地面積ということで外国からの客も見込みたいところだろうが、現実に即して、注意深く見ていく必要がある。これまでのマカッサルでのホテルや施設の状況からすると、例外はもちろんあるものの、メンテナンスが悪くて、1年経ち、2年経ちすると、中身がどんどん陳腐化するケースがよくみられる。鳴り物入りで建設したセレベス・コンベンション・センターは、手抜き工事がばれて、床の全面張り替えを余儀なくされ、イベントも少なく、閑古鳥が鳴いている様子だ。

このリゾートで働く従業員の募集広告も新聞に掲載され始めた。このご時世で、どこかの国では、中高年の人々までもがこうしたリゾートへの就職に殺到しているようであるが、マカッサルではどうなるのだろうか。はたして、6月の仮オープンにこぎつけられるかどうか、見守ることにする。

2009年2月1日日曜日

マカッサル空港の運航便発着情報

本ブログの「スラウェシ旅行リンク」にマカッサル空港(スルタン・ハサヌディン空港)の運航便発着情報(速報)へのリンクを掲載した。

このところの悪天候で、航空機の運航状況がなかなか予測できないが、これである程度情報を把握することができる。

それにしても、この運航便発着情報はありがたい。途中で中断することなく、ずっとメンテナンスされることを祈る。


2009年1月31日土曜日

とり天とKさん

あの日、私は大分駅の近くの小さな飲み屋でKさんと語り合っていた。Kさんは、「大分に来たならとり天ですよ」と、とり天のおいしいその店に連れてきてくれたのであった。Kさんと会って語り合ったのは、ほんの1、2回だった。だから、Kさんといえば、とり天を思い出してしまうのである。

由布院のこと、彼がこよなく愛する昭和という時代の風景、ちょっとせつないキュッとするような素敵な思い出。Kさんの話を聞いていると、なぜか心の中がホッと温かくなってくるのだった。人間を見るまなざしとでもいうのだろうか、それがとても温かいのである。

Kさんは定期的に短いエッセイを様々な人々に送ってくださった。それ以外にも、ご自分のブログにいろんなエッセイを書いておられた。その一つ一つがなぜか私の気持ちを温かく幸せにしてくれたのである。人間っていいな、と正直に思えるような、そんな彼の文章を味わうひとときがとても好きだった。

一昨日、由布院在住の友人から、そのKさんが逝去されたとの連絡を受けた。ここ1~2年、闘病生活をおくっておられたのは知っていた。あのホッと温かくなるようなエッセイを目にしなくなってからずいぶん長い年月が経っていた。

世渡りがうまいタイプでも、要領のいい感じでもなかった。本を1冊出版されたけれども、出世や名声ともほとんど縁がなかったことだろう。でも、ご自分に正直に誠実に生きられたのだと思う。

Kさんはその温厚な人柄だけでなく、書いたエッセイを通じて、少なくとも私には、温かく幸せな気分をいつも届けてくださった。そのことを改めて思い、彼の残したブログのエッセイを読み返しながら、心よりご冥福をお祈りしたい。

2009年1月30日金曜日

誕生日を祝う

1月26日、インドネシアは中国正月で祝日。25日の夜から、マカッサルの町中からは賑やかな花火の音があちこちで聞こえた。中国正月をみんなで祝う穏やかな雰囲気を味わいながら、わずか10年ぐらい前まで、華人を特別視し、差別していたのが、ずっとはるか遠い昔のことのように思われた。

そしてこの日は、私の誕生日。祝日でもあったので、友人たちを招いて、ささやかな会食会+ケーキを食べる会をした。たまたま、マカッサルに出張で来られていた方が同じく誕生日だったので、一緒にお祝いさせていただいた。




私のリクエストでカプルン(サゴやしデンプン団子の入った酸っぱいスープ)を作ってくれたお手伝いが、「ろうそくがないようですね」といって、ケーキに1本立ててくれた。

様々な人々に支えられて迎えた今年の誕生日。「28歳」の誕生日である。


2009年1月25日日曜日

友人R君からの電話

1月24日夜、マカッサルの日本人会新年会の宴も酣(たけなわ)の最中に、インドネシア人の友人R君から電話が入った。彼はマカッサル出身で、日本に研修に行った後、今はジャワ島の日系自動車部品工場で働いている。結婚もし、賑やかな子どもの声が電話口から聞こえていたのだが・・・。

