2009年6月6日土曜日

サゴやし食品のプロ、我が家に登場!

インドネシアのヘルシー食材「サゴやし」については、これまで何度か私のブログで取り上げてきた。一応、おさらいをすると・・・。

ジャヤプラの味「パペダ」
パペダとクラディ
クンダリの地元料理を食べる
マサンバのバゲアは一味違う

そして今日、サゴやし研究を続けている旧知のO教授らと一緒に、日本のサゴやし食品のプロ「こうちゃん」が我が家に登場! 来るなり、台所に直行し、彼のリクエストを受けて「カプルン」を調理中の我が家のお手伝い・ティニさんの仕事を観察し始めた。

そして、熱せられたサゴやし澱粉を箸を使ってクルクル回して団子にする工程に挑戦。


じっと様子をみていたティニさんの息子も参戦。


できあがったカプルンは、ちょっと大人数だったので、今日は青い大きなボウルに入れられて、食卓へ。こうちゃんは、青い大きなボウルに入れられて出てきたので、ちょっとびっくりの様子。


そして、皆さんと一緒に、カプルンを味わった。「うまい、うまい」と連呼しながら、皆さん、山盛り2杯を召し上がった。


一行は、明日から数日間、O教授が長年関わってきたサゴやしを生産しているルウ地方の村を訪問する。

サゴやしは、ノンコレステロールのヘルシー食材だが、実はアレルギー源のない、唯一といっていい食材でもあるそうで、すでに、日本でも病院食や機内食などで重用されている。こうちゃんの会社は、アレルギーのある子どもたちが安心して食べられる食品を作っている。今回は、スラウェシのサゴやしの様子を実際に視察して、今後、サゴやしの活用をもっと大きく展開できるかどうかを探るためにやってきたようである。

参考までに、こうちゃんの会社のホームページとブログをお知らせしておく。

辻安全食品
ブログ「こうちゃんねる」

スラウェシのサゴやしが日本のアレルギーに悩む人々を助けられるかもしれない、なんて考えただけでもうれしくなる。

そしてサゴやしは、それ自身に浄化作用があり、肥料なしでも成育するのである。サゴやしの生態については、まだ科学的な調査が十分には進んでいないと聞く。

数万年前から現在まで、生産・加工技術がほとんど変わっていない不思議な植物がこのサゴやしである。しかし、現場では、「サゴやしを食べるのは時代遅れで格好悪い」という風潮が根強く、米中心の食生活への転換が急速に進んでいる。

1本の幹に大量の澱粉を貯蔵したまま大地に立っているサゴやしは、自然の食糧貯蔵庫といってもよい。生い茂るサゴやしの葉の密集度は、熱帯雨林にも引けを取らず、二酸化炭素吸収量も同じぐらい高いとも言われる。

地球上で将来の食糧危機の懸念が話題になりつつあるなか、サゴやしの存在にはもっと注目してもいいのではないか。サゴやしがアレルギーに悩む人々を助け、サゴやしの森が周辺を浄化し、そしてサゴやし澱粉を食糧として供給する。

サゴやしが地球を救う・・・なんていったら、ちょっと大げさかもしれないが・・・。


2009年6月4日木曜日

超短期の一時帰国

5月29日にインドネシアを離れ、30日朝に成田に着き、6月1日深夜にマカッサルへ戻ってきた。機中泊1泊、日本に2泊の超短期の一時帰国となった。

本来の帰国目的があったのだが、祖母が亡くなったため、急遽、実家へ行かなければならなくなった。母の実家で、家族3人で、祖母の霊前に線香を手向けた。祖母との思い出が頭の中にどんどん湧き上がってくるが、そのほとんどが、小学1~2年生の頃の思い出だった。

その頃は病気があり、病院通いをすると、県庁所在地にある祖母の家にしばらく厄介になっていた。私の両親はそこから車で1時間以上離れた隣町に住んでいた。早寝早起きの祖母、午前5時にラジオから流れる「早起き鳥」という番組で目が覚めた。噛みしめるように話してくれた祖母の一言一言の詳細は忘れてしまったが、その言葉は知らぬ間に自分の血となり肉となっているのではないか、と言う感じがする。

祖母は97歳で永眠した。良き人生であったと孫の私は信じている。祖母の孫であることを誇りに思う。

実家の両親も、一時帰国した私のことをとても歓待してくれた。運動神経抜群だった体の自由が少しずつ利かなくなって、何となく記憶力が落ちてきていることを気にし始めた父が、私の健康のことを何度も何度も念じている。「父の代わりの記憶装置」を自称する母が、弱気になりがちな父を温かく支えている。そんな両親に元気を与えられるのならば、超短期の一時帰国だってちっとも厭わない、と強く思った。

もちろん、言うまでもなく、妻と娘にも・・・。当たりまえ、なのだろうが。

2009年5月27日水曜日

ここ数日、ブログ更新できずにいたが・・・

5月のブログはワカトビに関する記事ばかり、となった感がある。何となく、本当に何となく、ブログ更新をこのところ怠ってしまっていた。けっして、ものすごく忙しかったわけではない。毎日平凡に何も起こらずに過ぎたわけでもない。ただ、何となくブログ更新をする気にならなかっただけである。

まあ、このところのマカッサルの暑さも影響しているかもしれない。そよ風(angin mamiri)の吹く町、と言われるのに、この季節には、風が凪いでしまう時間がある。でも、今日は、雨季を思わせるような、激しい雷雨が、短時間ではあったが、降った。

相変わらず、マカッサルには様々な知り合いが訪ねてくる。そして、嬉しいことに、マカッサルで元気になって、楽しんでマカッサルから帰って行ってくださる。来月も、様々な楽しい方々がマカッサルを訪れる予定で、楽しみにしている。彼らと「遊んでもらう」私も、さらに元気になる感じがする。

そういえば、マカッサルにも「食べ歩き」ブームが押し寄せつつあるようだ。Kuliner Makassarという小さな雑誌が創刊され、第2号はCoto Makassarの特集である。けっこう、知っている店が多いのだが、知らない店もある。でも、私だったら、こんな編集はしないな、と思う。Coto Makassarをもっと多角的に、たとえばCoto Makassarにまつわる様々な人々の思い出話とかエピソードをいろいろ集めて、単なるお店紹介ではない、あったかーい特集に仕立て上げるのだけれど。

トイレでドボンした携帯の代わりに、思い切ってBBBを購入した。これは使える。

2009年5月18日月曜日

カレドゥパ島でカソワミを食べる

ワカトビ県滞在中に、カレドゥパ島へ1泊2日で出かけた。ワカトビ県のワンギワンギ島にある県都ワンチからは高速船で約1時間半。ダイビングで名高いホガ島は、カレドゥパ島のすぐ東にある。

カレドゥパ島の手前、海上集落に立ち寄る。ここは、バジャウ族の人々の暮らす集落である。本当に、海の上に浮いているかのような集落である。家にはパラボラ・アンテナも見える。




その昔、1950年代後半、スラウェシ島南部一帯で、政府に反抗してイスラーム連邦国家化を目指すダルル・イスラーム運動が起こった際、この地域も大変な争乱となった。反政府軍のイスラーム勢力は、カレドゥパ島にも攻め入ってきたが、その先兵として使われたのが、その海上で暮らすバジャウ族であった。バジャウ族を先頭にした反政府軍はカレドゥパ島に攻め入り、島民との間で殺戮が起きた。島民は対抗してバジャウ族を島外へ追い払った。しかし、バジャウ族も昔からカレドゥパ島近くの海域で暮らしてきたため、島の長老たちは慣習法に則り、ホルオ村のマンティゴラ地区にバジャウ族の居住地を定め、そこにバジャウ族を住まわせた。しかし、今でも、カレドゥパ島民のバジャウ族に対する感情はよくない。

カレドゥパ島は、決して大きな島ではない。しかし、中央部には、標高は決して高くはないが、山岳地帯の趣をもつ風景がある。この山岳部の頂上付近にパジャン村がある。この村には、古い要塞の跡があった。この村の尾根道からは、左右両方に海を見渡すことができる。


そしてこの村は、カレドゥパ織と呼ばれる伝統的な布を多くの村人が織っている村でもある。実はこのカレドゥパ織は、5年ほど前に消滅寸前であったのを、地元住民組織が中心となって、復活させたものである。今回は、残念ながらカレドゥパ織の現物を見ることはできなかったが、南スラウェシから入ってくるサロン・ブギス(サロンとは腰巻のこと)に比べると、織りが繊細で柔らかな手触りなのだとか。島内の伝統行事等でカレドゥパ織のサロンを着用することが増えているそうである。

さて、カレドゥパ島で食べたのは、カソワミと呼ばれるキャッサバ加工品である。実は、ワカトビ県には水田がなく、米を生産していない(米はすべて外からの移入)。住民の主食はキャッサバを加工したカソワミで、カレドゥパ島は県内で最も多くのキャッサバを生産している。カソワミには大きく3種類があるようだ。


上写真の左はカソワミ・オンロオンロ、右はカソワミ・キキリ、とカレドゥパ島では呼ばれる。ワカトビ県で一般的なカソワミはカソワミ・キキリで、カソワミ・オンロオンロはカレドゥパ島で主に食べられる。

カソワミを作るには、まず、キャッサバを切って、よく洗う。カソワミ・キキリはその後、キャッサバを砕いて圧力をかけて水分を飛ばす。さらに、特別な道具を使ってそれを細かくし、ココナッツの葉で編んだものでくるんで蒸す。一方、カソワミ・オンロオンロは、キャッサバを洗った後、キャッサバを砕いたものを型に入れ、一晩海水に浸す。そして2日間、天日で乾かす。乾かしたものを薄く削って、真水に浸し、圧力をかけて蒸す。たしかに、カソワミ・オンロオンロはほのかに塩味がして、それだけでもおいしいものだった。カレドゥパ島の人々は、どちらかというと、カソワミ・オンロオンロのほうを好むそうである。


この2つのカソワミ以外に、カソワミ・ビルというのがある。作り方はほとんど同じだが、天日乾燥させるときに色が黒くなるまで乾燥させるところが異なる。ビルはインドネシア語では青色だが、現地語では黒色を指す。南スラウェシのトラジャやカジャンでは、黒は基本となる色(カジャンでは「すべての色は黒から始まった」と信じられ、身に着ける衣服は黒一色である)であり、カレドゥパでの色をめぐる言葉の違いにも何か意味があるのかもしれない。

ワカトビは、米ではなく、イモの世界なのであった。そして、1997~1998年に米の不作でインドネシアが全国的に食糧危機と大騒ぎしていた頃も、キャッサバやイモを主食とするここでは、食糧難とは無縁の生活が営まれていた。そんなワカトビでも、農業省のプロジェクトを受けて水田を作りたい、と考える役人もいるのである。

もう一つ、カレドゥパ島にはカノと呼ばれるイモがある。ある人によれば、これはカレドゥパ島の固有種で、6種類あるという。このカノが栄養的にどのようなイモなのかは、素人の私にはよくわからない。でも、このカノでつくったチップスは、やめられない止まらない、クセのない飽きないおいしさだった。案内してくれた地元住民組織の代表が言った。「おいしいだろ? でも、お土産にはあげないよ。食べたければ、またカレドゥパに来いよ」。地に足のついた地域づくりが期待できそうな弁であった。



2009年5月10日日曜日

世界有数のサンゴ礁域・ワカトビへの道

ワンギワンギ島北西端を海上より臨む

今回行ってきたワカトビは、東南スラウェシ州東南端にある群島からなる、人口10万人弱の小さな県である。ワカトビの名の由来は、県内の4つの大きな島の頭文字、すなわちワンギワンギ島の「ワ」、カレドゥパ島の「カ」、トミア島の「ト」、ビノンコ島の「ビ」、をつなげた名前である。この群島域は、鍛冶屋列島(Kepulauan Tukang Besi)と以前から呼ばれていて、今回は訪問しなかったが、ビノンコ島には実際、刃物を生産する鍛冶屋が存在するとのことである。