何となく予感はあった。そして、電話の内容ははたしてその予感通りであった。上司から早期退職をするよう促されているという。彼によると、けっこうな退職金をもらえるので迷っているという。工場で何人ぐらい解雇されるのか聞くと、1000人中約200人が切られるそうだ。「マカッサルに帰って何か仕事を探そうかな」という彼に、(本人も知っているように)マカッサルで新たに仕事を探すのはやはり難しいので、できる限りねばって今の仕事を続けたほうがいいのではないか、と話した。

日本の自動車メーカーは、全世界規模での生産調整を余儀なくされている。かつては2億人という巨大な国内市場を標的に自動車を生産してきたインドネシア立地の日系自動車メーカーも、10年以上前からアジア市場や世界市場を念頭に、国際生産戦略の中にインドネシアの工場をも位置づけた。たとえば、キジャンといえばトヨタが生産したインドネシア仕様の多目的商用車で、インドネシア以外では生産・販売されていなかったが、最新のキジャン・イノーバは、タイでもベトナムでもたくさん走っている。12月にバンコクとホーチミンに出かけたとき、街中を走るキジャン・イノーバをみながら、ふと「自分は本当に他国へ来たのだろうか」という気持ちが湧いてきた。自動車メーカーの国際戦略は、あたかも個性豊かに見えた東南アジア各国の街の風景を一様な単色に染め始めているような感じさえした。

その自動車メーカーが生産調整を本格化させれば、その下請の役割を果たす多くの自動車部品メーカーも追随せざるを得ない。大きく報道されている日本の派遣労働者だけでなく、世界中でR君のような状況に置かれた人々がどっと増えてしまうのだろう。

思い起こせば、かつて日本は、1970年代以降の日系企業のアジア進出を受けて、アジア各国での下請産業の育成を目指した。結局、円高そして企業の国際化の後、日本で下請の役割を果たしてきた多くの日系企業が、親企業の後を追うようにインドネシアを含むアジア各国に進出した。アジア各国から日本への研修も盛んに行われ、日系自動車メーカーはその生産拠点を日本から海外へ展開させ、効率性を追求する国際生産・販売戦略に沿って、生き残りを図ってきた。その下請日系企業で働くアジア各国の労働者もまた、解雇の危機に直面している、という(考えてみれば当たり前の)ことを、彼の電話から実感した。

かつて、我が家から国際電話でラジオ・ジャパン(インドネシア語放送)の新年特番に参加し、電話口で「東京ラブストーリー」を熱唱したR君は、日本が好きで好きで、大学を中退して日本への研修に旅立った過去がある。今は嵐に入りつつあるが、いずれまたいい日が来る。そう信じたいし、彼にもそう信じてもらいたいが、待ったなしの厳しい状況に直面していることもまた事実なのである。

前にブログで、アジアはまだ明るさがある、と印象で書いた。しかし、日本経済や国際経済の暗い影が明るさを感じるインドネシアにも入り込んでいる。農業生産が好調な現在、まだ10年前の通貨危機の時ほど暗くはならないだろうという楽観論を持ち続けたいが、対外的な面で暗さを払しょくするのは難しくなってくるのかもしれない。やはり、インドネシア国内由来の経済活動が明るさを持ち続け、自分たちの身の回りを自分たちで耕すことで、この難しい時期を切り抜けていくしかないのであろう。

R君がどうなるかはわからない。「あなたのところで雇ってもらえるとありがたいのだが」とも言われたが、やんわりと断った。彼のことはとても気がかりだが、もう少し、自力で頑張ってほしいと思っている。

2009年1月16日金曜日

再びマカッサルへ戻る

1月13日、休暇でトロトロにとろけた頭のまま、成田を出発。せっかくSQの最新鋭機A380に乗ったのだが、エコノミーの席は普通のエコノミーと変わり映えしなかった。それでも、さすがに機内エンターテイメントの充実ぶりはさすがである。音楽も映画も堪能できた。

それはそうと、SQはやはりきちんとしている。いや、しすぎているかもしれない。まず、成田のSQのチェックインカウンターで「航空券の姓名がパスポート表記と逆になっている」と指摘され、「でも今回は乗せてあげる」という感じの対応をされた。「一応、パスポートをコピーします」とも。36kgのスーツケースはしっかり11kg分の超過料金を支払わされた。

これで終わりではなかった。搭乗しようとすると、搭乗券を挿入した機械からピンポンピンポンと鳴る音。係員に「スーツケースの中にパソコン用のリチウム電池が見つかったので確認してほしい」と言われ待機。すでに搭載寸前だったスーツケースが私のところに戻されてきた。スーツケースからリチウム電池を取り出し、機内持ち込みにするように言われる。係員がリチウム電池もセキュリティ・チェックの必要があるとして、チェックした後持ち帰ってきて「異常ありませんでした」との報告。スーツケースを係員に引き渡して、ようやく搭乗することができた。

A380は快適だったが、向かい風の影響で、シンガポールには定刻より20分遅れの18:15に到着。乗り継ぎのジャカルタ行きの出発時刻は18:45で、ターミナル3からターミナル2へ移動しなければならない。私と同様にジャカルタ便に乗り継ぐ人が結構いた。そして、走る、走る。SQでは出発10分前にゲートが閉じるのだが、さすがに今回はまだ開けられていた。ギリギリ18:45に搭乗。定刻より10分程度遅れてジャカルタ行きは出発した。

このジャカルタ行きも結局遅れて19:30過ぎに到着。イミグレを通過して、マカッサル行きのガルーダ便のカウンターに着いたのは20:15頃。ここでもスーツケースの超過料金を支払わされたが、6Kg分で済んだ。

この成田からマカッサルまでの移動だが、なぜかマカッサル行きのガルーダ便に乗ったらほっとした。空気が違うのである。「戻ってきた」という気持ちがわき出てくるような気分。到着したマカッサルは、幸運にも雨の中休み状態で、我が家の前庭も水がひいた後だった。

休暇ですっかりとろけきった頭を徐々に切り替えつつ、再びマカッサルの日々が始まった。


2009年1月12日月曜日

休暇終了前に棚田を見学


京都から東京への帰りに、本ブログを読んでくださっている知人と会うため、岐阜県を訪問した。山里の人々の社会と生活に造詣の深い知人に、日本の棚田100選にも選ばれている坂折棚田などへ案内していただいた。

この日はとても寒く、棚田を歩いているだけで寒風が堪えた。スラウェシのトラジャや西シンジャイの棚田に比べると、とても小規模の棚田だが、その一つ一つが石積みで作られている。石積みしたところがところどころ膨らんでいるのを「孕んでいる」といい、いったん石垣をはずして石を積みなおすのだそうである。知人は、この棚田の石積みの技術を受け継いでいく活動をしているが、それが地元の方々に誇りとやる気を与えている様子である。坂折棚田米は大人気で、棚田保存会が組織されている。

実際には様々な試行錯誤があるだろうが、知人のような外部者(といってもすでに15年も在住)の働きかけがそこに住む人々に励ましと勇気を与える、そんな活動にも見えた。ほかにも、山里に生きるお年寄りたちから山里を活かす生活の知恵を学ぶ聞き書きの活動も進めている。

この知人、スラウェシやトラジャの大ファンでもある。トラジャの地域振興に思いをはせながら、これから何か面白いことができそうな、そんな予感を勝手に抱きながら、東京へ戻った。


2009年1月9日金曜日

2日間、東京を離れる

1月9日と10日は、東京を離れている。今は京都に泊まっている。大切な友人たちとさっきまで夕食を共にしていた。小さい店だったが、おいしい「おばんざい」を味わうことができた。でも、きっと、一人だけではもう一度あの店にはたどり着けないことだろう。

インターネットや携帯電話が普及した分、直接人と会って話をするのがおっくうになりがちかもしれない。でも、こうした機会を大切にしながら、人との信頼関係が醸成されていくのだろう。