このワカトビは今、世界で最も美しくたくさんの種類のサンゴ礁を持つ地域としても知られ、欧米人などを中心に、まださほど数は多くないが、年間を通してダイビングを楽しむ観光客が訪れている。英国・ロンドンのOperation Wallaceaによると、世界で確認された850種のサンゴ礁のうち、実にその9割に当たる750種がワカトビ海域で確認されている。ちなみに中東の紅海では300種、有名なカリブ海でも50種にすぎないそうで、このサンゴ礁の種類の多さは特筆ものである。また、4島の沖合の環礁の長さは世界最長なのだとか。もちろん、世界で最も珊瑚礁が密集しているインドネシア、マレーシア、フィリピン、パプアニューギニア、ソロモン諸島、東ティモールにまたがるサンゴ礁三角地帯(Coral Triangle)の一角を占めている。今週の5月14日、マナドで開催されている世界海洋会議(World Ocean Conference: WOC)の会場で、このサンゴ礁三角地帯の生態系保全を謳ったサンゴ礁三角地帯イニシアティブ(Coral Triangle Initiative: CTI)が当該6カ国の首脳により調印される。

このワカトビへのアクセスだが、5月15日より、東南スラウェシ州の州都クンダリとワカトビ県の県都ワンチとの間に毎週計10便の飛行機(Susi Air)が飛ぶことになった。基本的に、ジャカルタからマカッサルを経由してクンダリへ15:25に着くガルーダ航空GA604便に接続の予定である。もちろん、戻りも、クンダリ発マカッサル経由ジャカルタ行きの折り返しガルーダ航空GA605便に接続するように時刻が設定される。それ以外に、1日に2便往復する日が3日ある、ということで、柔軟なフライトスケジュールになるようだ。

ワンギワンギ島の新空港の1400m滑走路

航空機以外だと、クンダリから週に5便(日・水は休航)の定期船がある。クンダリを午前10時に発ち、途中、北ブトン県の県都エレケに寄ってから、ワカトビ県の県都ワンチに夜8時頃到着する。戻りも同様で、ワンチを午前10時に出発する。料金は13万ルピアで、船室を使う場合には18万ルピアである。

ほかにも、ブトン島最大の町のバウバウからは毎晩夜行の船便があり、また、ブトン島の中部のラサリムという小さな村からも、早朝発のワンチ行き船便(所要約3時間)が出ている。

今回、筆者は、たまたまワカトビ県知事のモーターボートで移動したので、クンダリ=ワンチ間が約4時間半で済み、快適かつ楽だった。こんな楽をしていると、インドネシア中をリュック一つで旅している親友にまた叱られてしまうのだ。

ワンチについてからの他の島への移動は、定期便だとほぼすべての島への行く船が午前10時にワンチを出る。ただし、ワンチには3つの埠頭(ワンチ、マンダティ、モロ)があり、クンダリ行きはワンチ埠頭から、カレドゥパ島行きはモロ埠頭から出る。他の島からの戻りはいずれも、早朝にワンチに到着する。今回、カレドゥパ島からワンチに戻る際、出発は午前5時半であった。

この海域は、季節によって海がかなり荒れるという。幸運なことに、今回は全般的に穏やかな海で、快適な船旅を楽しむことができた。


2009年5月3日日曜日

ワカトビへ出張中

5月2~8日は東南スラウェシ州ワカトビ県へ出張中。ブログ更新は、マカッサルへ戻った後に行う予定。日本の皆さん、よい黄金週間を。


2009年4月26日日曜日

最近食べたもの

最初は、Jl. TimorにあるRestoran Singapore。この店を仕切っているのは、日本語ペラペラのシンガポール人のおじさん。聞けば、ジャカルタのPluitにもお店を持っていて、「シンガポールのとおんなじ海南鶏飯が食べられるよー」とのこと。ただし、昼のみ。この店の一押しは、何といっても「揚げ海老の塩玉子和え」である。揚げ海老のサクサク感と塩玉子のしょっぱさが微妙に絡み合う絶妙の味。


この場所は、これまでに4軒ぐらいの店が開店しては閉店していった。風水でいう難しい場所なのかもしれない。しかし、今のところ、連日、華人系の客でいっぱいである。

次は、Jl. LatimojongにあるRestoran Tan(唐人之家)。この店、Tanjung Bungaの日本料理屋Shimayaの隣にあるのだが、現在、リノベーション中で、店はこちらへ移っているそうだ。この店の中華も、マカッサルの一般の中華屋にはない面白いメニューがいろいろあるが、昨日食べたのは、竹筒で焼いた鶏ご飯。チマキの具を竹筒の中に入れて焼いたようなものだ。チマキよりもあっさりとしていて、なかなかのお味。牛肉入りもある。


おまけは、ジャカルタで私が24年間通い続けているMie Ayamの名店Mie Gondandia。創業は1968年。店構えは古くからのまま、味も昔と全然変わらずにうまい。この店、今回行ったら、何とデリバリーを始めていた。従業員もお揃いの制服Tシャツを身につけていた。味が安っぽくならないといいのだが。


2009年4月20日月曜日

情けない、携帯電話がドボン

今回が100件目の投稿だというのに、情けない話。

これまで愛用してきた携帯電話(Nokia N95-8GB)とお別れの日が来てしまった・・・。ちゃんと日本語化もして楽しく使ってきたのにー。

先週金曜日、焼き魚料理で有名なマカッサル市内の某レストランでトイレに入った時のこと(食事中の方には申し訳ない、って、このブログを読みながら食事をしている方がいるのだろうか?)。運悪く、便器の水の中に携帯電話がドボンと落ちていった。あっ、と声を立てる間もなく。

もちろん水中から取り出して、水気を取り、懸命に乾かした。幸い、携帯電話のチップには異常がなかったのだが、電話機自体は無理そうな感じだった。

翌日、藁をもつかむ気持ちで、Nokiaのサービスセンターに携帯を持って行き、修理を頼んだのだが・・・。日曜日、「部品交換が新品購入を同じぐらいに高くつくのでキャンセルした」とのSMSが届いた。そして今日、修理してもらえなかった電話機を引き取ってきた。

まわりで同じような話をけっこう聞いた。友人の中には、船に乗っていて海中に携帯を落としてしまった者もいる。そのときは、まだ沿岸に近かったせいか、付近にいた子供たちに海中に潜らせて、携帯を取り戻したのだが、やはり電話機はダメだったそうだ。

これで私もいよいよBBか、と思い始めている。

2009年4月16日木曜日

中スラウェシ州と全羅南道が「姉妹州」へ

ウェブ情報によると、中スラウェシ州パルを訪れた韓国・全羅南道の朴知事および一行は、4月13日夜、中スラウェシ州知事・政府との間で、両者間の協力促進のためのLetter of Intents(LoI)に署名した。

内容は、海藻の養殖と、それを活用したバイオエタノールやパルプの生産など。全羅南道側は、民間企業の参加を通じた資金支援を行い、中スラウェシ州側は、10万haの用地を準備する。全羅南道側の投資額は約3兆ルピアの見込み。また、トウモロコシ、タピオカ、オイルパームなどによるバイオ燃料の生産も計画され、全羅南道側の投資に対して、中スラウェシ州側が約5万haの用地を準備する。

合わせて、木製ペレットやバイオ燃料生産などに関わる植林で緑化を進めるほか、ニッケル、金、鉄粉などの鉱産物の生産の共同開発もうたったほか、政府のE-Governmentへの支援も含まれた。

このLoIは向こう2年間有効で、両者の合意のもとに延長される。

全羅南道と中スラウェシ州、といった地方政府間で直接協力を行う時代がやってきている。両者は「姉妹州」を目指す方向性をも示している。

中スラウェシ州の観光イベント(2009年)

中スラウェシ州で開催される観光イベントの紹介。

トミニ湾に浮かぶトギアン諸島は、世界的に有名なサンゴ礁の島々。サンゴ礁の面積は13万2000haとインドネシア国内のサンゴ礁では最大級の広さを誇る。サンゴ礁は262種類、魚類は596種類、軟体動物は555種類を数える(2001年CII調査による)。このトギアン諸島で、『トギアン・フェスティバル』(Festival Togian)が2009年7月に開催される。

次に、スラウェシの中央部にある大きな湖・ポソ湖を舞台にした『ポソ湖フェスティバル』(Festival Danau Poso)が2009年8月半ばに開催の予定。今回で13回目を迎えるこのイベントは、住民抗争で大きなダメージを受けたポソが、平和の地として再びよみがえることを祈念して、住民総出で盛大に催される。ここ2年間、ポソでは大きな抗争は起きておらず、フェスティバルも恒例イベントとなった感がある。でも、残念ながら、外務省の海外安全情報によると、ポソへの渡航はまだ「渡航の延期をお勧めします」のままとなっている。

中スラウェシ文化週間は2009年10月に開催とのこと。

追加情報は本ブログで紹介する予定である。

マカッサルでお粥を食べたくなったら・・・

お勧めは、Jl. Sulawesiのちょうど中ほど、向かって左の小さな中国寺院の隣にあるお店。この店のお粥は鶏、豚で、ときどき魚もある。多少ボリュームのあるお粥に卵の黄身が入っていて、かき混ぜて食べる。この店、実はマカッサルでワンタン麺を始めた最初の店の一つと言われている。当然、ワンタン麺もうまい。

この店の手前には、ワンタン麺屋さんが通りの左側に5軒並んでいて、それぞれ、若干異なるワンタン麺を出す。細麺の店、ワンタンに自信のある店、などいろいろである。

もう一つのお勧めは、Jl. SulawesiからJl. Ahmad Yaniに出る手前左側にある老大(ラオタ)。3ヵ月前にオープンした新しい店だが、いつも華人系の人々でいっぱいである。しかし、この店、実は豚肉を全く使っていないので、ムスリムの友人たちを連れてきても安心である。

この老大、あのバリ島・クタの24時間オープンの有名店の支店なのである。お粥の種類は実に豊富で、海鮮、鶏、カエル、ウナギ、ハタ、などいろいろある。ただし、クタの本店にあるような鍋はまだやっていない。経営者は香港の方。筆者のお勧めは、お粥はもちろん、鴨と蒸し魚(ハタ)である。狭い店内だが、軌道に乗ったら、近いうちにもっと大きな店になるのではないか。そのときにはきっと鍋が現れるだろう。

余談だが、Jl. Lamaudukkerengにかつて鳴り物入りでオープンしたパダン料理のSari Ratuはいつの間にか閉店して、撤退したようだ。

2009年4月10日金曜日

総選挙速報

4月9日、国会議員、地方代議会議員、州議会議員、県・市議会議員を選出する総選挙の投票が終わった。マカッサルでも、大きな混乱はなかったが、投票所への招待状が到着せず、投票をあきらめた住民がけっこういた様子である。我が家のお手伝いとその夫にも招待状は届かなかった。もちろん、我が家に出入りする若者たちの話を聞くと、自分の意志で棄権した者もかなりいた様子である。

マカッサルや南スラウェシ州は、ユスフ・カラ副大統領かつゴルカル党党首を輩出し、昔から自他ともに認めるゴルカル党の牙城といわれてきた。その意味で、今回の総選挙で、ゴルカル党がどれぐらい得票率を下げるかに注目していた。実際、これまでの選挙運動や広報活動を見た限りでは、マカッサル市ではゴルカル党は第1党になれないのではないかと予想していた。