とは言いつつ、他のたくさんの京都方面の友人の方々とは今回お会いすることができなかった。また別の機会に彼ら一人一人とゆっくりお会いできればと願っている。

今回、帰国直前に、このブログを読んでくださった方から「あのサゴやしクッキーがどうしても食べたくなった」というメールをもらったので、年末に東京でお会いして、スラウェシやマカッサルの話題で盛り上がり、サゴやしクッキーをお渡しできた。

私が知らないだけなのだろうか。スラウェシが好きな方々は実はけっこういるような気がしている。明日も、もう一人、私のブログを愛読してくださっているスラウェシ好きの方と初めてお会いする予定で、楽しみにしている。

頭がとろけそうな休暇を過してはいるが、イスラエルによるガザへの攻撃のニュースは、そんな頭を冷やしてしまう。被害者意識は加害者としての感覚を失わせ、自己の破壊行為を正当化させる。

中立を是とする国際赤十字が「国際人道法違反」と異例の批判をし、国際世論が一刻も早い停戦を呼び掛けているにもかかわらず、国連安保理の停戦決議を無視してイスラエルは攻撃を続けている。これがイスラエルでなければ、きっと「テロ国家」としてブッシュのアメリカ軍による攻撃対象になるはず・・・。

インドネシアでは、イスラエルに対する抗議行動が広がりを見せ始めている。それを政治的に利用する勢力もある。2009年が世界を真っ暗にするような年とならないことを祈るしかない。


2009年1月1日木曜日

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします

家族とともに東京で2009年を迎えました。今回の一時帰国前に訪れた活気あふれるベトナムと意気消沈したかのような日本の違いを実感しています。

今年も、インドネシアから地域の未来をいろいろと考えていきたいと思っています。

新年の景気づけに、まずは、トラジャの米搗きの儀(葬儀を待つ女性たちのパフォーマンス。2008年8月撮影)。



もうひとつ、おまけは、北スラウェシ・ミナハサのチャカレレ(戦いの踊り)。2008年11月にトモホン市を訪れたときの歓迎の舞。意気消沈した空気を多少は消してくれることを祈りつつ。



2008年12月31日水曜日

ベトナムのライスペーパー

ベトナム滞在中、ホーチミン市以外に、ベトナム戦争時の防空壕トンネルで有名なクチも訪問した。1994年に訪問したときは、(米兵は一般に太っているので通れないという)狭いトンネルの中を這って歩いたが、今回の目的地はトンネルではなく、ライスペーパー工場。ここは、ベトナムでも有数のライスペーパーの産地であった。


最初に訪問した工場は、組合所有で、パッケージを緑色に変え、外国への輸出も増やしていきたい、とのことであった。ここの工場長は自分でライスペーパーの生産機を試作し、使用している。

次に訪問したのは、クチでも最大のライスペーパー工場。通常のライスペーパー以外に、韓国への輸出向けに、天然素材で着色したライスペーパーも生産していた。


ライスペーパー工場の外では、できあがったライスペーパーを天日乾燥させていた。すると、あちこちから、パリパリパリッ、という音が聞こえてくる。ライスペーパーから水分が抜けると、台からライスペーパーが自然にはがれてくる、そのときの音である。

ベトナムの食事に欠かせないライスペーパー。肉や野菜、ハーブを入れて巻くのだが、自分でやるとなかなかうまくいかない。食事会の席で、見かねたおじさんが、下の写真のようにきれいに巻いてくれた。「奥さんにするならライスペーパーをうまく巻ける人を」という話らしい。


ベトナム滞在中、実はあまり米粒のご飯を食べていないことに気づいた。食べているのは米の麺のフォーであり、ライスペーパーであった(それ以外にはフランスパンが出された)。もちろん、普通はご飯も食べているだろうから、米加工品のバラエティが豊かということになるのだろう。日本でも米粉の活用が注目されているようだが、インドネシアでも米粉の活用をもっと考えてもいいように思える。