今朝の地元紙FAJARの報じた出口調査の結果は、ほぼ予想通りであった。すなわち、国会議員選挙に関しては、南スラウェシ州内の3つの選挙区の合計で、ゴルカル党が27.32%、民主党が26.58%と、辛うじてゴルカル党が第一党になったものの、前回2004年総選挙時の得票率と比べると、ゴルカル党が44.34%から激減したのに対し、民主党は3.03%からの激増であった。南スラウェシ州議会選挙も同様で、ゴルカル党30.57%(前回は43%)、民主党22.37%(同2.7%)であった。

マカッサル市議会議員選挙では、民主党が第一党になった模様である。民主党は22.66%(前回は6.34%)で、ゴルカル党の19.18%(同33.37%)を上回っている。

今回の総選挙では、民主党の躍進、ゴルカル党の退潮、イスラム政党の停滞、という現象がほぼ全国各地に共通でみられる。民主党の躍進は、いうまでもなくユドヨノ大統領という個人ファクターの強さによるものであり、7月の正副大統領選挙でも、ユドヨノ大統領は、よほどの事態が起こらない限り、再選の可能性が高いとみてよい。

焦点は、副大統領が誰になるかだが、これについても、もうほぼ答えが出ている感じだ。後は、連立交渉をする際に、政党どうしのメンツをいかにつぶさないか、というプロセスだけの問題。マスコミは面白おかしくゴシップ的な報道をするだろうが・・・。

2009年4月5日日曜日

催し物2本

我が家に出入りするイニンナワ・コミュニティの催し物が4月4・5日に立て続けにあった。

まず4日は、マカッサル市内のホテル・クラリオンで、ジャズ演奏+議会選挙に関するパネルトーク+モノローグ劇『奥さんも議員候補になる』(Nyonya Jadi Caleg)、という催し物があった。マカッサル市内は、至る所が議員候補者の選挙ポスターで埋め尽くされ、街の美観が徹底的に破壊されているが、その割には住民レベルでの盛り上がりはなく、私の周りでも、少なからぬ人々が棄権することを表明している。

まずは、ジャズの演奏。会場には、イニンナワ・コミュニティの仲間たちがパロディで作った選挙ポスターが飾られている。


次に、議会選挙に関するパネルトーク。パネルの一人は地元紙Tribun Timurの編集長で、新聞における選挙報道と候補者広告の取り扱いについて、「後者はビジネスと割り切って、会社トップの判断で載せており、編集部は口出しできない」とのこと。この新聞社は、地元有力グループでゴルカル党の一大スポンサーでもあるボソワ・グループが所有し、全国紙Kompasの傘下にある。


続いて、仲間の一人であるLuna Vidayaが二役を演じたモノローグ劇『奥さんも議員候補になる』(Nyonya Jadi Caleg)。県知事の奥さんが議員選挙への立候補を打診されて準備をするが、立看板やポスターをたくさん作ることや様々な行事に積極的に顔を出すなどし、あたふたしている様子。そんななか、知り合いの女性が別の選挙区から立候補することになったが、実はその女性が夫である県知事の第2夫人であることがわかって、ショックで亡くなってしまう。県知事の奥さんの選挙参謀をやる予定だった女性は、奥さんが亡くなった後、その第2夫人の選挙参謀を引き受ける。といったような筋書きである。昨今の選挙にあたふたするエリートたちを痛烈に風刺する内容である。


実際、立候補や選挙運動には多額の資金が必要で、落選するとそれが重い借金となってのしかかり、精神的におかしくなってしまう人が少なくないそうである。実際、東ジャワのある県では、落選した前県知事が、ボロボロの汚れた服で当所なく県庁所在地の町中を徘徊していた、といった話も聞く。精神病院がスタンバイするのだそうだ。

続いて、5日は、イニンナワ出版から出されたブギス族の伝統的な性に対する考え方を論じたAssikalaibinengという題の本に関して、筆者のMuhlis Hadrawi氏が話をし、フロアと質疑応答を行う催しであった。我が家近くのM'Tosというショッピングモールにある書店のGraha Media(有名書店のGramediaではない)前の特設会場で行われた。



性について、インドネシアでは、一般に議論をタブー視する傾向が強いが、実は、多くのインドネシア人がこの手の話が好き、という面があることは否定できない。その意味で、イスラムの影響が強いと警戒されることさえある(実際はそうでもないのだが・・・)マカッサルで、こうした性をめぐる民俗学的な議論が行われること自体が、とても興味深いことであるとともに、こうした問題への一般の人々の関心の高さがフロアとのやり取りの中から感じられた。この本については、前述の地元紙Tribun Timurが数回にわたって紹介記事を掲載していた。我が家に出入りしている若者たちの静かな挑戦の一つ、と思えた。

2009年3月30日月曜日

ヒロシマを題材にした演劇


ヒロシマについて書いたJohn Herseyのノンフィクションをもとにした前衛的な演劇『窓の陰からの光』が、3月29日夜、我が家の2階で上演された。案内には、「たくさんの者が亡くなったときに彼らはなぜまだ生きているのかと問うのであった」という一文が付け加えられている。

上演したのは、Komunitas Seni Stupa Makassarというグループで、顔を白く塗り、白い下着のような服を着て、日本をイメージさせるようなクラシックの現代音楽や邦楽を交えた一定テンポの音楽のもと、6人の演者はゆっくりと、しかし、ときには激しく体を動かす。原爆投下後の体中の痛みでスムーズに動けない者、水の中に飛び込んだ者を助けようとする者、ひたすら水を探し求める者、もう亡くなっているかもしれないわが子を抱きながらさまよう者・・・。それらが、パントマイムのように、暗い照明のなか、うめき声を発しながら、ゆっくりとゆっくりと演じられていく。

我が家に集まるイニンナワ・コミュニティの若者たちは、斬新な表現や思考を形に表す場を提供する「我々の仲間たちの仕事」というプログラムを開始し、今回の上演がその第1号となった。今後も、演劇や文芸などの活動を行っているグループの発表会を随時行っていくとのこと。また、毎週土曜夜の映画上映会も復活する。4月は、彼らのリクエストで日本映画特集をすることになり、山田洋次監督作品を4~5本上映する。リリーさんの出演する寅さん映画2本、たそがれ清兵衛、隠し剣鬼の爪、武士の一分、などの予定。

また最近、イニンナワ・コミュニティにたくさんの若者が集うようになり、賑やかになってきた。

2009年3月22日日曜日

実に静かな選挙の季節

今年2009年のインドネシアは総選挙・大統領選挙の年。1987年、1992年、1997年、1999年、2004年とインドネシアの選挙の年の多くを現地で過ごし、選挙のプロセスをこれまで何度も見てきたが、そこには、うまく言葉で言い表せないが、選挙の年という独特のなんとも言えない雰囲気があった。それは、道路を我が物顔で走り回るバイクや自動車のラリーであり、政党を示す1・2・3といった番号であり、政府与党ゴルカル党が何%獲得して勝利するか、といったものが含まれていた。

だが、今回の2009年、選挙運動もたけなわというのに、それらが感じられないのである。バイクや自動車のラリーは原則禁止、選挙運動は決められた広場に限る、政党は指で示せる以上の40近い数。新聞などで「投票は4月9日」と訴えているものの、「そういえば選挙だってねえ」というような雰囲気がちまたにある。

政府職員はかつてスハルト時代には、与党ゴルカルに動員されたため、選挙になると毎日のように大挙して選挙運動へ出かけて行ったものだが、今は、政府職員も支持政党自由なので、ゴルカル党が動員をかけることもなく、毎日通常通りの業務が行われている。選挙運動に出向く場合には、休暇を取らなければならないのである。これは大統領も副大統領も閣僚も同様である。ちなみに、正副大統領は金曜日に休みを取り、金・土・日を選挙運動に費やしている。

この週末、金~土曜に副大統領がゴルカル党党首として、土~日曜に大統領が民主党最高幹部として、マカッサルを訪れ、前者はカレボシ広場で、後者はマットアンギン・サッカー場で、選挙運動を行った。ところが、ゴルカル党は10万人を動員する予定だったが、新聞報道では8000人程度しか集まらなかったらしい。でも、数日前に大火事に見舞われたマッチーニ地区の住民には、救援食糧とともに、ゴルカル党のTシャツが大量に配られていた。

マカッサルの通りという通りは、選挙候補者のポスターや立て看板で覆い尽くされている。ポスター、立て看板、ステッカー、Tシャツなどの業者はとても景気がよさそうだ。でも、その乱立ぶりは、必ずしも選挙の盛り上がりを示してはいない。むしろ、普通の人々から乖離したところで特定の人々が騒いでいるような印象さえ受ける。インドネシアの民主化は、必ずしも、普通の人々と政治家の心理的距離を縮めたとは言えないのではないだろうか。

我が家に出入りしている若者たちの多くは棄権する様子である。私の運転手も今回は棄権すると言った。選挙直前に地元出身の国会議員が収賄の現行犯で汚職撲滅委員会に逮捕され、他の議員の関与も口に出されているが、当の国会議員の選挙ポスターはマカッサル中に貼られたままで、本人も立候補を辞退する気はさらさらない様子である。こうした国会議員らの態度を、みんな見ているのである。

おそらく、今年の選挙は、4月の議会議員選挙も7月の大統領選挙も、政治エリート・レベルでの週刊誌ネタ的な出来事が起こるにしても、大きな混乱もなく、静かに終わるのではないか。それほど、私の周りの人々の関心は低い。政治家や政治自体に対する強い不信感を払拭するのは容易ではない。

2009年3月16日月曜日

南の島で楽しい老後を・・・という夢?

メディアから伝えられる日本の話題に明るさを感じなくなって久しい。企業は大幅減産、人員削減を余儀なくされ、先の見えない政治情勢とともに、このまま、我々の世代は次の世代に輝く未来を受け渡せないのではないか、なんて思ってしまう。

一方のここスラウェシは、ざっと見る限り、日常生活に暗さを感じることはない。現地通貨ルピアは対ドル、対円で依然として弱含みだが、マカッサルの街じゅうに建設され、廃墟化を懸念していたルコ(住居兼店舗)はけっこう埋まり、我が家の近くにも銀行や旅行代理店の支店、小食堂などがどんどん開店している。南スラウェシ州政府は、今年の予想成長率を7.14%と発表した。

昨年並みの強気の数字である。マレーシアもシンガポールもマイナス成長とみられるのに、この強気のもとは何なのか。実は、食糧生産を中心とした農業が意外に好調で、これが10年前とは決定的な違いである。10年前は不作で米の輸入を余儀なくされていたのである。ともかく、スラウェシを含むインドネシア東部は、「スマトラやジャワほどには世界的な景気後退の影響を受けない」というのが当地での一般的な見方である。

そんななか、暗い日本からこちらへ移って、明るく楽しい老後を過ごしてはどうかという提案がいくつか聞かれるようになった。ある島では、日本人向けの設備が完備した病院も誘致して、安心して老後が過ごせる居住地を作ってはどうかという夢が語られている。気候が温暖で、食べ物も豊富で、ゆったりとした生活スタイルのこちらで、のんびりと過ごしてはどうか、という提案で、ネックは日本語で暮らせるかどうか、である。おそらく、日本に派遣されたインドネシア人看護師らの帰国後の活躍の場とみなされている可能性もある。

この夢のような話は実現へ向かうのだろうか。世界中で最も日本を好きな人口比の高い国インドネシアで幸せな老後を送るのもいいのではないかと思う反面、そのインドネシアもまた、20~30年後にはおそらく高齢化の問題に直面していくのだろう、という予感がある。

2009年3月9日月曜日

ポソ湖のウナギ、シンガポール企業が投資

スラウェシ島のほぼ中央部にある大きな湖のポソ湖。この淡水湖はウナギで有名である。例年は12~6月が収穫シーズンというが、今年はやや遅れて2月から収穫シーズンとなった。5月ごろが最盛期になる。

インドネシア語でikan belut、またはikan sidatとかsogiliとか呼ばれるポソ湖のウナギは、今はまだ1日で1人4匹ぐらい(10~15kg)程度の収穫だが、最盛期には1日20~25kgぐらい獲れる。1匹2kgを超える生きたままのウナギは、キロ当たり75,000ルピアで売れ、2kg以下だとキロ当たり45,000ルピアで漁師から中間商人へ売れるということである。今年のウナギの価格は高く、漁師は喜んでいる。漁獲があれば売れる状態で、今では、生きたウナギはマカッサル経由で海外へ輸出されているのだそうだ。

そんななか、シンガポール企業がポソ湖でウナギの養殖を始めるための投資をするというニュースが入った。今月中に養殖用の仕掛け場所(keramba)を10か所設営する。このシンガポール企業は、ウナギを全部、生きたまま、台湾、香港、日本、中国、いくつかのヨーロッパ諸国へ輸出する計画である。そのために、ポソ空港の再開を切望している。マカッサルまで運ぶのに24時間以上かかるからである。

ポソといえば、日本の外務省の海外安全情報では、依然として「渡航の延期をお勧めします」となっている。そんななか、シンガポール企業がウナギ養殖の投資を行うというニュースが入り、そのウナギがもしかすると日本の食卓に乗るかもしれないと思うと、何となく不可思議な感じがする。「本当に危ない所なら、どうしてシンガポール企業は投資をするのだろうか」と素朴な疑問を感じてしまう。

友人から、「今年もポソ湖フェスティバルが盛大に開催される」という情報を聞いた。

マカッサル・ラーメン・プロジェクト


3月6日、マカッサル在住の日本人の友人とJl. SangirのMie Pangsit Torajaという麵屋で昼食を食べた。この友人からは、ちょっと前に私がジャカルタへ出張に行ったときに、ラーメン丼を買ってきてほしいといわれて、3個買ってきた。

この丼を使って、「日本のラーメンのような盛り方で、こちらのワンタン麺を盛りつけて食べたら、おいしいかも!」というノリで、試しに盛ってもらったら、上のような感じになった。ふつう、マカッサルのワンタン麺は、具とスープが分かれて出てくるのだが、それを日本のラーメン風にしてもらったのである。

ちなみに、上の写真の赤いのはチャーシューである。ほかの店にはない薬味なのだが、沖縄のソーキそばに欠かせないようなトウガラシ酢や中華お粥に入れる塩味の野菜の漬物(名前を忘れてしまった)がテーブルの上にあり、それらを入れると、他で食べるいつものワンタン麺とは違う味わいが出る。

この店の麺は、けっこう固めに茹でてあり、スープに入れたままでも意外にシコシコが続く。また、スープは透明であっさりした鶏ベースで、味に飽きが来ない。想像していたよりもいい感じになった。

8日には、「マカッサルB級グルメの会」の在留邦人有志がこのやり方でワンタン麺を食べたはずである(私は欠席)。評判はどうだったのだろうか。

マカッサル・ラーメン・プロジェクトの始まり、である。

2009年3月3日火曜日

ガルーダ以外も東インドネシア路線拡充へ

ガルーダ・インドネシア航空以外の航空各社も、東インドネシア地域への路線拡充を進めている。

スリウィジャヤ航空は、3月末に、ジャカルタ=スラバヤ=マナド、ジャカルタ=マカッサル=ソロン=マノクワリ、ジャカルタ=マカッサル=テルナテ、の3路線を就航させることを3日明らかにした。具体的なスケジュールはまだ明らかにされていない。

また、東南スラウェシ州ブトン島のバウバウ市市長が、「バウバウとアンボンを結ぶ路線が間もなく就航する」と述べた。現在、バウバウへはマカッサルからムルパティ航空が乗り入れている。

余談だが、マルク州の州都アンボンには、ブトン島出身者が昔から出稼ぎに出ており、アンボンに住み着いて何世代にもわたる人々がいる。1999年のアンボン騒乱の際には、たくさんのブトン人がアンボンからブトン島へ避難してきたが、その一部は避難先のブトン島に身寄りのないアンボン生まれのブトン人だった。こんなつながりのあるブトン島とアンボンが飛行機で結ばれる時代になったのだ。もっとも、この海域、船の行き来はかなり頻繁で、今でも彼らの移動の最大の手段である。

かつてバウバウからマカッサルまでPELNIのドイツ製大型客船で移動したことがあるが、一等船室だったせいもあってとても快適な船旅だった。バウバウ出港のときに船上から眺めた夕日の美しさ、マカッサル港に到着した時の朝の晴れやかさ、飛行機の旅ではなかなか味わえないものである。

ジャカルタ生まれのイタリアーノ

2月にジャカルタへ出かけた際、久々に、Jl. Veteran 1 にある Ragusa でアイスクリームを食べた。Ragusaといえば、オランダ植民地時代からガンビル広場(現在の独立記念塔公園)に店を出していたアイスクリーム・カフェとして有名で、イタリア人の夫と華人系の妻が切り盛りしていた。Ragusaの店内には、当時の様子を伝える写真が何枚も貼られている。

私の定番は次の2種類のアイスクリーム。もう20年近く親しんでいる。

Tutti Fruti

Cassata Siciliana

店の奥には、昔使っていたイタリア製のアイスクリーム製造機もあり、見学することもできる。

そういえば、この店は、アイスクリーム屋なのに、店の外にいるサテ屋から買ったサテを店内で食べている客がやたら多かったのだが、今回は見かけなかった。店主の話では、サテ屋が場所代を払わないので追い払ったようだ。

Ragusaはジャカルタ市内に支店があるほか、最近はプンチャックにも店を出した。昔々、1990年頃、Ratu Plazaに遊びに行くと、いつもRagusaでNasi Capcaiを食べたものだった。支店では普通の食事も出すのである。

ジャカルタ生まれのイタリアーノはまだまだ健在である。

2009年3月1日日曜日

ガルーダ航空、スラウェシ線拡充の予定

インドネシア国内航空会社大手のガルーダ・インドネシア航空は、2009年1月16日にジャカルタ=マカッサル=クンダリ便を1日1往復就航させたのに続いて、2009年中にマカッサルからパル(中スラウェシ州)、ゴロンタロ、アンボン(マルク州)、テルナテ(北マルク州)へ新たに就航させると先月発表した。いずれも、マカッサル空港がハブの役割を果たすことになる。

これで、スラウェシ6州へは、西スラウェシ州マムジュを除いて、今年中にすべての州都へガルーダ便で移動可能となる予定である。

なお、このブログでも、就航日が決定次第、お知らせしていく予定である。

第3回ワカトビ水中写真コンテストのお知らせ

東南スラウェシ州の東南に連なるいくつかの島々からなる島嶼地域、ワカトビ県。鍛冶屋列島(Kepulauan Tukan Besi)とも呼ばれ、実際に刃物を作る鍛冶屋が存在することでも知られる。ワンギワンギ島、カレドゥパ島、トミヤ島、ビノンコ島の4つの比較的大きな島の名前をつなげ合わせた「ワカトビ」という名前は、世界的にみても有数の規模の珊瑚礁があることで知られている。

余談だが、Zyrexという名前のノートパソコンには「ワカトビ」と名付けられた機種があり、インドネシア国産を謳っている。

このワカトビでは、毎年、美しい珊瑚礁をアピールするために、水中写真コンテストを開催している。昨年の第2回コンテストには英国、スペイン、オーストラリア、イタリアなどから65人が応募し、インドネシア人男性が最優秀賞で賞金4000米ドルを獲得した。

このコンテストが今年も開催される。賞金総額は第2回の2万米ドルから第3回では4万米ドルに引き上げられる。応募可能な作品は、2009年1月1日~2009年11月25日までに撮影された写真。応募方法など詳しい情報は、以下の英語サイトを参照してほしい。

ワカトビ県ホームページ・水中写真コンテスト

2009年4月ないし5月には、マカッサルからワカトビへの直行便(ムルパティ)が週3回就航の予定。それまでは、東南スラウェシ州の州都クンダリまたは同州ブトン島のバウバウから船でワカトビのワンギワンギ島まで移動となる。

*3月3日、ムルパティ航空のプロペラ機によるテスト飛行が成功。運輸省からの許可を受けた後、空港は営業開始の予定。現在、1400メートルの滑走路を来年は2300メートルへ延長する予定。

第2回コンテストには、残念ながら日本人の応募はなかったとのこと。ワカトビ県政府は、日本人の応募を強く期待している。

世界銀行やアジア開発銀行が支援を約束したサンゴ礁トライアングルは、北スラウェシ州ブナケン島、西パプア州ラジャ・アンパット諸島、東南スラウェシ州ワカトビ諸島をつなぐ。気候変動や地球環境問題の観点から世界的に知られるが、一般の方々にもっと知られるべき場所である。

このワカトビ、実は、国際ダイビング・リゾートとコミュニティ開発を結びつけた独自モデルを模索している県でもあり、伝統文化や慣習の掘り起こしにも熱心である。さらに、海ガメなど希少動物の保護やサンゴ礁保全など、環境配慮型の開発の在り方についても関心を高めている。今年、とくに注目したいスラウェシの面白スポットである。

2009年2月26日木曜日

賑やかさと静けさと

こどものチカラでいったんは元気になったような気がしたものの、やはり、気持ちの起伏がけっこう出てしまい、なかなか安らかになれない日々が続いている。ふと気がつくと、先週のあの話を思い出してしまう。どうしてなのか分からないが、「自分に全く関係のない話だ」と割り切れないでいる。それ以外にも、気になることがいくつかあって、気分が晴れないような気がしている。

このところ、我が家にまた以前のように若者たちが集ってくるようになった。今日は、2階でハサヌディン大学で日本語を学んでいる学生たちがたくさん集まって、歌やゲームをしながら、誰かの誕生会を賑やかに祝っている。1階の図書館では、夕方から批判的な視点でエッセイを書こうとしている若者たちの勉強会が行われている。

2階からは、インドネシアの若者の間で大ヒットしたKiroroの「未来へ」の歌声が聞こえてくるが、私は自室で、数日前に友人からもらったMiles Davisのアルバム「Kind of Blue」を聴いている。Milesのトランペットがしっくりと心に滲みわたってくる。同じくBill Evans好きの友人が、このアルバムのピアノがBill Evansだというので、おまけにもらったのだ。でも、今の気分にしっくりきたのはMilesのトランペットだった。

自室の静けさのなかで聴くMiles。何となくだが、救われるような気分に浸っている。


2009年2月22日日曜日

こどものチカラ

実は先週、とてもショックな知らせを聞き、久々に落ち込んでしまった。この2~3日間に実際にお会いした方々は、あまり気がつかなかったかもしれないが、誰とも口をきかず、しばらく一人になって、思い切り泣きたいような気持ちになっていた。でもその反面、友人や知人と会って、たわいもない話をひたすらしたいような衝動にも駆られていた。何となく安定しない重い気持ちで悶々と過ごしていた。

今日、日本から友人が家族3人で我が家にやってきた。夫婦とも、知り合ってからもう10年前後の月日が経ち、どうしてるかなあと気になって仕方のない友人なのだが、2年ぶりの再会となった。2年前に会ったときは生まれて間もなかった娘さんは、可愛い3歳児になっていた。最初はちょっともじもじしていた彼女も、だんだん慣れてきて、お絵かきをしたり、バリの猫のお人形で遊んだり、折りたたまれている地図を何枚も床に広げて並べて迷路遊びをしたり、かけっこをしたり、一緒に遊んでもらった。