2008年12月27日土曜日

バンコク経由で休暇一時帰国

ベトナムでの用事を終えて、25日朝に休暇一時帰国した。

ベトナムでは、大勢で食事をする際に、酒(今回はバナナの蒸留酒。アルコール度はかなり高い)を小さなグラスに注ぎ、乾杯した後にそれを飲み干す、というのが必ずあった。次から次へと酒をついでまわる人が現れ、乾杯はエンドレスとなり、それに付き合わざるを得ない状況で、久々にベロンベロンになった。それにしてもベトナムの皆さんのお酒の強いこと。昼間からこんなに飲んだくれていていいのか、と思ったりもしたが・・・。日ごろ酒を飲まない生活をしている自分には拷問のようなひととき。正直言って、自分のなじみの国が、イスラム教徒の多いインドネシアでよかったと思わずに入られなかった。

ホーチミンから飛行機乗り換えのためにバンコクに立ち寄る。午後1時に着き、次の成田行きが夜中なので、空港の近くのホテル、それも安いところを探す。空港のホテル案内所で1泊1150バーツの宿を見つけ、案内所に1000バーツ払う(残りはホテルでの支払い)。ホテルから迎えが来て、ホテルまで10分ぐらい送ってもらう。着いたところは、明らかにアパートの一部。洗濯物が山ほど干されている部屋がいくつもある。そうか、こうしたアパートの一部を有効活用しているのだ。バンコク国際空港には立派なノボテルの空港ホテルもあるが、バジェット・トラベラーの需要も多いのだろう、こうしたアパート活用型安ホテルがいくつもある。

とりあえず、部屋はエアコンが効き、ベッドも大きく(ツインを2つつなげてダブルにしていたが)、数時間の滞在にはさほど問題なさそうであった。この短時間の滞在中に小さなレポートを2本片付けた。さあ、少し休もうとベッドに横になって間もなく・・・。大音響のテンポのいいポップ音楽がけたたましく聞こえてきた。何事かと思って部屋の外を見ると、ホテル(アパート?)の前の広場に屋台などが設営され、ナイトマーケットが始まりつつあった。それほどたくさんの人はいないが、けっこう人が集まっている。そして、ノリのいいポップ音楽はエンドレスに流れ続ける。もちろん、ベッドで眠れるわけがない。しかたなく、時間が過ぎるのをボーっと待つことにした。まあ、たしかに1150バーツ、という感じではあった。

バンコクの空港までホテルから送ってもらい、イミグレ通過後、食事をして、後は何事もなくSQ632便に搭乗。ちょうど3人席が空いていたので、ラッキーと思ってさっそく横になる。と、食事が運ばれてきた。あれ、朝食じゃないの? と思って聞くと、SQはこの便に限って朝食はなく、サパーとのこと。しかたなく、食べることにする。

バンコクから成田まで約5時間、しかも成田空港が開く6時半以降に着陸する必要があるため、わざわざバンコクの出発を15分遅らせたこの便。それでも若干早めに着いてしまったため、成田空港周辺を何度も旋回して開港時間を待つ。騒音対策からすると、何度も旋回するのは、さっと着陸するよりもよろしくないのではないか、などと寝ぼけながら思う。

ともあれ、無事に帰国。これからしばらく、東京でゆったりと年末年始を過ごす。頭がとろけてしまいそうな、のんびりした日々を久々にすごしたいと思っている・・・。 1月14日にはまたマカッサル、だ。

2008年12月22日月曜日

ホーチミンはクリスマス一色!

先ほど、無事、ホーチミンに到着した。14年ぶりのベトナムである。

空港から街中に入ると、あちこちでバイクと車と歩行者で大渋滞。街路樹には電球がかけられ、イルミネーションだらけである。



ノートルダム教会付近は、とにかく人、人、人だらけで、空港から乗ったタクシーが動けないほど。いったい、何のお祭りかと思っていたら、クリスマス前の日曜日で、市民が街に繰り出し、イルミネーションを楽しんでいるのであった。

サンタクロースの帽子をかぶった子供、雪ダルマ人形の前で写真を撮る親子連れや若者たち、風船人形を売り歩く売り子さん、仲良く食べ歩きをしているカップル、みんなとても楽しそうである。