そして、ふと気がついた。この子と遊んでいるうちに、なぜか気持ちがどんどん元気になってきたのである。そして思い出した。以前、マカッサルに住んでいたときに、ちょうどこの子と同じぐらいの歳だったわが娘とよく遊んだことを。一緒に遊びながら、私が、こどものチカラを吸収しているような、でもそんなことでなくなることはないような無尽蔵のチカラを子どもが持っているような、そんな気がしていた。

今まで、いったい何度、こうしたこどものチカラに助けられてきたことだろうか。そして、今回も助けてもらったのだ。友人夫妻の娘さんが我が家で思う存分遊んでくれて、本当にありがたかった。ありがとう、また遊ぼうね。重い気持ちが完全に吹っ切れるのは難しいだろうけど、少なくとも「明日も元気に」ってまた思えるぐらいには回復したような気がする。

2009年2月17日火曜日

駆け足でゴロンタロ、空港のナシゴレン

15日にゴロンタロに到着し、16日朝に仕事を済ませた後、午後の便でジャカルタに出る、という駆け足でゴロンタロへの今回の出張。16日はゴロンタロ州の設立8周年記念日で、祝賀行事がたくさんあるのだが、何せ、17日に急にジャカルタで用事が出来たので、昼食もとらずに、ゴロンタロ市街を後にして、空港へ向かった。ゴロンタロ市街から空港までは約1時間弱かかるのである。

とはいえ、案の定、ジャカルタ行きの飛行機は1時間遅れなので、空港で昼食をとることにした。チェックインを終えて、空港税(9,000ルピアから11,000ルピアへ値上がりしていた!)を払って、いつものように、レストラン『ラフマット』で食事しようと思ったら、閉店していた。しかたないので、ラウンジに乱入。通常、クレジットカードのプラチナやゴールドを持っているとタダで使えるラウンジだが、インドネシアでは、たいていどこでも、お金を払えば利用できる。

今回のこのラウンジは、35,000ルピア払った。しかし見たところ、コーヒーと紅茶とお菓子はあるが、食事は出ていない。何か食事を出せるかと聞くと、ナシゴレンができるという。そこで、まったく期待せずに、ナシゴレンを注文した。20分近く待って、ようやく、係員が大きめの紙箱を持って登場。はたして、そのなかにナシゴレンが入っていた。係員の兄ちゃんが知り合いの小食堂か何かで作ってもらったのを持ってきたのだろうか。

ところが、このナシゴレン、意外なことに、とても美味しかったのである。今までいろんな空港でナシゴレンを食べてきたが、それらのなかでも最もおいしい部類に入るナシゴレンだった。ゴロンタロ空港でお腹がすいたら、ラウンジに乱入して、ナシゴレンを頼んでみよう!

ちなみに、ナシゴレンを頼んだにもかかわらず、最初に払った35,000ルピア以外の追加料金は一切払わなかった。

2009年2月14日土曜日

今週ちょっと嬉しかったこと

今週初め、仕事でJICAのあるプロジェクトの成果発表セミナーに出席した。

このプロジェクトは、南スラウェシ州内の3県を対象に、各県政府が選んだ村に対して少額のブロックグラントを提供し、それと村人たちの自前資金も動員して、村人たち自身が作業して、トイレを整備したり、乳幼児向けの保健施設を整備したり、歯磨きキャンペーンをしたり、と、ちょっとした活動を行っている。村人たち自身が作業するので、活動に対するオーナーシップがこちらも驚くほど高まっている。

このセミナーで、ちょっと嬉しいことがあった。ある県の発表で、「JICAプロジェクトが終わった後、自分たちでこの事業をどう実施していくか、すでに計画を練っている」というのである。このプロジェクトの対象であるその県のある若い村長は、JICAなしでもこの活動を引き続き実施するために、すでにいくつかの行動に着手している、と大演説した。これで雰囲気が変わったのか、「JICAの後は引き続きほかの団体に入ってもらいたい」と先日発言していた別の県の発表でも、「JICAプロジェクト終了後には、県政府が責任を持って事業を引き続き実施していく」と明言した。

翌日、3県政府の代表が州の保健局に参集して、JICAプロジェクト終了後に、具体的にどのような予算措置をとって事業を継続していくか、各県のアイディアをもとにした議論が行われた。

このJICAプロジェクト自体は、もちろん、終了後にインドネシア側が自前で実施していけるようになることを念頭に置きながら活動を進めている。このプロジェクトが、村人のオーナーシップを引き出してしまった以上、インドネシア政府側も、JICAがいなくなても、もはや中断はできないという認識のようだ。

今、少なくともスラウェシでのJICAの協力は、こうした「終了時にインドネシア側が自立して同様の活動を自前で行なっていけるか」という点を強く意識しながら実施されている。インドネシア側はもちろん、日本側も経済協力に対する認識を改めるべき時代を迎えていると思うのだ。

ちょうど同じ時期、マカッサルで複数の国際機関が教育関連の支援に関する2日間のセミナーを開催した。その席上、今後も南スラウェシ州にどんどん援助を提供する旨の発言があったとのことである。かたや相手のオーナーシップを高めて自立をめざし、かたや退出戦略を持たずに援助を供与し続ける…。このような状況下で、インドネシア側の自立を促す支援を遂行していくための様々な戦略と行動が求められてくることになるだろう。

2009年2月10日火曜日

マカッサルのタクシー、また進化

マカッサルのタクシーは、運転手の顔つきが怖く、運転もちょっと荒い。しかし、これまでに、回り道をされたり、ごまかされたり、メーターを倒さなかったりしたことは一度もない。Bosowa、Putra、Gowata、Gowamas、Lima Mudaといろいろな会社のタクシーが走っているが、どのタクシーに乗っても、問題を感じたことがない。

ジャカルタでも、マナドでも、マカッサル以外の町でタクシーに乗って、いやな思いをしたことがいろいろあるだけに、なぜマカッサルではそういうことに出会わないのか、あるいは単に運がいいだけなのか、不思議である。

そのマカッサルのタクシーの中で、BosowaとGowamasの新車に、メーター金額のレシート印刷機能が付加された。レシートには、料金以外に、タクシー番号、乗車日付、乗車時間が記載される。実は、この機能、1990年代初めのジャカルタのタクシーには普通に付けられていたものである。その後、この機能はなくなって久しかった。

もう一つ。Bosowaは、タクシーの車内に忘れた落し物の預かり品リストを地元紙Tribun Timurに掲載している。落し物を発見した日付、タクシー番号、落し物の概要、落とし主が引き取ったかどうかの有無、が記載されている。これは初めて見た。

PutraやGowamasのタクシーには、DVDプレーヤーが設置され、お好みのDVDを車内で鑑賞できるようになってからもう2年ぐらい経った。ジャカルタでは、黄色のTrans Taxiがこの方式を取り入れているのが知られる。

マカッサルは、どのタクシーでも安心して乗れる町、と太鼓判を押したい。そして、これからもずっとそうあり続けてほしいものだ。

ファシリテーター講習:基礎編

たまたま短期専門家でマカッサルにいらしていた中田豊一さんに講師をお願いし、青年海外協力隊員らを対象とした「ファシリテーター講習:基礎編」を1月31日に開催した。その様子については、私の所属するNGOのブログで紹介した。興味のある方は、以下のリンクからアクセスしてご笑覧いただきたい。

ファシリテーター講習:基礎編

また、私の所属するNGO「あいあいネット」について興味や関心のある方は、ご遠慮なく連絡いただければと思う。


2009年2月7日土曜日

トランス・スタジオ・リゾート計画

「マカッサルで、東南アジア最大の、ディズニーランドのようなレジャーランドを建設中」と書いたら、いったい何人が信用してくれるだろうか。

トランス・スタジオ・リゾート・マカッサル(Trans Studio Resport Makassar)と名付けられたプロジェクトは、マカッサル南西のタンジュンブンガ地区に向かう「海の中道」の途中に、総敷地面積11万平方メートル、23種類の遊具を備えた2.2万平方メートルの屋内施設を建設中である。Theme ParkとMagic Cornerはすでに70%が完成、2009年6月中旬の営業を予定している。また、Hollywood Scenes、Thrilling Adventure in the Lost City、Trans Studio Walk、Tropical Atrium、Fashion Hubなどの施設は、2010年の完成を目指すとしている。

このプロジェクトは、ハイルル・タンジュンを総帥とするパラ・グループとユスフ・カラを総帥とするカラ・グループの合弁で進められており、総投資額は1兆ルピアに上る、と2009年2月7日付FAJARが報じている。リゾートの入り口には5つ星ホテルと12階建てのオフィスビルも建設されるそうである。

しかし、この夢のような計画は、予定どおりに実現するのだろうか。世界的な景気後退の影響を受けて、マカッサルでも大規模なビル建設などの資金繰りが危うくなり始めている。カラ・グループが中心部に建設しているカラ・タワーも建設を一時中断するという話が出ているほどである。

空港も新しくなり、東南アジア最大の敷地面積ということで外国からの客も見込みたいところだろうが、現実に即して、注意深く見ていく必要がある。これまでのマカッサルでのホテルや施設の状況からすると、例外はもちろんあるものの、メンテナンスが悪くて、1年経ち、2年経ちすると、中身がどんどん陳腐化するケースがよくみられる。鳴り物入りで建設したセレベス・コンベンション・センターは、手抜き工事がばれて、床の全面張り替えを余儀なくされ、イベントも少なく、閑古鳥が鳴いている様子だ。

このリゾートで働く従業員の募集広告も新聞に掲載され始めた。このご時世で、どこかの国では、中高年の人々までもがこうしたリゾートへの就職に殺到しているようであるが、マカッサルではどうなるのだろうか。はたして、6月の仮オープンにこぎつけられるかどうか、見守ることにする。

2009年2月1日日曜日

マカッサル空港の運航便発着情報

本ブログの「スラウェシ旅行リンク」にマカッサル空港(スルタン・ハサヌディン空港)の運航便発着情報(速報)へのリンクを掲載した。

このところの悪天候で、航空機の運航状況がなかなか予測できないが、これである程度情報を把握することができる。

それにしても、この運航便発着情報はありがたい。途中で中断することなく、ずっとメンテナンスされることを祈る。


2009年1月31日土曜日

とり天とKさん

あの日、私は大分駅の近くの小さな飲み屋でKさんと語り合っていた。Kさんは、「大分に来たならとり天ですよ」と、とり天のおいしいその店に連れてきてくれたのであった。Kさんと会って語り合ったのは、ほんの1、2回だった。だから、Kさんといえば、とり天を思い出してしまうのである。

由布院のこと、彼がこよなく愛する昭和という時代の風景、ちょっとせつないキュッとするような素敵な思い出。Kさんの話を聞いていると、なぜか心の中がホッと温かくなってくるのだった。人間を見るまなざしとでもいうのだろうか、それがとても温かいのである。

Kさんは定期的に短いエッセイを様々な人々に送ってくださった。それ以外にも、ご自分のブログにいろんなエッセイを書いておられた。その一つ一つがなぜか私の気持ちを温かく幸せにしてくれたのである。人間っていいな、と正直に思えるような、そんな彼の文章を味わうひとときがとても好きだった。

一昨日、由布院在住の友人から、そのKさんが逝去されたとの連絡を受けた。ここ1~2年、闘病生活をおくっておられたのは知っていた。あのホッと温かくなるようなエッセイを目にしなくなってからずいぶん長い年月が経っていた。

世渡りがうまいタイプでも、要領のいい感じでもなかった。本を1冊出版されたけれども、出世や名声ともほとんど縁がなかったことだろう。でも、ご自分に正直に誠実に生きられたのだと思う。

Kさんはその温厚な人柄だけでなく、書いたエッセイを通じて、少なくとも私には、温かく幸せな気分をいつも届けてくださった。そのことを改めて思い、彼の残したブログのエッセイを読み返しながら、心よりご冥福をお祈りしたい。

2009年1月30日金曜日

誕生日を祝う

1月26日、インドネシアは中国正月で祝日。25日の夜から、マカッサルの町中からは賑やかな花火の音があちこちで聞こえた。中国正月をみんなで祝う穏やかな雰囲気を味わいながら、わずか10年ぐらい前まで、華人を特別視し、差別していたのが、ずっとはるか遠い昔のことのように思われた。

そしてこの日は、私の誕生日。祝日でもあったので、友人たちを招いて、ささやかな会食会+ケーキを食べる会をした。たまたま、マカッサルに出張で来られていた方が同じく誕生日だったので、一緒にお祝いさせていただいた。




私のリクエストでカプルン(サゴやしデンプン団子の入った酸っぱいスープ)を作ってくれたお手伝いが、「ろうそくがないようですね」といって、ケーキに1本立ててくれた。

様々な人々に支えられて迎えた今年の誕生日。「28歳」の誕生日である。


2009年1月25日日曜日

友人R君からの電話

1月24日夜、マカッサルの日本人会新年会の宴も酣(たけなわ)の最中に、インドネシア人の友人R君から電話が入った。彼はマカッサル出身で、日本に研修に行った後、今はジャワ島の日系自動車部品工場で働いている。結婚もし、賑やかな子どもの声が電話口から聞こえていたのだが・・・。

何となく予感はあった。そして、電話の内容ははたしてその予感通りであった。上司から早期退職をするよう促されているという。彼によると、けっこうな退職金をもらえるので迷っているという。工場で何人ぐらい解雇されるのか聞くと、1000人中約200人が切られるそうだ。「マカッサルに帰って何か仕事を探そうかな」という彼に、(本人も知っているように)マカッサルで新たに仕事を探すのはやはり難しいので、できる限りねばって今の仕事を続けたほうがいいのではないか、と話した。

日本の自動車メーカーは、全世界規模での生産調整を余儀なくされている。かつては2億人という巨大な国内市場を標的に自動車を生産してきたインドネシア立地の日系自動車メーカーも、10年以上前からアジア市場や世界市場を念頭に、国際生産戦略の中にインドネシアの工場をも位置づけた。たとえば、キジャンといえばトヨタが生産したインドネシア仕様の多目的商用車で、インドネシア以外では生産・販売されていなかったが、最新のキジャン・イノーバは、タイでもベトナムでもたくさん走っている。12月にバンコクとホーチミンに出かけたとき、街中を走るキジャン・イノーバをみながら、ふと「自分は本当に他国へ来たのだろうか」という気持ちが湧いてきた。自動車メーカーの国際戦略は、あたかも個性豊かに見えた東南アジア各国の街の風景を一様な単色に染め始めているような感じさえした。

その自動車メーカーが生産調整を本格化させれば、その下請の役割を果たす多くの自動車部品メーカーも追随せざるを得ない。大きく報道されている日本の派遣労働者だけでなく、世界中でR君のような状況に置かれた人々がどっと増えてしまうのだろう。

思い起こせば、かつて日本は、1970年代以降の日系企業のアジア進出を受けて、アジア各国での下請産業の育成を目指した。結局、円高そして企業の国際化の後、日本で下請の役割を果たしてきた多くの日系企業が、親企業の後を追うようにインドネシアを含むアジア各国に進出した。アジア各国から日本への研修も盛んに行われ、日系自動車メーカーはその生産拠点を日本から海外へ展開させ、効率性を追求する国際生産・販売戦略に沿って、生き残りを図ってきた。その下請日系企業で働くアジア各国の労働者もまた、解雇の危機に直面している、という(考えてみれば当たり前の)ことを、彼の電話から実感した。

かつて、我が家から国際電話でラジオ・ジャパン(インドネシア語放送)の新年特番に参加し、電話口で「東京ラブストーリー」を熱唱したR君は、日本が好きで好きで、大学を中退して日本への研修に旅立った過去がある。今は嵐に入りつつあるが、いずれまたいい日が来る。そう信じたいし、彼にもそう信じてもらいたいが、待ったなしの厳しい状況に直面していることもまた事実なのである。

前にブログで、アジアはまだ明るさがある、と印象で書いた。しかし、日本経済や国際経済の暗い影が明るさを感じるインドネシアにも入り込んでいる。農業生産が好調な現在、まだ10年前の通貨危機の時ほど暗くはならないだろうという楽観論を持ち続けたいが、対外的な面で暗さを払しょくするのは難しくなってくるのかもしれない。やはり、インドネシア国内由来の経済活動が明るさを持ち続け、自分たちの身の回りを自分たちで耕すことで、この難しい時期を切り抜けていくしかないのであろう。

R君がどうなるかはわからない。「あなたのところで雇ってもらえるとありがたいのだが」とも言われたが、やんわりと断った。彼のことはとても気がかりだが、もう少し、自力で頑張ってほしいと思っている。

2009年1月16日金曜日

再びマカッサルへ戻る

1月13日、休暇でトロトロにとろけた頭のまま、成田を出発。せっかくSQの最新鋭機A380に乗ったのだが、エコノミーの席は普通のエコノミーと変わり映えしなかった。それでも、さすがに機内エンターテイメントの充実ぶりはさすがである。音楽も映画も堪能できた。

それはそうと、SQはやはりきちんとしている。いや、しすぎているかもしれない。まず、成田のSQのチェックインカウンターで「航空券の姓名がパスポート表記と逆になっている」と指摘され、「でも今回は乗せてあげる」という感じの対応をされた。「一応、パスポートをコピーします」とも。36kgのスーツケースはしっかり11kg分の超過料金を支払わされた。

これで終わりではなかった。搭乗しようとすると、搭乗券を挿入した機械からピンポンピンポンと鳴る音。係員に「スーツケースの中にパソコン用のリチウム電池が見つかったので確認してほしい」と言われ待機。すでに搭載寸前だったスーツケースが私のところに戻されてきた。スーツケースからリチウム電池を取り出し、機内持ち込みにするように言われる。係員がリチウム電池もセキュリティ・チェックの必要があるとして、チェックした後持ち帰ってきて「異常ありませんでした」との報告。スーツケースを係員に引き渡して、ようやく搭乗することができた。

A380は快適だったが、向かい風の影響で、シンガポールには定刻より20分遅れの18:15に到着。乗り継ぎのジャカルタ行きの出発時刻は18:45で、ターミナル3からターミナル2へ移動しなければならない。私と同様にジャカルタ便に乗り継ぐ人が結構いた。そして、走る、走る。SQでは出発10分前にゲートが閉じるのだが、さすがに今回はまだ開けられていた。ギリギリ18:45に搭乗。定刻より10分程度遅れてジャカルタ行きは出発した。

このジャカルタ行きも結局遅れて19:30過ぎに到着。イミグレを通過して、マカッサル行きのガルーダ便のカウンターに着いたのは20:15頃。ここでもスーツケースの超過料金を支払わされたが、6Kg分で済んだ。

この成田からマカッサルまでの移動だが、なぜかマカッサル行きのガルーダ便に乗ったらほっとした。空気が違うのである。「戻ってきた」という気持ちがわき出てくるような気分。到着したマカッサルは、幸運にも雨の中休み状態で、我が家の前庭も水がひいた後だった。

休暇ですっかりとろけきった頭を徐々に切り替えつつ、再びマカッサルの日々が始まった。


2009年1月12日月曜日

休暇終了前に棚田を見学


京都から東京への帰りに、本ブログを読んでくださっている知人と会うため、岐阜県を訪問した。山里の人々の社会と生活に造詣の深い知人に、日本の棚田100選にも選ばれている坂折棚田などへ案内していただいた。

この日はとても寒く、棚田を歩いているだけで寒風が堪えた。スラウェシのトラジャや西シンジャイの棚田に比べると、とても小規模の棚田だが、その一つ一つが石積みで作られている。石積みしたところがところどころ膨らんでいるのを「孕んでいる」といい、いったん石垣をはずして石を積みなおすのだそうである。知人は、この棚田の石積みの技術を受け継いでいく活動をしているが、それが地元の方々に誇りとやる気を与えている様子である。坂折棚田米は大人気で、棚田保存会が組織されている。

実際には様々な試行錯誤があるだろうが、知人のような外部者(といってもすでに15年も在住)の働きかけがそこに住む人々に励ましと勇気を与える、そんな活動にも見えた。ほかにも、山里に生きるお年寄りたちから山里を活かす生活の知恵を学ぶ聞き書きの活動も進めている。

この知人、スラウェシやトラジャの大ファンでもある。トラジャの地域振興に思いをはせながら、これから何か面白いことができそうな、そんな予感を勝手に抱きながら、東京へ戻った。


2009年1月9日金曜日

2日間、東京を離れる

1月9日と10日は、東京を離れている。今は京都に泊まっている。大切な友人たちとさっきまで夕食を共にしていた。小さい店だったが、おいしい「おばんざい」を味わうことができた。でも、きっと、一人だけではもう一度あの店にはたどり着けないことだろう。

インターネットや携帯電話が普及した分、直接人と会って話をするのがおっくうになりがちかもしれない。でも、こうした機会を大切にしながら、人との信頼関係が醸成されていくのだろう。

とは言いつつ、他のたくさんの京都方面の友人の方々とは今回お会いすることができなかった。また別の機会に彼ら一人一人とゆっくりお会いできればと願っている。

今回、帰国直前に、このブログを読んでくださった方から「あのサゴやしクッキーがどうしても食べたくなった」というメールをもらったので、年末に東京でお会いして、スラウェシやマカッサルの話題で盛り上がり、サゴやしクッキーをお渡しできた。

私が知らないだけなのだろうか。スラウェシが好きな方々は実はけっこういるような気がしている。明日も、もう一人、私のブログを愛読してくださっているスラウェシ好きの方と初めてお会いする予定で、楽しみにしている。

頭がとろけそうな休暇を過してはいるが、イスラエルによるガザへの攻撃のニュースは、そんな頭を冷やしてしまう。被害者意識は加害者としての感覚を失わせ、自己の破壊行為を正当化させる。

中立を是とする国際赤十字が「国際人道法違反」と異例の批判をし、国際世論が一刻も早い停戦を呼び掛けているにもかかわらず、国連安保理の停戦決議を無視してイスラエルは攻撃を続けている。これがイスラエルでなければ、きっと「テロ国家」としてブッシュのアメリカ軍による攻撃対象になるはず・・・。

インドネシアでは、イスラエルに対する抗議行動が広がりを見せ始めている。それを政治的に利用する勢力もある。2009年が世界を真っ暗にするような年とならないことを祈るしかない。


2009年1月1日木曜日

新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願いいたします

家族とともに東京で2009年を迎えました。今回の一時帰国前に訪れた活気あふれるベトナムと意気消沈したかのような日本の違いを実感しています。

今年も、インドネシアから地域の未来をいろいろと考えていきたいと思っています。

新年の景気づけに、まずは、トラジャの米搗きの儀(葬儀を待つ女性たちのパフォーマンス。2008年8月撮影)。



もうひとつ、おまけは、北スラウェシ・ミナハサのチャカレレ(戦いの踊り)。2008年11月にトモホン市を訪れたときの歓迎の舞。意気消沈した空気を多少は消してくれることを祈りつつ。



2008年12月31日水曜日

ベトナムのライスペーパー

ベトナム滞在中、ホーチミン市以外に、ベトナム戦争時の防空壕トンネルで有名なクチも訪問した。1994年に訪問したときは、(米兵は一般に太っているので通れないという)狭いトンネルの中を這って歩いたが、今回の目的地はトンネルではなく、ライスペーパー工場。ここは、ベトナムでも有数のライスペーパーの産地であった。