もっとも、何か統一的なイベントが行われているわけではなく、あちこちのイルミネーションがきれいで、それを市民がただ見て歩いている、ということなのだろう。それにしても、人、人、人、である。

クリスマスの前に、こんなに人がどっと繰り出すのは、ベトナム、いやホーチミンならではなのだろうか。社会主義国ベトナム、という頭からは、想像できないようなクリスマス一色のホーチミンに出迎えられた。

そして、空港から街中に来るまでの間、窓から見た光景には、なんとも形容しがたいのだが、とにかく「勢い」が感じられた。家族3~4人で乗るバイクの走り、歩いて いる人々の表情、無邪気な笑顔の子供たちとそれをほほえましく見ている大人たち。インドネシアでもシンガポールでもタイでも感じられなかった、ある種の 「勢い」がホーチミンに入った途端にこちらへ押し寄せてくるかのようだった。

世界経済の後退で、派遣切りなど暗い話題がメディアを賑わせている日本とは明らかに違う「勢い」が、少なくとも今夜のホーチミンからはムンムンと感じられたのである。そう、元気の出てくるような「勢い」が・・・。

ホテルの外からは、バイクや車のクラクションが聞こえてくる、まだたくさんの人々がクリスマスのイルミネーション見物に集っている。

14年前のホーチミンも活気があった。しかし、今回の活気は、14年間の蓄積を感じさせるような活気のような気がした。


2008年12月21日日曜日

今はバンコク

12月20日から1月13日に休暇を取得し、25日から日本、である。年末年始は日本、というパターンで帰国するのは、実は今回が初めてである。だって、年末年始の日本は寒くて、耐えられない。でも、仕事の関係で、この時期以外には休暇が取れそうになかったのである。

それで今、バンコクに来ている。帰国前、12月22~23日にホーチミンでちょっと用事があり、その途中でバンコクに寄って友人と会った。久々の再会はやはり楽しいものであり、お互いにあまり変わっていなかったことを確認できた。

ついこの間まで閉鎖されていたバンコク国際空港も、クリスマス休暇と思しきたくさんの外国人でイミグレがごった返していた。到着したときの緊張感を和らげるような入国管理官や空港関係者の柔らかな対応、ここでタイのイメージが作られているのだと思った。

たまたま泊まったホテルは、アパートメントを改装したホテルで、スイートルームに1泊朝食付き61ドルで泊まっている。部屋が広すぎるのだが、あまりにも快適である。

バンコクを訪れるのは4年ぶりだが、来るたびに町が洗練されてきている感じがする。空港からのタクシーも、当たり前だが、ちゃんとメーターで走る。車も、多少渋滞はしているが、秩序立って走っている。隙あらば割り込んでくるマカッサルの道路が遠く感じられる。

やはり、マカッサルやスラウェシに関わるこそ、ときには外の世界を定期的に見ておくことが必要だと思った。世の中は絶えず変化しているが、1カ所にずっと関わると、その感覚が知らず知らずに萎えてくる。そして、外の世界の変化を見ながら、マカッサルやスラウェシの変わっていくもの、変わっていってはいけないものなどを、常に新鮮な感覚で見られるようにしていかなければ、と感じた。

今日の夕方便で、ホーチミンへ発つ予定。

2008年12月16日火曜日

師走・・・なのかもしれない

12月15日、マカッサルに戻った。

先週の大分・東京訪問中は、なぜか暖かい日々が続き、汗ばむほどだった。滞在中には様々な出来事があったが、個人的には、由布院で歩いた幻想的な霧に覆われた夜道や、落葉した木々の凛とした姿に、改めて感動した。

また、今回、我々を温かく迎えてくださった方々の、真摯で前向きの姿に、自分自身がとても勇気づけられた。新しい何かを始めたい、いや始めていかなければ、と思わせる力をいただいた気がする。

さて、マカッサルに戻って早々、16日夕方の会議に出た後に夜中の便でクンダリへ飛び、17日朝から会議に出て、翌18日早朝便でマカッサルへ戻り、そのまま夜まで会議、といったドタバタの日々が始まった。ほんと、師走・・・なのかもしれない。

そして、本格的な雨季がいよいよ始まっていた。