最初に訪問した工場は、組合所有で、パッケージを緑色に変え、外国への輸出も増やしていきたい、とのことであった。ここの工場長は自分でライスペーパーの生産機を試作し、使用している。

次に訪問したのは、クチでも最大のライスペーパー工場。通常のライスペーパー以外に、韓国への輸出向けに、天然素材で着色したライスペーパーも生産していた。


ライスペーパー工場の外では、できあがったライスペーパーを天日乾燥させていた。すると、あちこちから、パリパリパリッ、という音が聞こえてくる。ライスペーパーから水分が抜けると、台からライスペーパーが自然にはがれてくる、そのときの音である。

ベトナムの食事に欠かせないライスペーパー。肉や野菜、ハーブを入れて巻くのだが、自分でやるとなかなかうまくいかない。食事会の席で、見かねたおじさんが、下の写真のようにきれいに巻いてくれた。「奥さんにするならライスペーパーをうまく巻ける人を」という話らしい。


ベトナム滞在中、実はあまり米粒のご飯を食べていないことに気づいた。食べているのは米の麺のフォーであり、ライスペーパーであった(それ以外にはフランスパンが出された)。もちろん、普通はご飯も食べているだろうから、米加工品のバラエティが豊かということになるのだろう。日本でも米粉の活用が注目されているようだが、インドネシアでも米粉の活用をもっと考えてもいいように思える。


2008年12月27日土曜日

バンコク経由で休暇一時帰国

ベトナムでの用事を終えて、25日朝に休暇一時帰国した。

ベトナムでは、大勢で食事をする際に、酒(今回はバナナの蒸留酒。アルコール度はかなり高い)を小さなグラスに注ぎ、乾杯した後にそれを飲み干す、というのが必ずあった。次から次へと酒をついでまわる人が現れ、乾杯はエンドレスとなり、それに付き合わざるを得ない状況で、久々にベロンベロンになった。それにしてもベトナムの皆さんのお酒の強いこと。昼間からこんなに飲んだくれていていいのか、と思ったりもしたが・・・。日ごろ酒を飲まない生活をしている自分には拷問のようなひととき。正直言って、自分のなじみの国が、イスラム教徒の多いインドネシアでよかったと思わずに入られなかった。

ホーチミンから飛行機乗り換えのためにバンコクに立ち寄る。午後1時に着き、次の成田行きが夜中なので、空港の近くのホテル、それも安いところを探す。空港のホテル案内所で1泊1150バーツの宿を見つけ、案内所に1000バーツ払う(残りはホテルでの支払い)。ホテルから迎えが来て、ホテルまで10分ぐらい送ってもらう。着いたところは、明らかにアパートの一部。洗濯物が山ほど干されている部屋がいくつもある。そうか、こうしたアパートの一部を有効活用しているのだ。バンコク国際空港には立派なノボテルの空港ホテルもあるが、バジェット・トラベラーの需要も多いのだろう、こうしたアパート活用型安ホテルがいくつもある。

とりあえず、部屋はエアコンが効き、ベッドも大きく(ツインを2つつなげてダブルにしていたが)、数時間の滞在にはさほど問題なさそうであった。この短時間の滞在中に小さなレポートを2本片付けた。さあ、少し休もうとベッドに横になって間もなく・・・。大音響のテンポのいいポップ音楽がけたたましく聞こえてきた。何事かと思って部屋の外を見ると、ホテル(アパート?)の前の広場に屋台などが設営され、ナイトマーケットが始まりつつあった。それほどたくさんの人はいないが、けっこう人が集まっている。そして、ノリのいいポップ音楽はエンドレスに流れ続ける。もちろん、ベッドで眠れるわけがない。しかたなく、時間が過ぎるのをボーっと待つことにした。まあ、たしかに1150バーツ、という感じではあった。

バンコクの空港までホテルから送ってもらい、イミグレ通過後、食事をして、後は何事もなくSQ632便に搭乗。ちょうど3人席が空いていたので、ラッキーと思ってさっそく横になる。と、食事が運ばれてきた。あれ、朝食じゃないの? と思って聞くと、SQはこの便に限って朝食はなく、サパーとのこと。しかたなく、食べることにする。

バンコクから成田まで約5時間、しかも成田空港が開く6時半以降に着陸する必要があるため、わざわざバンコクの出発を15分遅らせたこの便。それでも若干早めに着いてしまったため、成田空港周辺を何度も旋回して開港時間を待つ。騒音対策からすると、何度も旋回するのは、さっと着陸するよりもよろしくないのではないか、などと寝ぼけながら思う。

ともあれ、無事に帰国。これからしばらく、東京でゆったりと年末年始を過ごす。頭がとろけてしまいそうな、のんびりした日々を久々にすごしたいと思っている・・・。 1月14日にはまたマカッサル、だ。

2008年12月22日月曜日

ホーチミンはクリスマス一色!

先ほど、無事、ホーチミンに到着した。14年ぶりのベトナムである。

空港から街中に入ると、あちこちでバイクと車と歩行者で大渋滞。街路樹には電球がかけられ、イルミネーションだらけである。



ノートルダム教会付近は、とにかく人、人、人だらけで、空港から乗ったタクシーが動けないほど。いったい、何のお祭りかと思っていたら、クリスマス前の日曜日で、市民が街に繰り出し、イルミネーションを楽しんでいるのであった。

サンタクロースの帽子をかぶった子供、雪ダルマ人形の前で写真を撮る親子連れや若者たち、風船人形を売り歩く売り子さん、仲良く食べ歩きをしているカップル、みんなとても楽しそうである。




もっとも、何か統一的なイベントが行われているわけではなく、あちこちのイルミネーションがきれいで、それを市民がただ見て歩いている、ということなのだろう。それにしても、人、人、人、である。

クリスマスの前に、こんなに人がどっと繰り出すのは、ベトナム、いやホーチミンならではなのだろうか。社会主義国ベトナム、という頭からは、想像できないようなクリスマス一色のホーチミンに出迎えられた。

そして、空港から街中に来るまでの間、窓から見た光景には、なんとも形容しがたいのだが、とにかく「勢い」が感じられた。家族3~4人で乗るバイクの走り、歩いて いる人々の表情、無邪気な笑顔の子供たちとそれをほほえましく見ている大人たち。インドネシアでもシンガポールでもタイでも感じられなかった、ある種の 「勢い」がホーチミンに入った途端にこちらへ押し寄せてくるかのようだった。

世界経済の後退で、派遣切りなど暗い話題がメディアを賑わせている日本とは明らかに違う「勢い」が、少なくとも今夜のホーチミンからはムンムンと感じられたのである。そう、元気の出てくるような「勢い」が・・・。

ホテルの外からは、バイクや車のクラクションが聞こえてくる、まだたくさんの人々がクリスマスのイルミネーション見物に集っている。

14年前のホーチミンも活気があった。しかし、今回の活気は、14年間の蓄積を感じさせるような活気のような気がした。


2008年12月21日日曜日

今はバンコク

12月20日から1月13日に休暇を取得し、25日から日本、である。年末年始は日本、というパターンで帰国するのは、実は今回が初めてである。だって、年末年始の日本は寒くて、耐えられない。でも、仕事の関係で、この時期以外には休暇が取れそうになかったのである。

それで今、バンコクに来ている。帰国前、12月22~23日にホーチミンでちょっと用事があり、その途中でバンコクに寄って友人と会った。久々の再会はやはり楽しいものであり、お互いにあまり変わっていなかったことを確認できた。

ついこの間まで閉鎖されていたバンコク国際空港も、クリスマス休暇と思しきたくさんの外国人でイミグレがごった返していた。到着したときの緊張感を和らげるような入国管理官や空港関係者の柔らかな対応、ここでタイのイメージが作られているのだと思った。

たまたま泊まったホテルは、アパートメントを改装したホテルで、スイートルームに1泊朝食付き61ドルで泊まっている。部屋が広すぎるのだが、あまりにも快適である。

バンコクを訪れるのは4年ぶりだが、来るたびに町が洗練されてきている感じがする。空港からのタクシーも、当たり前だが、ちゃんとメーターで走る。車も、多少渋滞はしているが、秩序立って走っている。隙あらば割り込んでくるマカッサルの道路が遠く感じられる。

やはり、マカッサルやスラウェシに関わるこそ、ときには外の世界を定期的に見ておくことが必要だと思った。世の中は絶えず変化しているが、1カ所にずっと関わると、その感覚が知らず知らずに萎えてくる。そして、外の世界の変化を見ながら、マカッサルやスラウェシの変わっていくもの、変わっていってはいけないものなどを、常に新鮮な感覚で見られるようにしていかなければ、と感じた。

今日の夕方便で、ホーチミンへ発つ予定。

2008年12月16日火曜日

師走・・・なのかもしれない

12月15日、マカッサルに戻った。

先週の大分・東京訪問中は、なぜか暖かい日々が続き、汗ばむほどだった。滞在中には様々な出来事があったが、個人的には、由布院で歩いた幻想的な霧に覆われた夜道や、落葉した木々の凛とした姿に、改めて感動した。

また、今回、我々を温かく迎えてくださった方々の、真摯で前向きの姿に、自分自身がとても勇気づけられた。新しい何かを始めたい、いや始めていかなければ、と思わせる力をいただいた気がする。

さて、マカッサルに戻って早々、16日夕方の会議に出た後に夜中の便でクンダリへ飛び、17日朝から会議に出て、翌18日早朝便でマカッサルへ戻り、そのまま夜まで会議、といったドタバタの日々が始まった。ほんと、師走・・・なのかもしれない。

そして、本格的な雨季がいよいよ始まっていた。


2008年12月8日月曜日

今週は大分、東京

怒涛のような1週間の仕事が終わり、ホッとする間もなく、今は東京に来ている。北スラウェシ州議会・政府訪問団が自前予算で一村一品運動に関する視察を行うのに同行するため、今晩、福岡に飛んで、明日彼らを出迎えてから、由布院を中心として12日まで大分県にいる。

今朝、成田に降り立ったら、やはりかなり寒い。でも、スカイライナーから眺めたイチョウの黄色や葉っぱの落ちた木々がとても印象的だった。マカッサルに住んでいる自分の、自然の移ろいに対する繊細な感覚がやや萎えてしまっていたのかもしれない。

14日に成田を発ち、バリに1泊した後、15日にマカッサルへ戻る予定である。インドネシアから持ち帰ってしまった残務は、果たしてこの滞在中にどこまでやり終えられることやら・・・。

2008年12月2日火曜日

マサンバのバゲア、お取り寄せ!

以前、このブログでご紹介したマサンバのバゲア(詳細はこちらを参照)。ゴチゴチして固い、というのが一般的な印象のサゴやし・クッキーのバゲアだが、これは、サクッとしていて、お茶やコーヒーと一緒に食べると口の中でホワッと溶けるような、ちょっと違ったサゴやし・クッキーである。

このマサンバのバゲアを試しに取り寄せることにした。第1弾は12月6日にマカッサルに到着、とりあえず30袋である。この機会に購入し、味を試してみたい方は、ぜひ、私のメルアドまでご一報を。

好評ならば、今後、定期的に取り寄せ、どこかで販売できるようにすることも考えてみたい。すでに何人か、このバゲアのファンになってくださった方々がマカッサルにいる。

ほかにも、地方の銘品探しを続けていく予定。マカッサル以外にお住まいの方、どうかご容赦を。


2008年11月30日日曜日

我が家のお手伝いさんの結婚式


我が家には、お手伝いさんが二人いる。一人は料理、一人は掃除・洗濯と一応別れているが、二人で協力して家の諸事をこなしてくれている。料理のお手伝いさんとはかれこれ12年、掃除・洗濯のお手伝いさんともおよそ8年の付き合いだ。すなわち、前回、マカッサルに滞在していた時に使っていたお手伝いさんをまた使っているのである。ずいぶんと長い付き合いになったものだ。

今回は、掃除・洗濯を担当しているトラジャ人のお手伝いさん(キリスト教徒プロテスタント)の結婚式である。11月22日、小雨降るなか、場所はマカッサル市東部アンタン地区のとある小さなトラジャ(ママサ)教会。彼女からは「アンタンの教会で午後4時から」と伝えられていたが、アンタン地区にはトラジャ人がたくさん居住しており、トラジャ教会もたくさんある。そう、どの教会で行われるのか、わからないのである。

料理のお手伝いさんの旦那とその6歳の息子の先導で、掃除・洗濯のお手伝いさんがよく行くという親戚の家を訪ね、そこで結婚式が行われる教会の場所を聞く。聞くと、そこには教会が二つあるという。まあ、ともかく目指す教会には着いた。

もう午後4時というのに、人影はまばら。しばらくすると、着飾ったおばさんたちの集団が到着。どうやら、きちんと連絡を取り合っていないらしく、花嫁はまだ美容院にいる様子。「なにやってんのかしらねえ」「花嫁は花婿と一緒に教会に行けばいいって言ってるみたいよ。おかしいわよね」などなど、半分怒りながら、ベチャベチャしゃべくっている。ちょっと険悪な雰囲気になってきたので、おばちゃんたちに「写真を撮りましょう」といって写真を撮ったら、ムスッとしたおばさんたちのなかで、小さい女の子がマンゴーを手にポーズを取ってくれた。


それから30分ぐらいして、新郎・新婦が到着。トラジャ教会で式が始まる。讃美歌が毎回歌われる(歌えない私はただじっと聞くだけ)。讃美歌の合間に、牧師さんの長い話がある。その繰り返しで、席を立っては讃美歌、座っては牧師さんの話と讃美歌、また起立して讃美歌、という具合である。当然、子どもたちは飽きて教会の中を動き回ってギャーギャー騒いでいるが、牧師さんはお構いなしに話を続ける。

式の最後のほうで、新郎・新婦に向かった牧師さんが、下の写真のように、両手を上に大きく広げ、呪文のような言葉をかけていたのが面白かった。そうこうして、式は約2時間かかって終わった。一緒に行った料理のお手伝いさんたちは「ふーっ、長かった」と思わず言葉をはいた。


さて、この掃除・洗濯のお手伝いさんのお相手は、パサール・ダヤ(ダヤ市場)周辺で働いているオジェック(バイク・タクシー)の運転手である。「なぜ彼と?」とお手伝いさんに聞いたら、「それは運命です」と彼女はにやっとしながら答えた。そして新居は・・・我が家である。こうして、我が家には、お手伝いさん2世帯が同居することになった。一段とにぎやかになった我が家である。


2008年11月23日日曜日

Who's Foods 2008

インドネシアの仲間と一緒に、FacebookというSNSに入っている。そのなかに、私の好きな食べ物の写真を集めたアルバム”Who's Foods 2008"を開設した。興味のある方は、このページをのぞいてみてほしい。

そう、来年も"Who's Foods 2009"を開設したいと思っている。


2008年11月17日月曜日

ジェネポントの村で見つけた企業家の芽


11月15・16日は、南スラウェシ州ジェネポント県の村に出かけていた。この辺は、年間降水量が少なく、農業が十分に行えないため、男はマカッサルなどへベチャ曳きなどとして出稼ぎに出かけ、女は男の帰りをじっと家で待っている、というのが特徴、と言われてきたところである。南スラウェシ州で最も貧しい、といわれる地域であった。

それが、この村の海辺の集落では、5年ほど前から始まった海藻栽培で状況が一変した。それまで、漁師として海に出て年間200万ルピアぐらいしか稼げなかった家が、海藻を始めてからは年間で2000~4000万ルピアを稼げるようになった。実際、かつてこの辺では見られなかったコンクリート造りの家が何軒か建っている。海藻栽培は、女性に雇用機会をもたらし、夫を待っているだけだったのが、毎日、海藻とりで女も忙しくてかなわないのだ。海藻栽培が軌道に乗ったため、男は漁に出るのをやめ、魚は釣るだけになった。化学肥料も農薬も使わない海藻栽培は海にやさしいだろう。しかも、破壊的な漁をすることもない。今のところ、海藻栽培は環境にやさしく、しかも収入が昔の10倍にもなる魔法のような仕事になっているようだ。

この村の山のほうの集落へ行ってみる。幹線道路からわずか15分程度なのに、電気がまだ入っていない。ちょうど、カポック棉が実って、収穫期を迎えていた。カポック棉は枕や布団のなかに詰められる棉の一種で、道の周りにフワフワっと踊りながら落ちて舞っているのが、この時期の南スラウェシ南部の風景である。


この集落では、2年前から、カポック棉で出荷するだけでなく、枕や布団のキレをマカッサルから買ってきて、中にカポック棉をつめて、完成品にして出荷することを始めた。仕切っているのは、バンタエンの華人商人だが、ブルクンバやタカラールにも店があって、あちこちで売られているという。


この山のほうの集落で、農産物加工を一人でやり始めた女性に出会った。キャッサバを植えても、ネズミにかじられるのではもったいないと、キャッサバ・チップスを作り始めた。また、研修でトウモロコシを使ったポップコーンのようなお菓子ジャグン・マルニンの作り方を覚えて、試しにつくって、近所の中学校で売ったところ好評で、毎日作った分は必ず完売する、という。それ以外にも、夫が取ってくるカポック棉を集配して、枕や布団に詰める材料として売ったりもしている。

多くの女性がまだ何もせずに家で男の帰りを待っているなかで、どうしてそんなに朝から晩まで動き続けるのか、と周りの女性から聞かれるのだという。この彼女は、原材料費がいくら、燃料費がいくら、売り上げがいくら、とすべて計算したうえで農産品加工をしている。そして、ジャグン・マルニンなどで着実に利益を上げている。

6歳の息子が一人、小学1年生だが、勉強が好きで、放っておいても一人で絵を描いたり計算をしたりしているおとなしい子だ。彼女は14歳で結婚、現在21歳である。彼女が家に戻ると、小1の息子は、母親のいない間に、ジャグン・マルニンの材料になる地場の白いトウモロコシの実を小さな手で一生懸命に剥いていた。母親を助けるためなのか、その健気さに心を打たれた。

21歳の彼女がとても頼もしく見えたことは言うまでもない。いつも完売するというジャグン・マルニンを次回はぜひ食べてみたいと思った。

インドネシアの地域の片隅には、彼女のような企業家の芽が、まだまだたくさん、人知れず息吹いているのではないかと思った。そして、それを見つけられない行政やよそ者の目利きのなさと怠慢が、そうした芽を土に埋もれさせたままにしていっているのではないか、と思った。少なくとも、野辺に生えた小さな企業家の芽を見つけたら、それを励ましてあげたい、と心から思った。

近いうちに、このブログで彼女のジャグン・マルニンを紹介できることを祈っている。乞うご期待!


2008年11月15日土曜日

マカッサルに戻ったら・・・洪水

11月13日にマカッサルに戻ったら、空港から自宅に向かうJl. Perintis Kemerdekaanのあちこちで、水があふれ出ていて洪水、車は渋滞した。道路の拡張工事が続いていて、ところどころ、排水溝が埋められてしまったため、道路上に水があふれているのだ。

渋滞に悩まされながらも、大変だなあ、とのんびり構えて家に着いたら・・・。

我が家の前庭も水がたまって洪水になっていた。家の中まで冠水することはないので大丈夫だが、隣の店舗兼住宅(ルコ)を建てているところや道路よりも若干前庭が低いため、水が流れ込んでくるのである。幸い、仲間たちが我が家から排水溝への水路を確保し、排水溝も流れていたので、気長に待つことにした。

翌朝、前庭の水は引いていた。いよいよ、本格的な雨季の到来、である。


2008年11月14日金曜日

ドンガラの海を見ながらラヴェルを聴いた夜


11月11~13日、中スラウェシ州ドンガラ県へ出張した。パルから車で約45分の古い町ドンガラの先に、珊瑚礁で名高い海岸がある。今回の宿泊先は、そこのPrince John Cottage。ドイツ人が経営するコテッジで、部屋の前には、パル湾の海が広がっている。

私の部屋は、なぜか海に面したベランダの電気が点かなかった。でも、それがよかった。真っ暗な海、海の向こうの山々にかかる雲の合間からピカッと現れる雷光。満月に近い月が雲の合間からおぼろげに形をみせる。その下にはオリオン座とおおいぬ座。

波の音しか聞こえてこない静寂な夜、海から吹いてくる風に当たりながら、iPodで聴いていたのは、ラヴェルのマメールロワ。暗い深遠な海の風景がなぜか奇妙なくらいラヴェルの音楽にマッチしてくる。様々なことを思い出しながら、贅沢な時間を過ごす気分に浸っていた。




2008年11月11日火曜日

フランス料理の会(第2回)

10月28日、de Lunaでフランス料理の会(第2回)を楽しんだ。メニューは以下の通り。

Roasted Jumbo ShrimpFlavored with Lemongrass and Coconut


Roasted Red Snapper, Basil Gazpacho, Black Glutinous Rice, and Vegitable Skewers


Warm Strawbery Soup with Diced Mango, Apricot-Peach Sorbet

今回のテイストは、面白かった。すなわち、フランス料理をベースとしつつ、インドネシア料理のような味付けをミックスさせていた。前回の何となく無難な味付けからすると、新しい味を出してみようという意欲がより表れていた感じがする。


2008年11月2日日曜日

新刊:Syair Perang Mengkasar


仲間が運営しているイニンナワ出版から"Syair Perang Mengkasar"という本が出版された。これは、1963年にオランダのKITLVから出版された"Sja'ir Perang Mengkasar: the Rhymed Chronicle of the Macassar War"のインドネシア語版翻訳である。これは、17世紀に起こった、オランダとゴワ王国との間の戦争に関して、ゴワ王国のスルタン・ハサヌディン王の書記であったEnci' Aminが書き残した叙事詩とでもいうべきものである。この戦争に負けたゴワ王国の側から書き記したものとして、彼らがオランダやそれに追随したボネ王国やブトン王国をどのように見ていたかが垣間見られ、興味深い。

出版元のイニンナワ出版は、10月27~29日まで、本書の出版を記念した討論会をハサヌディン大学で開催した。

本書を注文される方は、私のメールアドレスまたはイニンナワ出版に直接知らせてほしい。

Syair Perang Mengkasar
oleh Enci' Amin
C. Skinner (editor)
translated by Abdul Rahman Abu
Penerbit Ininnawa bekerjasama dengan KITLV-Jakarta
viii+248 pages
ISBN 979-98499-8-5
2008

マナドのトゥデ、オチ

マナドのおいしいものについては、これまで何度か紹介してきたが、私が一番好きなのは、実はトゥデ(Tude)またはオチ(Oci)である。いずれも、小ぶりのアジであり、これをシンプルに焼いたものを、さっぱりしたダブダブ(dabu-dabu)で食べる。このシンプルさがなんともいいのである。


上の写真はトゥデ。オチよりも小ぶりだという。これに、空心菜(カンクン:Kangkung)をあっさりニンニクで炒めたものが添えられる。たったそれだけである。見栄っ張りのマナド人が他人に見せずに自分で食べる料理なのかもしれない。

以前は、注文してから1時間近く、魚が焼けるまで待たされたものだが、今回は10分くらいで出てきた。海岸地域の開発で、多くのトゥデ屋・オチ屋が立ち退きを余儀なくされ、ジャカルタなどへ移ったという。

辛めでボリュームのあるマナド料理に飽きたら、ぜひ、トゥデやオチを味わってほしい。